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甘み まろ味 うま味の「基」 太田屋

梅田敦史の日々の勉強の成果を中心に綴っていきます。







休日の日中にふとテレビをつけたら

風呂敷について語っている番組が放送されていました。




贈答品を包むあの「風呂敷」のことです。


日本の文化について研究しているかたの講義のようだったのですが


その内容が興味深いものでしたのでしばらく観てみました。






風呂敷とは

贈り物などを包むという用途以外に



バッグのようにいつも持ち歩いている物を入れたり

マフラーのように首に巻いて使うこともできる。

語源とも言われる敷物としてもいい。

布製だからケガの手当てにも使用でき

濡れたときはタオルのように拭き取ることも可能・・・




というようなお話でした。






何が言いたいのかというと


日本の風呂敷の文化は

欧米のバッグのように用途が限定されておらず

一枚の布であらゆる目的に使用可能だということでした。





たしかにカバンはマフラー的には使えないかもです(笑)






お話によれば

これは日本文化の特徴の一つなのだそうで

用途の境界線がハッキリしていない

言い方を変えると「あいまい」である、らしい。




風呂敷に限らず

日本の伝統的住宅の間取りにも当てはまるそうです。



江戸時代、

人口の80%を占めたといわれる農民の住宅の間取りは

田の字型や広間型といわれるような

家族用の空間と来客用の空間が

時と場合に応じて兼用できる様式でした。




ちなみに田の字型とはこんな感じです。









広間型とはこちらです。








僕の実家も例にもれず
田の字型です。




実家での日常の用途は

この田の字になった部屋のひとつが居間。

ひとつが応接室。

そして寝室と仏間。


それが特別な時(法事や葬式などで多くの来客がある場合)には

間仕切りとなっているフスマを外して

真ん中に柱が一本だけある大広間となるわけです。




これを欧米文化と比較されていたわけですが

そちらは部屋の用途が限定的でかつ

その境界線もシッカリしたもの。




お話は

風呂敷、住宅の間取りの他に

日本語という言語にもそれが当てはまるというところまで進みました。



たしかによく言われます。

日本語は他の言語に比べて曖昧であると。


なんだかこの流れで話しを聞くと

説得力を感じます。




その後にもお話は続いたのですが

時間的に観ることはできませんでした。

けれども興味深い内容です。





文化としての

風呂敷や住宅の間取りのように

ハッキリとしたした境界線を設けず

柔軟性があるという意味では

それはそれで日本語という言語の特徴なのかもしれません。








そんなことを思いつつ後日図書館へ行くと

こんな本を見つけました。









「風呂敷文化と袋の文化」
 辰巳 慧 著
 晃洋書房






もしかすると



テレビで観た講義は

この著者の方がされていたのかも・・・


というくらい内容がピッタリです。




こちらの本は学術図書らしく

著者は比較文化学の専門の方のようで

内容は細かく専門的でした。



ざっくりとまとめるのも恐縮なのですが

僕的に読んだ限りでまとめてみると



「日本の文化はハッキリした境界線を持たない文化であり

 自然環境に対してもそうであった。

 そのため自然資源に対しても

 その他の文化のように

 簡単に支配的な態度をとらなかった。」



ということでした。





各章には

「手の文化と足の文化」

「腹の文化と胸の文化」

「チェスと将棋」

「木の文化と石の文化」

「群の文化と個の文化」

「余白の文化とぎっしり文化」

と・・・



さまざまな側面からの比較であったので

僕的にはとても面白い本でした。




その中の

「余白の文化とぎっしり文化」の中に

日本の料理についての記述があったので紹介します。



「日本食の特徴は

 自然を食事の中に取り入れてきたということである。

 魚肉を生で食べ、
 
 野菜を生またはできるだけ生の状態で食べる。

 そのために考案されたのが漬物と酢物である。

 自然美を取り入れるために
 
 食器には自然の風物が描かれ、

 オカズや刺し身にはツマとか添え物として

 一輪の花が添えられた。

 吸い物に青菜を一枚浮かべればまさに山紫水明で

 山間に流れるせせらぎに水を象徴する。」



ちなみに「山紫水明」とは、自然の風景が清浄で美しいこと。







食材をなるべく自然のままでいただくというのが




日本の文化の中で育った料理の特徴なのだと感じたのでした。 




































先日、福井市にある保育園さんにて

 

5歳児対象の食育の体験教室を行いました。

 

 

昨年も同様なことを行ったのですが今回は

「天ぷら&出汁体験教室」

 

昨年は、カツオ節や昆布による“出し”の講習会と

巻き寿司を自分で作って食べる体験教室を行ないました。

 

 

今回、

 

なぜ天ぷらなのか

 

と言うと

 

保育士さんの

「最近の子は揚げ物をあまり食べない」

という発言がキッカケでありました。

 

 

意外な発言だったので

なぜなのかと伺ってみたところ

 

「考えられるのは“自宅で揚げ物調理をあまりしなくなってきている”からだ」

 

というのです。

 

 

 

つまり夕食などで揚げ物が出てきても

それはほとんどの場合、

“購入したお惣菜である場合が多い”のではないかとのこと。

 

 

どうやら、

揚げたてのあの美味しさを知らない子が

増えてきているようなのです。

 

 

後から冷静に考えてみると分かるのですが、

揚げ物を自宅で調理するには

作る量の割には大変な手間がたしかにかかりますね。

 

 

最近の家族の構成人数とお惣菜の普及環境から考えても

それはたしかに自然な流れとも言えそうです。

僕だって自宅で揚げ物調理はしたくないかも・・・

 

 

しかし、

そのお話を最初に聞いた時は

正直意外でありました。

 

“子供は揚げ物が大好きな人種”

というのが僕が持っていたイメージだからです。

 

 

 

 

 

そこで、

 

そういうことなら美味しい揚げ物を食べる体験をしてもらおう

 

 

ということで

今回の体験教室が企画されました。

 

 

ただ食べるだけでは面白くないというか

きっと記憶にも定着しづらいかも。

 

その揚げ物を自分で作る体験もすることで

ある意味、

大人になってもその記憶が微かであっても残っているような

そんな体験教室にしよう

 

ということになりました。

 

 

 

そして2月5日 木曜日に開催されました。

 

メニューは

野菜たっぷりさつま揚げ、エビの天ぷら、鯛の天ぷら

野菜たっぷりお味噌汁、

そして白いご飯

 

これらの白ごはん以外を自分たちで作って

お昼の給食で食べるというものです。

 

板前さんが魚をサバく様子を間近で見学します。

 

 

 

次に、

にんじん、大根、などの野菜をカットする体験です。

こちらは板前さんが5名程の子供たちにつきっきりで

手取り足取りでの体験です。

 

 

 

そして、

大きなスリコギですり身を練ります。

中にはカットした野菜を入れていきます。

 

「美味しくな~れ、美味しくな~れ」と

掛け声が聞こえてきました

 

 

 

出来上がったものを油で揚げます。

 

揚げたてをその場で給食として頂きます。

 

 

 

 

ご想像のとおり、

みんな大喜び。

 

 

 

 

一緒に当日の給食を食べましたけど

 

僕自身

「揚げ物ってこんなに美味しかったんだ」

 

と改めて実感したのでした。





















先日、


福井日仏協会

(日本とフランス及びフランス語圏の交流と文化の普及を目的として2010年に設立)


の機関誌をなにげなく眺めていたら

 

フランス文化講座の案内の記事に目がとまりました。

 





そこに書いてあった文面が印象的で

 

京都大学大学院の人間環境学研究科の准教授である


塩塚さんによるフランス文化講座の紹介でした。




「私たちは『日常』についてよく知っているつもりでいますが、

実際には慣れてしまっているため『日常』はよく見えていないとも言えます。」



という部分。





この講座は現代のフランスの作家がこの「日常」の探求に関心を抱き、


普段と異なる仕方で見ようと試みていることを


具体例と共に紹介する内容だったようです。





興味はあったのですが講座当日の都合がつかなかったため

聴講することはできませんでした。


そのせいか上記の案内文が記憶に残っています。

 






言われてみると・・・

「日常」ってあまり記憶に留まっていない。




毎日の繰り返しの中でいつも起きる事や見聞きすることに慣れたものは


ほとんどスルーしているかもしれません。


その代わりに比較的目新しいものや体験、


不慣れなことにはより注意をはらっているような気がします。

 

 

 


日常を描写することに必要性を感じない僕が


今日の朝食を描写しようとすれば

 

そのメニューを思い出すのがやっとという感じです。




「日常」に慣れてしまい見えていないということかも。

 





「日常」を見る必要性が無ければどうでもいい話ですが


もしかしたら見えていないが為に


日常がつまらないものになっているかもしれない。



そう感じました。






よくこんな言葉も聞きます。

「ミスは慣れからくる」



2014年6月の下記の記事

「慣れ」や「思い込み」で、、、入試採点ミス

http://www.news24.jp/articles/2014/06/12/07252965.html


上記のように

慣れによって大きなミスが起きかねないとなれば


「見えていない日常」は


小さくない問題にもなってきます。







日常の探求は


現代のフランスの作家じゃない僕でも


いろんな場面でやってみてもいいかもって思いました。