「贅沢」な日曜の朝ごはん | Live in the flow.

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IT業界とライターの二足のわらじで働くシングルおかん。

アフリカ×日本Mixの3人の息子の子育てをほぼ終えて、3種6羽の可愛いインコたちとのんびり暮らしています。

先日、突発的に、「自家製のパンを焼きたい…!」 という欲求に襲われ、古いホームベーカリーを引っ張り出してきました。

 

ある日とつぜんやみくもな衝動に襲われ、またある日突然その衝動が消え去る、というのは、私の人生の一つのパターンだと言えるかもしれません。このような性癖のため、急に思いついて買った燻製機やヨーグルトメーカー、サイクリングマシーンから果てはレザーカービングやガラス細工用の器具ひと揃いなどなど、さまざまな「衝動の軌跡」が我が家の物置にしまい込まれています。

 


それはさておき、長年使っていなかったにもかかわらずホームベーカリーはまあまあな状態でしたので、早速パンを焼いてみました。

ひとたびやり始めると、熱が冷めるまで猿のナントカのごとくそればっかりやっている、というのも私の人生の特徴で、何年かぶりにホームベーカリーのフタを開けた日から若干2週間の間に、ふつうの食パンからデニッシュ、米粉パン(←失敗して柏餅風味の何かになった)、米粉入りパンメープル風味、チアシード入り…と多種多様なパンを焼き、ついに自家製酵母を作るところまで来てしまいました。

 

 

▼最初に焼いたメープル風味の米粉入りパン/チアシード入り

 

 

▼ついに作り始めてしまった自家製酵母(←が紅茶、右がレーズン)

 

 

昨夜は四連休の初日ということで少々気分が上がっており、真夜中にふと思い立ってパン作りを始めました。

夜のうちから仕込んでおけば、翌日の朝には焼き立てのパンを食べることができるでしょう。

 

私の目論見は無事実を結び、日曜の朝8時には予約通りほかほかのパンが焼きあがっておりました。

 

 

 

ちょっと厚めに切ったパンにバターを載せ、カリカリベーコンを添えた目玉焼きと豆から挽いて淹れたコーヒーで、日曜日の朝ごはん。

「こういうのを贅沢な朝食っていうのかしらね💓」

…などと考えつつパンをかじりかけて、私はふと手を止めました。

 

 

待てよ、と。

 

 

贅沢というなら、自分は何もせず、人様が作って下さった朝食をただおいしくいただく方が贅沢なのではないか。わざわざ夜中にキッチンでゴソゴソと翌日のためのパンを焼くのが、果たして贅沢だと言えるのだろうか。

というか、そもそも「贅沢」ってどういう意味なのだろうか…?

 

疑問を持ったらすぐ調べられるのが、スマホ&インターネット時代のありがたさですね。

goo国語辞典によれば、贅沢には以下の二つの意味があることが分かりました。

 

 

1. 必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。また、そのさま。

2. 限度や、ふさわしい程度をこえること。また、そのさま。

 

 

 

私が今回パンを焼くのに費やした材料代は、どう高く見積もっても100円前後というところです。電気代を加えたところで、100円が200円になることはないでしょう。私の夜間割り増し人件費をまともに計算に入れれば確かに高価なパンになりますが、自分が好きでやっている事なので、そこは考えなくてよい気がします。

 

そうすると、贅沢の意味のうち、少なくとも一つ目の「必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと」には該当しなさそうです。

では、二つ目はどうでしょう。

 

「限度や、ふさわしい程度を超える」

 

草木も眠る丑三つ時にキッチンでパンを焼く姿は、一般的常識に照らし合わせるとたしかに限度を超えている感があります。しかしそれは、「贅沢」とはまた違ったベクトルでの限度超過でありましょう。

 

「相応しい程度を超える」に至っては、そもそも比較の基準が分からない。私にふさわしい日曜の朝食の基準などというものがどこにあるというのか。

 

このようにつらつら考えていくと、そもそも手作りパンで朝食を取ることを「贅沢」と感じる感性が間違っているのではないかというところに思い至ります。でも、よく使われていますよね、「手作りパンで贅沢な朝ごはん」的表現?

 

これはいったいどういうことなのでしょう。

私だけでなく、日本国民全体で盛大に「贅沢」の意味をはき違えているのでしょうか。

 

 

…とそのあたりまで考えたところで、「まっ、いっか」と思考を切り捨て、一旦皿に置いたパンをもう一度手に取りました。

ほかほかだった手作りパンは、「贅沢」の意味を考えていた時間の分だけ熱を失っていたものの、十分にふんわりモチモチして、噛みしめるほどにじんわりと美味しさが広がります。

 

結局、それが「贅沢」だったのかどうかはよく分からないまま、幸せな朝食をしみじみと堪能した日曜の朝。