Live in the flow.

Live in the flow.

IT業界とライターの二足のわらじで働くシングルおかん。

アフリカ×日本Mixの3人の息子の子育てをほぼ終えて、3種6羽の可愛いインコたちとのんびり暮らしています。

大変ご無沙汰しております。

前回の更新が2022年5月ということで、実に1年半ぶりということになりますね。

 

私は今年に入って転職し、フルリモートで品質関連の仕事に従事しています。

50すぎて転職とは相変わらず腰の据わらない人生ですが、ソフトウェア品質×AI(人工知能)というずっとやってみたかったテーマに取り組めるようになったのはうれしい変化でした。

 

その関係で噂のChatGPTについても色々と研究しているのですが、いやぁ、すごいですねChatGPT。

ChatGPT3.5の頃は「へぇ、なかなか知能っぽくなってきたな…」というくらいの温度感でチラ見していた程度でしたが、ChatGPT4.0はレベルが違います。たった0.5で何この違い。

現状、4.0はChatGPT Plus有料プランに登録しないと使えませんが、月額20ドル払ってでも使う価値はあると個人的には思います。

 

 

ところで、ChatGPT Plusに登録するとGPTsという機能を使えるようになります。

これは簡単に言うと、ChatGPTを自由にカスタマイズして特定の目的のチャットボットを作れる機能です。

プログラミングなどは一切必要なく、「最初にこういう質問をして」「こんなトーンで会話して」「こんな流れで話を進めて」といったことを普通に日本語で依頼していくと、リクエストに沿って動くBotが出来上がるという寸法です。

喩ていうなら、建築デザイナーさんに建てたい家のイメージを口頭で伝えていくと設計図やパース図が出来上がる、という感じ。

 

面白そうなので、私も試しにひとつ作ってみました。

生年月日と性別を伝えると、算命学をベースに宿命や運勢を占ってくれるChatBotです。

 

 

 

生まれ日の干支の算出が間違っていますし、性格や健康運等も適当な感じはしますが、それなりに占い師っぽく回答できていますね(笑)

これを作るのにかかった時間が15分くらいだということを考えると、末恐ろしい時代になったなと思います。

遠からずAIが占い師を駆逐する時代がくるだろうとは思っていましたが、思ったよりも早くそのような時代が訪れるかもしれません。

(まぁ、占い師の役割は単に宿命を語ることだけではない、とは思いますが…)

 

さて、GPTのいいところは、間違っていた時に指摘すると素直に直してくれるところです。

さっそく生まれ日の干支が間違っていることを指摘してみました。

 

 

「ドンピシャ」とまでは言えませんが、まぁまぁ甲子のイメージに近づいてきましたね(笑)

この調子でしばらく使い続けていけば、占いの精度も徐々に上がっていくかもしれません。

 

 

余談ながら、上記で指定した1965年3月11日は楽天市場の創業者三木谷さんの生年月日です。

三木谷さんについては過去にこのような記事を書きましたので、参考までに運勢の流れも占ってもらいましょう。

 

 

うーん。当たり障りのないことしか語られていないような気もしますが(笑)、2018年から2022年にかけて重要な決断を迫られる局面があったというのは、楽天市場の歩みと照らし合わせると当たらずとも遠からず…?

 

 

 

ちなみにこのBot、私が算命学に関する学習データを体系的に与えたわけではなく、インターネット上に公開されているデータで学習したAIが自分で考えて回答を出してくれています。GPTおそるべしですね。

 

ただし、最初に生年月日と性別を聞いて占う分野を選んでもらうところ、最後に出力されている「運勢や宿命はあくまでも一つのガイドであり、実際の人生とは異なる」という意味のメッセージは私が指示して出してもらっています。

そういった具合に会話の流れやちょっとしたルールを指定して手軽にBotをカスタマイズできるのがGPTsの魅力です。

 

 

今回は算命学をテーマにしてみましたが、他にもたとえば、新規起業アイデアの構想検討を手伝ってくれるBot、指定した仕様に基づいてQ&A形式でサンプルプログラムを作ってくれるBot、今日の晩御飯のレシピを考えてくれるBotなど、色々な使い道が考えられそうですね。

 

 

ChatGPT Plusをご利用の方は、ぜひ試してみてください。

 

※「算命学占い師」Botは現在身内限定公開中のため、リンクの公開は差し控えさせていただきます。

 

 

2022年5月現在、わが家には3種6羽のインコたちがいます。


スターコザクラインコ

ウメとソラ


ウメは多分7〜8歳。虹の橋に旅立ったスズのお友達としてわが家にやってきました。

ペットショップで売れ残って半荒鳥になっていましたが、気が向けば肩に乗り、電気を消せば指に乗せてカゴにしまえるくらいには慣れました。


ソラは1歳半くらい。

スズちゃん亡きあとすっかり気落ちしてしまったウメちゃんのお友達候補として、さし餌一日一回くらいの時にお迎えした子です。

手乗りなので呼べば飛んできて指に止まったりもしますが、人間よりもウメちゃんとベタベタしている方がいいようです。




ご覧のとおり、大変仲良しのカップルですが、実はどちらも女の子(笑)

一時期、割と気合いの入った交尾をしていたためてっきり♂♀かと思って巣箱を入れてみたら、2羽それぞれが巣箱の中と外で卵を産みました(笑)



スターオカメインコ

くぅちゃん(♀)と銀次郎(♂)


くぅちゃんはルチノーの女の子で、2歳半くらい。



本名は一応「くるみちゃん」ということになっていますが、本当は「よく食うからくぅちゃん」です😆


生後4ヶ月くらいでお迎えしたのですが、「オカメはビビリなので、2〜3日は餌を食べないかもしれません」というペットショップのお姉さんの言葉をあっさり裏切って、連れて帰る車の中でずうっと粟穂を貪っていました。

くぅちゃんが忙しなく餌をついばむ様子は、インコというより昔飼っていたメンドリを彷彿とさせます。


銀次郎さんはWFノーマルの男の子で、くぅちゃんお迎えの半年くらい後にパートナー候補としてわが家にやってきました。くぅちゃんより少し年下で、いま2歳くらい。



おしゃべりも口笛も得意な芸達者さんです。

初めの頃は「銀ちゃんダヨ」「ダイチュキだよ」といったかわいいセリフを口ずさんでほっこりさせてくれていたのですが、いつからか、教えてもいないのに「枝豆食べる人ぉ〜」ばかりいうようになりました。一見、枝豆を食べたい人を募っているように思えるかもしれませんが、自分が食べたいという意思表示に他なりません。


最近では「コーン食べる人ぉ〜」「ナッツ食べる人ぉ〜」などのバリエーションが加わりました。食べることばかり考えています。しかし、その実くぅちゃんほど食に熱心ではありません。


あわよくば夫婦に…と思って♂♀でお迎えしましたが、あまり仲は良くありません(笑)



スターウロコインコ

こつぶ(♂) てまり(♀) 


こつぶはワキコガネインコ(ブルー)の男の子で、そろそほ一歳のお誕生日を迎えます。

オカメの止まり木を買いにペットショップに行った際にたまたま目が合って一目惚れし、衝動的にお迎えしてしまいました。


コザクラもオカメもそれぞれのかわいさがありますが、ウロコインコの可愛さは格別ですね。

「肌色のものはとりあえず噛む」というコザクラ、「飼い主はカキカキマシーン」と考えている(多分…)オカメたちは程々の距離感で飼い主と付き合ってくれているという感じですが、こつぶはまさにベタ慣れ。カゴから出したら私のそばから決して離れようとしません。体を触られることにも抵抗がないので、背中でもお腹でもモフり放題です。


こつぶはおしゃべりをしますが、銀次郎さんほどはっきり発音するわけではなく、よく聞けばなんか言ってるのがわかる、というレベル。

ただ、知能はおそらくダントツに高く、言葉もよく理解します。目を見て「噛んだらダメよ」といってから指を出せば絶対に噛みませんし、「おうち帰ってナッツ食べようか」というといそいそと指に乗ってきます。


足が器用で、ひまわりやナッツなどを片足に持ってもぐもぐする様は見ていて飽きません(^_^*)




てまりはホオミドリアカオウロコインコの女の子で、まだ生後3ヶ月くらい。赤ちゃんぽさが抜けません。大変な甘えん坊で、呼び鳴きも放鳥時のべったり度合いも相当なものです。


小さい頃から分別くさい感じだったこつぶとは対照的に、落ち着きないことこの上なし。カゴから出してテーブルの上に離すとゴキブリ並みの高速で走り回り、目についたあらゆるものを片っ端からくわえて下に落とします。




臆病なこつぶとは違い「この世に怖いものなも何一つありませんわ」いう女傑で、ぬいぐるみなどもへっちゃらです。




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インコを6羽飼っているというと「6羽⁉︎」と驚かれることが多いのですが、子供の頃からたくさんの鳥と暮らしてきたためか、6羽って割と普通な気がしています。


まぁ、数が増えればお世話する手間はそれなりに増えますが、一羽一羽性格の異なる鳥たちと暮らすのはなかなか楽しいものですよ😚



先日、突発的に、「自家製のパンを焼きたい…!」 という欲求に襲われ、古いホームベーカリーを引っ張り出してきました。

 

ある日とつぜんやみくもな衝動に襲われ、またある日突然その衝動が消え去る、というのは、私の人生の一つのパターンだと言えるかもしれません。このような性癖のため、急に思いついて買った燻製機やヨーグルトメーカー、サイクリングマシーンから果てはレザーカービングやガラス細工用の器具ひと揃いなどなど、さまざまな「衝動の軌跡」が我が家の物置にしまい込まれています。

 


それはさておき、長年使っていなかったにもかかわらずホームベーカリーはまあまあな状態でしたので、早速パンを焼いてみました。

ひとたびやり始めると、熱が冷めるまで猿のナントカのごとくそればっかりやっている、というのも私の人生の特徴で、何年かぶりにホームベーカリーのフタを開けた日から若干2週間の間に、ふつうの食パンからデニッシュ、米粉パン(←失敗して柏餅風味の何かになった)、米粉入りパンメープル風味、チアシード入り…と多種多様なパンを焼き、ついに自家製酵母を作るところまで来てしまいました。

 

 

▼最初に焼いたメープル風味の米粉入りパン/チアシード入り

 

 

▼ついに作り始めてしまった自家製酵母(←が紅茶、右がレーズン)

 

 

昨夜は四連休の初日ということで少々気分が上がっており、真夜中にふと思い立ってパン作りを始めました。

夜のうちから仕込んでおけば、翌日の朝には焼き立てのパンを食べることができるでしょう。

 

私の目論見は無事実を結び、日曜の朝8時には予約通りほかほかのパンが焼きあがっておりました。

 

 

 

ちょっと厚めに切ったパンにバターを載せ、カリカリベーコンを添えた目玉焼きと豆から挽いて淹れたコーヒーで、日曜日の朝ごはん。

「こういうのを贅沢な朝食っていうのかしらね💓」

…などと考えつつパンをかじりかけて、私はふと手を止めました。

 

 

待てよ、と。

 

 

贅沢というなら、自分は何もせず、人様が作って下さった朝食をただおいしくいただく方が贅沢なのではないか。わざわざ夜中にキッチンでゴソゴソと翌日のためのパンを焼くのが、果たして贅沢だと言えるのだろうか。

というか、そもそも「贅沢」ってどういう意味なのだろうか…?

 

疑問を持ったらすぐ調べられるのが、スマホ&インターネット時代のありがたさですね。

goo国語辞典によれば、贅沢には以下の二つの意味があることが分かりました。

 

 

1. 必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。また、そのさま。

2. 限度や、ふさわしい程度をこえること。また、そのさま。

 

 

 

私が今回パンを焼くのに費やした材料代は、どう高く見積もっても100円前後というところです。電気代を加えたところで、100円が200円になることはないでしょう。私の夜間割り増し人件費をまともに計算に入れれば確かに高価なパンになりますが、自分が好きでやっている事なので、そこは考えなくてよい気がします。

 

そうすると、贅沢の意味のうち、少なくとも一つ目の「必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと」には該当しなさそうです。

では、二つ目はどうでしょう。

 

「限度や、ふさわしい程度を超える」

 

草木も眠る丑三つ時にキッチンでパンを焼く姿は、一般的常識に照らし合わせるとたしかに限度を超えている感があります。しかしそれは、「贅沢」とはまた違ったベクトルでの限度超過でありましょう。

 

「相応しい程度を超える」に至っては、そもそも比較の基準が分からない。私にふさわしい日曜の朝食の基準などというものがどこにあるというのか。

 

このようにつらつら考えていくと、そもそも手作りパンで朝食を取ることを「贅沢」と感じる感性が間違っているのではないかというところに思い至ります。でも、よく使われていますよね、「手作りパンで贅沢な朝ごはん」的表現?

 

これはいったいどういうことなのでしょう。

私だけでなく、日本国民全体で盛大に「贅沢」の意味をはき違えているのでしょうか。

 

 

…とそのあたりまで考えたところで、「まっ、いっか」と思考を切り捨て、一旦皿に置いたパンをもう一度手に取りました。

ほかほかだった手作りパンは、「贅沢」の意味を考えていた時間の分だけ熱を失っていたものの、十分にふんわりモチモチして、噛みしめるほどにじんわりと美味しさが広がります。

 

結局、それが「贅沢」だったのかどうかはよく分からないまま、幸せな朝食をしみじみと堪能した日曜の朝。

 

こんにちは。
なんと9ヶ月ぶりの更新となってしまいましたが昨日、ちょっと衝撃的な体験をしたので、備忘録として書いておこうかなと思い、久々にアメブロを開きました。

私はかねてより、「眠りに入る瞬間」ないし「目覚める瞬間」をなんとか捕捉できないものかと苦戦してきたのですが、昨日ついに目覚めの瞬間をキャプチャーするのに成功しました。

きっかけとなったのは自分のイビキです。

時は1月10日お昼過ぎ。
鳥籠の掃除を終えてささやかなお昼ご飯をいただき、
「さて、お腹も膨れたし、ちょっと仮眠でも取ろうか…」
とベッドでミステリーなど読みつつうつらうつらしていた時でした。

皆さんもそうだと思いますが、眠りに入る瞬間というのは、普通はまず補足することができません。
「今夜こそ補足してやるぞ…!」とばかり寝入りばなに瞑想モードで気を張ってみても、気が張っているうちは眠りが訪れないわけで、結局、気が緩んだところでスーッと眠りに落ちて終わりです。

寝起きは寝起きで、寝ている自分には普段のような意識がないわけですから、「今日こそ目覚める瞬間に気付いてやろう」と構えることもできません。

昨日の私は、退屈なミステリーに誘われて安らかな眠りに入りました。
そしておそらくは数十分ののち、突如響きわたった「ングォー!」という爆音で、私は目を覚ましたのです。


その瞬間。
真っ白で無音の何もない世界に唐突に音が現れたその瞬間の衝撃は、今も忘れられません。

「何もない世界」というのは、要するに覚醒時に「私」をコントロールしている顕在意識がオフになっていたという状態であろうかと思いますが、原理はともかく、その「一瞬前まで何もなかった。いま、突如世界が始まった」とでもいうような鮮烈な転換にしばし呆然となり、呆然となるあまりうっかり二度寝に入ってしまうところでした。

…というのは冗談ですが…(笑)


実際のところ、自分のいびきで目を覚ましたことは過去にも何度かありました。しかし、意識が始まるその瞬間を捕らえられたのは今回が初めてです。

おそらくどれだけ言葉を尽くしても、その時に私が受けた衝撃をありのままに伝えることは出来ないでしょう。
この記事を読んだ方の大半が、「自分のいびきで昼寝から目覚めたオカンの戯言w」という感想を持たれるのだろうことは、想像に難くありません。


でもいいのです。
これは長年の念願であった「眠りから覚める瞬間の補足」がついに実現した、記念すべき出来事なのだから。

そのきっかけが自分のイビキだったというのは、ちょっとカッコ悪いけどね(^_^)



緊急事態宣言発令からそろそろ2週間。
当面予定していた5月6日には全面解除は難しそうだ…という雰囲気が高まってきているようですね。

外出自粛には賛否両論あるようですが、もともと可能な限り家から出ずに過ごしたい私には、外に出られないストレスというのはあまりありません。
仕事はほぼ完全テレワークになり、通勤時間がいらなくなったおかげで、生活に大いにゆとりが生まれました。

ゆとりがありすぎて、なんなら毎日掃除機をかけている始末。
新型コロナのパンデミックが深刻な問題であるのは確かですが、個人的にはこのまま死ぬまでテレワークでも構いません。

***

コロナといえば、最近「A.C.  B.C.」といつ表記をしばしば目にするようになりました。なんのことかと思ったら、「After Corona(コロナ前)」と「Before Corona(コロナ後)」のことだとか。

新型コロナウィルス、恐れ多くもジーザス・クライストのお株を奪う…

「コロナは簡単には克服できないから、"After"ではなく"With Corona"の心構えで挑まねばならん」という意見もちらほら出ていて、これには私も同感です。

ウィルスは人間よりはるかに寿命(?)が短く、変化するスピードもその分早い。インフルエンザだってまだ克服しきれていないのに、こんな感染力の高いウィルスを早々に退治できると思う方が間違っています。

***

コロナによって世界のあり方が大きく変わろうとしているというのは、多かれ少なかれ誰もが感じている事でしょう。

こ難しい話は賢い先生方にお任せするとして、私がもっとも感じているのは「これで本格的に心の時代に入るのだろうな」ということ。

「そもそも心とはなんぞや」という定義が曖昧な中で「心の時代」なんて事を語るのもなんですが、私の中にあるおおまかなニュアンスは、「精神の価値が物理の価値を凌駕する」ということです。


***

話はいきなり変わりますが、SNOWというアプリをご存知でしょうか。
顔写真を色々と加工して楽しむアプリなのですが、このアプリの補正技術がかなり高度で、ちょっとした設定でまるで別人のような顔になります。

参考までに、これが私の補正後の写真。
誰やねん君…。

五十路オカンの寝起きのすっぴんがこうなるのですから、もはやこの世に信じられるものなどなにもありません。
息子に見せたら「アプリ怖ぇ…」と驚愕していました。

すごいのは、ナントこれが静止画だけではなく動画にも適用できるということ。つまり、その気になれば捏造した顔でYouTuberになることもできてしまうのです。

おそらくは近いうちにこうした機能がLINEやZoomに搭載され、現実の姿を晒すことなく人とコミュニケーションをとることもできるようになるでしょう。

昔読んだSF小説に、自分の姿を自由に取り替えて生きる未来の話がありましたが、少なくともデジタルの世界では、既に技術的にそれができる土台が整ってきているわけです。

そこに今回の新型コロナパンデミック。

外出を制限された人々の中に、Zoom飲み会みたいなオンラインでのコミュニケーションが浸透する。
それと並行して、アバターのように自由に自分の姿を変えるのがごく一般的なことになれば、人の共通認識が「物理的な容姿にたいして意味はない」という方向に流れていく可能性は高いんじゃないかな。

同じようなことは、身体や持ち物、暮らしぶりなどにも多分起こってくるでしょう。

そして…およそありとあらゆることを捏造可能なデジタルの世界において、最後に残る「真実」が、精神のあり方なのではないかと思うのです。

まぁ、その精神のあり方すら、いずれはAIによって捏造可能となる日が来るのかもしれませんけれど…。

そうなった時に世界がどう変わるのか…これはなかなか面白い思索テーマになりそうです(^_^)


オマケ

やればできるオカンが昨夜作ったコブサラダ。
アボガドと四種の豆がいい味出してくれました♪

私はツイッターのアカウントを二つ持っています。

一つめはかれこれ12年使い続けているもの。
その時々に関心のあったキーワードで色んな方と繋がってきた結果、さまざまな職業・年代の方を3500人くらいフォローさせていただいています。

もう一つは海外へ渡った長男とつながるために作ったアカウントで、「ジョージア移住」「大麻合法化」と言ったキーワードつながりを中心に200人くらいの方をフォロー。厳密に調べたわけではありませんが、20代〜30代前半くらいの若い方が多いような気がします。

今はどちらのタイムラインも新型コロナウィルス 関連の話題で持ちきりですが、双方を交互に眺めていると、漂ってくる雰囲気がずいぶん違うことに驚きます。

古い方のアカウントでは、タイムラインに流れてくる意見は賛否両論です。例えば政府の動向などについても、批判する人もあれば賛同する人もある。
一方、息子つながりのアカウントからは、政府や現場の体制に対して批判的なムードを色濃く感じます。


両者を交互に眺めていると、世界の見え方は切り取り方によって全然変わってしまうのだなぁ…ということを改めて感じます。

***

ツイッターのタイムラインを見ていると、「それこそが世界の総意である」という感覚に陥りがちですが、それは錯覚に過ぎない。
タイムラインという名の小さな世界は、自分の意思で作り上げた、ごく偏った世界でしかないのでしょうね。


同じようなことは、現実の世界についても言えそうです。

私たちに見えているのは、自分が組み上げた条件式で構成された、一人ひとりのオリジナルなビューでしかない。

同じ地球上の同じ時代を生きていたとしても、一人ひとりの目に見えているものはまったく違う…そう考えると、人が集えばそこに争いが起きてしまうのは、ある意味やむを得ないことなのかもしれません。



オマケ

うっかり居間のテーブルに放置した結果、コザクラさんにザクザクやられてしまった次男の教科書。



そして、イノセントな瞳でシラを切る犯人(鳥)がこちらです。





緊急事態宣言で外出自粛…ということで、この週末は久しぶりにお家ご飯でした。

三男と二人きりだと外食の方が手軽で安いのですが、大食い巨人の次男がいる時は、自宅飯の方が経済的。


久しぶりだったので、ちょっと張り切ってタコライスを作りました♪

目玉焼きちょっと焼きすぎちゃった。


副菜は、鶏胸肉の塩レモンソテー。


と、きゅうりとしそをごま油ベースのたれで和えたやつ。


しそときゅうりってゴールデンコンビですよね〜(^_^)


さて、来週の週末は何を作ろうかな♪



緊急事態宣言で外出を自粛しているため、昨日からずっと本を読んでいます。

…すみません、ちょっと嘘(笑)
緊急事態宣言が出ようが出まいが、休日はだいたい一日中本を読んでいます。

この週末に読んだのはこちらの小説。




安楽死をテーマにした警察小説で、犬養刑事シリーズの4作目。
ミステリーとしてはそれほど鮮烈ではないものの、安楽死にまつわる様々な問題を丁寧に織り込んだ、味わい深い作品でした。

この本を読んでいて思ったのは、安楽死問題と大麻合法化の問題には類似点があるなということ。
どちらも日本の法の下では犯罪だけれど、世界に目を向ければそれが合法な場所がある。違法行為でありながら、合法化を切望する人がいる。

そして、本人が望んでそれを選ぶ限り、他人に直接的な不利益を与えるものではない。

安楽死問題と大麻も、合法化に至るまでにはまだ色々と乗り越えなければならない壁がありそうですが、真剣に合法化を望む人が多ければ、遅かれ早かれ然るべき状態に移行していくことでしょう。


この本の中に登場する「死ぬ権利」という言葉は、強い印象とともに心に残りました。


さっき、こんな記事を読みました。


いったい何だったのか「緊急事態宣言」 対策失敗でも責任取るつもりない安倍首相


私は名うての非国民であるため、政治のことはよくわかりません。


分かりませんが、「一体なんだったのか緊急事態宣言」というところには深く共感します。



私の勤務先エリアにも緊急事態宣言は出ましたが、状況は特に変わっていない。

「原則テレワーク」という通達だけは出たものの、それが強制されているわけではないため、実際にテレワークしている人はごくわずかです。なによりリーダー層がほぼ全員出社していますしね。

どれだけテレワーク推奨と言われても、みんなが出勤している中自分だけテレワークというのは、なんとなく罪悪感を感じるということでしょう。


結局、諸外国のように強制的ロックダウンみたいなことをせず「国民の自制心」に頼っていたら、感染抑止効果はあまり見込めないのではないかという気がします。


私はKYだからするけどね、テレワークw



***


「命と金のどちらが大切か」と問われたら、大半の人は「命」と答えるでしょう。

 けれど、今の社会はお金がなければ生きていけない(生き辛い)構造になっているわけで、命を選んで金を捨てた途端に命の危機にさらされるという、パラドックスみたいなことが起こる,


だとすれば、死というまだ見ぬ脅威よりもずっと身近な「失業して食っていけなくなる」ことの恐ろしさに負けてしまう人が多いのは、やむを得ないことなのかもしれません。


それは「ぬるい」というよりは、長い間に染み付いた優先度付けのロジックの問題なのではないかという気もします。まぁ、「それがぬるいってことなんだよ」といわれたら、返す言葉はありませんが…。



***


翻って、国家のロジックは個人のロジックとはまたちょっと違うのかもしれません。


最大多数の最大幸福を考えざるを得ない政治の世界では、全体としては少数となるであろう死者のことよりも今後の日本を支えていく経済活動を優先するという判断も、考え方の一つとしてはあるのでしょう。囚人のジレンマというやつですね。


その判断が正しいのかどうかは、私のような凡人には分かりません。というか、やっている人たちにも確かな答えなんかないのかもね。


私はいまソフトウェアテストを専門にしていますが、近年の複雑化したITシステムにバグが存在しないことを証明するのはほぼ不可能です。

ITシステムなどよりも更に複雑を極め、かつ動的に変化し続ける国というシステムの行く末について確かな見通しを立てることなんて、だれにもできないのではないんじゃないかなと思うのです。



どうなっちゃうんでしょうね、日本。

もはやそれほど生きることに執着のない私のような老兵はともかく、これから人生が始まる若い人たちが悲しい思いをしなければよいな、と思う。


政治は大変な仕事だと思うけど、脳から脂汗が出るくらいに頭をひねり、勇気を出してベストな選択をしてほしいなと願ってやみません。



オマケ

この間、出先で見つけたゲスなガチャガチャ。



ゲスな商品ってどんなのだろうかと一瞬心が踊りましたが、「ゲスっていうかカス」みたいなものが出てくるリスクを考慮して、使用は控えました(^_^)




最近、植物がマイブームです。

きっかけは、通勤中に散りかけの桜を見て、
「植物はコロナウィルス に感染しないのかなぁ…」
とふと思ったこと。

そこから想像が膨らみ、植物の感覚ってどんな風なのかな…と言う興味が湧いて、こんな本を読み始めました。



植物の持つ「感覚」を人間の五感になぞらえて解説していて、とても興味深い。

人以外の動物をやたら擬人化して捉えるのはあまり好きではないのですが、植物の世界を理解する糸口としては面白いのではないかと思います。


この世界に生きるあ ものには「増えたい」という根源的な欲求がインプットされている。
そして、増えるためにはよりよい環境を得て少しでも長く生き、可能な限り多くの子孫を残す必要がある。

「増える」ための戦略は種によってまちまちですが、生きるためには周囲の世界を知る必要がある。
その手段が「感覚」であると考えると、植物にも感覚があるというのはすごく当たり前のことなのだと思えてきます。

実際のところ、植物の感覚は人間のそれとは大きく違うのでしょう。でも、人を動かす根源的なトリガーとして「苦」「楽」があるということを考えると、植物にもなんらかの形でそうしたシステムが備わっているような気はします。

植物がどんな風に世界を感じているのか…決して実感としては理解し得ないその世界観に想いを馳せるのが、最近の私の密かな楽しみになっています。