(18)雨
外に出ると、小雨が降っていた。
なのに私は傘を忘れてきていた。
『波奈ちゃん、傘ないの?』
空を見あげる私に、相葉さんは言った。
「はい。うっかり干してたのを、持ってくるの忘れちゃいました」
『今朝は晴れてたもんね。ごめんね、こんな雨の日に誘っちゃって…良かったら入って』
すっと濃いグレーのチェックの折り畳み傘を差しかけてくれた。
え、これってもしかして、相合傘。
い、いいのかな。どきどきする。
相葉さんて、こんなのも自然とやれちゃう人なんだ。
相傘は嬉しいけど、きっと相葉さんは女性に慣れてる。
モテるだろうから当然だと思うけど。
「ありがとうございます。用意が悪くて申し訳ないです」
頭を下げて、恐る恐る相葉さんの差しかけてくれる傘の下に入った。
肩をすくめて、嬉しいけどなんか身の置き所がない感じ。
『いいよこのくらい。むしろ波奈ちゃんと相傘できてラッキーと思ってるんだから…あ、ごめん。こんなこと言われたらオヤジだよね。ごめん』
「いえ、全然そんな」
ラッキーなんて言われて、さらに胸が高鳴った。
嬉しくて仕方ないけど、すごく戸惑う。
距離が近過ぎてどきどきする。
『もっと寄らないと濡れるよ』
相葉さんの手がすっと肩に添えられて身体はぴたりとくっついた。
心臓がずきんとした。
くっついた身体から相葉さんのスーツと、体温を感じる。
肩にまわされた手が背中に下りて、腰を支えられたまま歩いた。
どうしよう。
どきんどきんと息がしにくいくらい心臓が打っていて緊張で身体が硬くなる。
相葉さんはいろんな話題を出してくれるけど、ほとんど耳に入らないくらい頭の中は相葉さんの身体に触れた肩と腰に添えられた大きな手のことばかり。
駅前まではすごく遠く感じて、でもあっという間についてしまった。
何を話してたのか全然覚えてない。
アーケードに入って傘から出られた時には、ほっとしたくらいだ。
なのに残念に思う自分もいて混乱している。
肩に感じていた相葉さんの体温が失われて雨混じりの夜風が冷たい。
期待しちゃいけないのに。
相葉さんは好きなひとがいるのに、ほかの女性の肩を抱くとか、自然としちゃう人。
相葉さんは、そんな私の複雑な気持ちには気づかないで、笑って言う。
『波奈ちゃん何が食べたいかリクエストある? 聞いておいてなんだけど、もしよかったらここ僕のおススメのお店なの。ここでいいかな? おじさん一人でやってるお店なんだけどね、雰囲気いいの。安くて美味しいし、店主さんがいい人だしね。ちょっと変わってるけど』
「そうなんですか」
相葉さんのいきつけのお店。
どんな高級レストランより嬉しい。
お店の外看板をみたら、「途中下車」と太い筆で勢いつけて半分殴り書きみたいに手書きで書いてあった。達筆だなあ。
とうとう、相葉さんと初めての会社帰りのご飯が実現すると思うと、どきどきする。
本当は櫻井さんと望くんも誘ったけれど、間の悪いことに取引先との約束に出かけなくてはならないということだった。
「雅紀、今日は残念だけどまた今度な。水野さん、おーのさんのお店で美味しいものいっぱいおごってもらいなよ」
櫻井さんは、今日私が相葉さんと出掛ける理由も知ってるから、からかうみたいに言ってくれた。
「先輩! 今度は絶対オレも誘ってくださいよ」
名残惜しそうにしながらも、望くんは櫻井先輩に呼ばれてついて行った。ふふっ、頑張って!
緊張するからお二人には来て欲しかったけれど、相葉さんと二人になれるからやっぱり嬉しい、と思うのもあってどっちか自分でもよくわからないまま、結局相葉さんと二人きりでお店の前にいる。
『こういうとこ、来たことある?』
「はい、…あ、いいえ。あの」
『ふふっ、どっち?』
「あの、あんまり来たこと、ないです。女子会するときも、もうちょっとチェーン店みたいな」
『そっか。ま、どうぞ。て、僕んちじゃないけど』
笑いながら、のれんをくぐる相葉さんに続いて入っていく。
新歓以外では初めて飲みに来るのに、いきなり二人きりという状況にどきどきする。
店内に入ると本当に小さなお店で、夕飯時でもあるし、ほぼ客席は埋まっていた。
相葉さんがカウンターの奥で働いている白い割烹着の店員さんに声をかけた。
『こんばんわ大野さん』
「相葉ちゃんいらっしゃい」
にかっと笑ってこっちをみたその人は、おじさんなんて相葉さんがいうからもっと年配の人を想像してた。
もしかして店主さんの息子さんが手伝いに来てるのかも知れない。そのくらい若い。
相葉さんと変わらないくらいの年齢の、むしろ幼くさえ見えるふわふわした笑顔に、笑うとちょこんと犬歯がのぞいていて、なんか経営者って感じがしない。
「あれ? 今日はお連れさんおんなの子?」
『うん。会社のね、僕の補佐してくれてるの。水野波奈ちゃん』
「初めまして。水野です」
ぺこりとおじぎする。
「珍しいね、相葉ちゃんがおんなの子連れてくるの。今日はね、メバルあるよ。あとイカも」
『やった。メバル、煮つけにして』
「よっしゃ」
あ。なんとなく、相葉さんがおじさんって言ったのわかった。
ほわんとした雰囲気でなんか、とがったものが全部抜け落ちたみたいな印象。
相葉さんはほんとにここの常連さんみたいで、他のお客さんとも大野さんは会話してるけど、相葉さんと話す時は特にくだけてる感じがする。
ていうかお店も大野さんも、全体的に雰囲気がゆるい。
ほっとするお店だ。
こじんまりした店内は落ち着いた雰囲気だけど、そこそこ混んではいてカウンターは一杯。3つあるテーブル席のひとつが空いたからそこの席についた。
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