フェイク 第1382号 「坊主商売は葬式と墓場の管理人」(発行=13.04.29) | フェイク置き場

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フェイク 第1382号(発行=13.04.29)
「坊主商売は葬式と墓場の管理人」
戸田二代会長、宗門の坊主を徹底糾弾 ⑤
「大聖人のような顔をして金を集める邪宗門」

 本紙で四回にわたって紹介した戸田会長の悪侶を指弾した「寸鉄」や「大白蓮華」の巻頭言は多大な反響があり、共感の声が寄せられた。今号でも忌憚の無い戸田会長の指導を紹介する。
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 仏教界においても、僧侶は、ただ食うための坊主商売であり、葬式と墓場の管理人にすぎない。その教義や説法も、大衆の日常生活とは何の関係もなく、これこそ大衆から遊離した無用の長物といわざるをえない。

 もし宗教が、本来、生活と無関係の存在であるとするならば、釈迦の出現も、キリストの出現も無意味である。はたして、仏教には生活と関係のないことが説かれており、生活への実践が説かれていないか、どうか、それは、いまさら、ここで論ずるまでもないことであろう。

 すべてが釈尊の意図と相反した原因は、まず従来の僧侶が形式に流されて実質をうしない、大衆の生活を考えずして、自己の保身にこれ務めた結果にほかならない。さらに信者は、自分の属する宗派が何であるかを、きわめようともせず、生活と関係のない寺院に、多額の布施や、寄付を徴収されても、これを疑おうとせず、ただ先祖伝来を口実にして、そのお寺をまもってきた。

 そもそも宗教とは「生活の法則」であり、生活そのもののなかに存在しなければならない。それがためには、宗教のあり方を考えるときに、まず自分の立ち場とか過去の因習を捨てて、仏教徒は、まず釈尊の立ち場に立ちかえって、そのあり方を判断し、日蓮門下と称する数百万の僧俗は、宗祖大聖人の立ち場にかえって、判断しなければならないはずである。しかるに聖人の滅後、宗派は宗派を生じ、異見は異見を生み、分裂に分裂を重ねてきた上に、各宗各派は堅く自説に執するのあまり、是非曲直の糾明もせず、ついには消極的、退嬰的になって、次第に宗教は生活とかけ離れてきた。(「大白蓮華」巻頭言 昭和二十四年七月)
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 寺の建物は坊主共の寝床ではない!

 寺を建てたが、本尊を下げわたさないというならば、寺は建ったが、なんのはたらきもしない。ただ坊主の寝床を作ったにすぎないことになる、広宣流布とは寺を建てることとかいうことではない。(論文「創価学会の歴史と確信」昭和二十六年八月十日)
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 御住職をいばらしてはなりません…坊さんは、信者を家来か召使いのごとく思う悪いくせがある。断じて、高崎では、そうであってはなりませんよ。(高崎・勝妙寺入仏式 昭和二十九年十二月十五日)
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 大聖人様は、お布施を出せとはおっしゃらない。しかし、法華経の行者を供養した者には功徳があるとおっしゃっている。そうすると、出さねばならないような気持ちが出てくる。どうですか。これが邪宗教の起こるもとになってくる。悪いことをするやつは、この原理だけ使うのです。日蓮大聖人様でないものが、大聖人様のような顔をして金を集めるから邪宗教だろう。(本部幹部会 昭和三十二年二月二十八日)


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