渡邊 奈々
チェンジメーカー~社会起業家が世の中を変える
 従来の医療機器および製薬会社は、少ない生産量と高い価額で巨大な利益を生み出し、それらを一番必要としている途上国の人々は販売の対象から外されている。という言葉がアートにも応用できないかと思う。
 美術館の企画展は高くても1,500円ぐらいであるから、多くの人は見ようと思えば見れるわけであるし、そもそそも一番必要としている対象がはっきりしない。だが昨今の能力開発によれば、右脳と左脳をバランスよく使いわないとさまざまな諸問題をうまく解決できないらしいことからすると、右脳を刺激する分野として本来われわれに必要不可欠なのものといえるはずであるから、全てのひとに必要なのであろう。
 個々の作品を見ているだけではどうしてもそれに対するイメージで終わってしまうことが多いので、ストーリーテリング(カタラヤのHP参照)等の手法を活用して作品をとおして・・・・・てなことを考えてみようか
 その題材としてはゴッホの作品は役立つと思うのだが
 そういう場をつくるには 各美術館のライブラアリーの有効活用が不可欠だと思う

 名古屋ボストン美術館で開催されている「ボストン美術館の巨匠たち」を見てきました。ゴッホの郵便配達員 ジョゼフ・ルーラン がめあてだったのですが。「ゴッホ展」のルーラン婦人と連れ合いです。婦人と比べると絵の具の塗りかたが淡白な感じがします。

 図録のボストン美術館理事長によると この肖像画に見られる大胆な色づかい、鮮明な輪郭、構図は、全て浮世絵から借用したものと言えましょう。例えば、人物の配置によって、この作品はゴッホが賞賛した日本の版画に似た平板な画面を呈しています。また、そのためにルーランの肖像を直接的に感じ取ることができるのです。・・・・・

 半分ぐらいは納得できますが、文化の違いを感じます。平板な画面は逆に物足りなさを感じます。図録の写真からはそういうふうにはかんじられませんが、直接見ると触感がかなりことなります。やはり現物をじかに触れる必要があります。

 ・・・したがって今、ジェンダー論に求められているのは、芸術のなかに、理論を補強する素材や批判の対象を見つけ出そうとすることではなく、身体を表彰する芸術が、私たちのコミュニケーションの中でいかに機能しうるかを語ることであろう。 21世紀のアートがわかる現代美術の教科書より

 芸術文化を普及させる施設において 身体をとりあげるダンスにおいても 同様にそういう表現であるダンスが私たちのコミュニケーションの中でいかに機能しうるかを語る責任があるのだろうと思う

 ポスト構造主義では、私たちひとりひとりが生きる現場での実践が重要な意味を持ちます。それこそが歴史の創造につながります。 図解雑学構造主義より

 表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること、鑑賞者側ではその働きかけに何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件とされる。これに関して、表現者側では、自分の作品を構成するにあたり、先人の影響を受けたり、既に様式が決まっている表現方法、媒体を用いたりすることはよく行われるので、必ずしも表現の内容が完全に自分の創造性にのみよっているとは限らない。また鑑賞者側が、その表現が前提としている様式の暗号を知らないと働きかけはうまくいかない。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

 現代美術であれ音楽であれ混沌としているともいえるが、それはポスト構造主義の表れであり、その状況下では各人がその表現の暗号を読み解く力が要求されるのであるから、ひとえに芸術だけでないであろうがその現状は各人の意思の集積の結果だといえるのだろう。・・・

 図解雑学構造主義によると 文学作品をテクストして扱うのが最近の主流とのことだが これは芸術全般にいえることなのだろう

 日経に有名なオペラ歌手が 最近の指揮者は作曲家の意図を勝手に変えて 演奏者に強要すりのが我慢できないということが書かれていたが これも文学作品と同じことだと思う 作曲家の作品も 指揮者がテクストとして解釈し 演奏者に自己の解釈を演奏させるのだろうが そのとき演奏者の解釈と当然異なるのだろう そのさいどこまで折り合えるかということなのだろう

 ダンスでも同じことなのだろう 踊り手が振付師の振り付けどおりに踊るさい 自分の解釈と異なることをどこまで許容できるのか 新人の登竜門の開設で 有名な踊り手が 振り付けしの振り付けを酷評し 優秀なダンサーがかわいそうだと嘆いているのも そういうことなのだろう

 サッカーでも 三浦氏が何かのインタビューで答えていたが 監督の言いなりにプレーできないというのも

 マラソンの高橋について新聞のコラムで 監督の指導のもとにトレーニングするさい 人形のように従ってきたが 三十を超えた女性の指導経験がない監督のもとでのトレーニングに 高橋の肉体が拒絶し始めたのであろうと

 つまり どんなことであれ ある表現に対して 表現されたそのものを解釈するのは それぞれの各人の解釈がある そうである以上 コミュニケーションにより互いに理解しあうか違いを認識し そのうえでの協同が成立して はじめて表現活動等が存在価値駆るものになるのだろう

 アートマネジャーなどは 表現者と受け手をつなぐものなのであろうが 表現者間をつなぐ人はだれなのであろうか

岩城 宏之
岩城音楽教室―美を味わえる子どもに育てる
 音楽と美術という差はあるが 美を味わう にはお勧めの本です つまるところ自分でよく考えて物事を判断しなさい ということが美をあじわうことかなという気がする
 中日新聞に アートマネジャー 作家と住民をつなぐ役割をすることを職業とする人の紹介がされていたが そもそも日本では アートを特別なものとして扱いすぎるので そういうアートマネジャーなる人がしばらく必要とならざるを得ないのであろうか? よくわかりませんではなく好きでありませんといえるようになるまで?

 文化を研究することで、逆に文化の束縛から逃れようとするのがカルチュラル・スタディーズだ。 文化とは分類の秩序である。・・・文化は、文化自体を高級文化と低俗文化に分けるのである。 しかし、外から眺めるような態度で、高級と低俗という区分を無視して研究するなら、私たちは自分たちの属する文化の束縛から逃れられるだ。 図解雑学構造主義より

 高級文化とされてきた芸術に関して、そういう手法に注意しながら、つまりゴッホの画を見直してみると よりゴッホのアートの核心にせまれる気がする。

 

 名古屋でのゴッホ展には ドービニーの庭が残念ながらきていないのだが ゴッホの遺言を読んでゴッホが好きになった私としては非常に残念だ 同じ場所をゴッホは2点描いているのだが 別人が書いたようにおもわれるほど印象が異なる 図録によると当初描かれたものよりも 筆触が秩序立てられ、色彩に柔らかみが加わっている と記述されていれる

 そこで全油彩画が掲載されていて印刷の色がわりとよさそうな本を購入して見てみた 残念ながら図録のほうが現物に近く そちらの方はかなり緑がかって見えるので比較しずらい面はある それはともかく 随分とゴッホは同じ題材を何度も描いているが それがかなり趣が異なっているのはなぜなにかそこが知りたい

 GOOの教えてではないがそういう疑問に答えてくれるように美術館で質問を公開で受け付けるようにして欲しいものだ すでにしていたかも知れないが

インゴ・F. ヴァルター, ライナー メッツガー
ゴッホ全油彩画

 図録なるものを今まで買うという行為じたいばかばかしいものだと考えていたが ゴッホ展の図録を読んでみると 図録もなかなかいいものだと思えるようになった

 特にクレラミューラ美術館のところなどはなかなか興味深いです ゴッホを敬愛したヘレーネ・クレラー=ミュラーの分析によると ゴッホは生涯のある段階までは 自分の目に映ったものを描いていました 彼はその後 彼が見たものを主観的に解釈し抽象へと高めて描いたのです と 極めつけは その彼女のコレクションが オランダ政府の財政難により 暫定的な美術館を住処にいているということらしいです・・・

 図解構造主義より 文化とは人間世界に安定した秩序を作る。だが文化が必要だということは逆にいうと人という生物は本来無秩序だということだ。古来、文化はこの無秩序が露呈することを恐れてきた。だから秩序で人間を縛る保守性こそが文化の本質である。

 ここでいう文化とは宗教ともいえるのであろうが、芸術も同じなのであろうか。

 ただ宗教であれ芸術であれ同じ構造をなしているのだと思う。つまりある原則ができるがことなる考えが出てきてぶつかりあうなかで物事が進歩していくという弁証法的な歴史観である。

 ゴッホも当初は弁証法的な歴史観であったと思われるが、そういうものを乗り越えようとしていくなかで作品に変化があったのではなかろうか?