銃撃後むしろ穏やかな表情のトランプ。アメリカは変わるのか | ユビュ王の呟き

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右でも左でもない政治について語るブログです。
左右の典型的思考に嵌り自由を失うのではなく、自らの身体的感覚を重視しそこから考える。
反グローバリズム、反ワクチン関連の話題を中心にしていきます。

 

前回の記事で、この写真の背景の星条旗は合成かな?と書いたんだけど、訂正させていただきますが、合成ではなくて本物のようですね。

歴史的瞬間をとらえたすごい写真だと思います。

 

 

 

 

ブッチ氏は13日の暗殺未遂について、「自分の左肩越しに破裂音が数発聞こえた。すぐに銃声だと分かった」と振り返る。

「この時、私は演台にレンズを向けていた。大統領警護隊(シークレットサービス)が駆けつけて(トランプ氏に)覆いかぶさるのが見えた。そこから仕事モードになり、一心不乱に自分の仕事を始めた」

 集会参加者の多くが避難する中、ブッチ氏ら写真ジャーナリストはとっさに行動に移った。

 ブッチ氏はAP通信のワシントン支局チーフフォトグラファー。

「あのときは本能だった」「『この写真を撮らないと』という考えしか頭に浮かばない。写真家の職業病だ。戻って再現することは不可能、今この瞬間に撮影しないと、という思いだった」

 

 

この写真を撮ったのはピュリッツァー賞受賞歴のある写真家、エヴァン・ヴッチ氏だということです。

まさにプロの仕事ですよね。

 

 

 

事件の翌日にはゴルフをして健在をアピールしていたトランプですが、なんかトランプの顔つきが変わったと思いませんか。

 

 

 

とげとげしさが抜けて、穏やかですっきりした表情をしていますよね。

事件の少し前にバイデンが「トランプを標的に」など意味深なクズ発言をしていたのとは対照的ですよね。

以前のトランプなら、こんなことがあったものならここぞとばかりに政敵のリベラル勢力を非難糾弾しそうなものですが、伝え聞く中ではそのような発言はなく、共和党の大会前に「自分はここにいないはずの人間だった」「銃撃は不思議な体験だった」等と言っていたとか。

 

 

わずか数センチの差で死を免れた人が感じるのは、自分は生きているのではなく何者かによって生かされている、という感覚なのかもしれません。

そうなるとそこからは宗教や神に繋がっていくと思うのですが、僕が前から気になっているトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」には、次のような言葉があるみたいです。

 

 

「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」(『アメリカのデモクラシー』序文)

 

 

これ、なかなか含蓄の深い言葉で、ちょっと読み解くのが難しいけれども、要するに道徳がなければ自由もない、そして道徳は信仰に根差しているということですよね。

最近のリベラルに傾斜したアメリカが世界各地で紛争を起こし、人の命よりも金儲けを重視している姿勢を見ていると、ああ確かに、と思う点が大いにあります。

 

 

 

 

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の『第1巻』の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろうと述べている。だが『第2巻』では、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ[3]、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。

 

 

これを読むとトクヴィルはかなり的確に未来を予測していると思うのですが、経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとはまさに現代のことですよね。

「アメリカのデモクラシー」は今読みたい本なのですが、地元の図書館には置いてないようだし、また第1、2巻共に上下に分かれていてかなり長い内容のようなので、読むのも大変そうですけどね。

まあ読んだらまた読書記を書くかもしれません。

 

 

宗教、という言葉からくる連想で個人的な話に飛びますが、世界一周していた時のエルサレムにいた時に、僕の泊まっていたゲストハウスは日本人が多く泊まるいわゆる日本人宿だったけど、宿泊者の何割かは欧米人で、エルサレムという場所柄だいたい信心深い人たちだったんですね。

 

 

ある時僕は朝早く起きて、ゲストハウスのキッチンで朝食を作ろうと降りて行ったのだけど、そこにはすでに先客がいました。

彼は欧米人の男性で、キッチンの一角に両手を結んでひざまづく祈りの姿勢で祈りをささげていたんですね。

その彼を窓から差し込む朝日の光が照らしていて、彼は口元に笑みを浮かべながら祈っていました。

僕はその光景のなにか厳粛な神々しさに打たれて、彼の祈りを妨げるのがはばかられ、キッチンに入ることができなかったんですね。

そこはあくまで生活の場であるキッチンだったけれども、その瞬間、僕の目にはまるで聖堂のように見えたんです。

そして祈る人の姿はかくも美しいものかと不思議な気持ちになったのは今でも覚えています。

 

 

あの光景は僕の中でいまだ理解というか消化できていないのだけれども、そもそもそれは理解とか頭で考えることではなく、心で感じるものなのかもね。

宗教心からは遠い僕ではありますが、個人を超えたものに対する敬意というのは、社会や共同体を維持する上で重要なものかもしれないとは、銃撃後のトランプや支持者の振る舞いを見ていると考えさせられるところです。

 

 

今回の銃撃事件は本当にトランプの運というか、神の加護というか、トランプは死なずに生きていますが、なにかアメリカが良心を取り戻すきっかけになるかもしれないという淡い期待を持ちますね。

もちろんそれはそんなに簡単なことではないでしょうし、人間はすぐに忘れる生き物なので、今のトランプに差している神の後光がいつまで続くかもわかりません。

しかし個人的にトランプが事件をどう考えているのか興味があります。

もう少し落ち着いたら長編のインタビューも出てくると思いますので、その時はまたそれを紹介したいと思いますね。