先日来から幾度か綴っているのであるが、島崎藤村の「夜明け前」を実にスローペースで読んでいる。


 そのスローペースぶりは、先日漸く第一部上巻を読み終えてからというもの、未だに続きが50数頁しか進んでいないというもの。



 以前の自分であればおそらく途中で投げ出したであろうこの作品を、途中で短編小説や詩篇を挟むなどの工夫を取り入れながら、また「夜明け前」に戻るということを続けている。

 では、投げ出したくなるのは何故か─
そこにはいわゆる超自然的要素や非現実的な出来事が皆無で、理路整然と現実的なもののみで話が進んで行くからなのではないかと考える。

 では、それにもかかわらず読み詰まる中で、一日の心地よさを感じるのは何故か─
上述のとおり現実的な事柄で事態が進行するので、時代こそ異なれど、極めて読者の目線と一致し、話にブレがないからではないかと私は考える。

 先日から拝聴していた小説家、奥泉光さんの文学についての講演でそれが明確に感じられるようになってきた。

 奥泉光さんが語る日本近代文学の変遷は、島崎藤村や田山花袋をはじめとする自然・写実的な作風を備えたいわゆるリアリズム小説を皮切りに、そのあけすけなリアリズムの表現から一歩距離を置き、詩情あふれる作風を用いた夏目漱石の余裕派、日本文学独自の「私小説」を否定した新感覚派などのモダニズム小説、たとえば特殊な能力や技術など、読者より目線を上にしリアリズムの要素を否定したロマンス小説など(私の説明は極めて拙い)であり、非常に丁寧にお話されており、奥泉さんご自身が小説家として活動され始めた時期の真っ只中は、素材何でもあれの正にポストモダン時代であったと述懐されていた。

私の好きなポストモダン小説
 つまり私が読んでいるのは近代文学の夜明け前であるリアリズム小説であり、今日手元に届くであろう田山花袋の「蒲団」なども、半ば無意識的にリアリズム小説を選書しているということになる。

 私が無意識的に行っている読書は、謂わば時代に逆行しているものかもしれないが、視点を変えると、遅ればせながらしっかりと近代日本文学の成り立ちを見据えるという順路を経ているともいえるかもしれない。

 そういえば以前にも、バルザックの「谷間の百合」という「夜明け前」と同じような感覚を受けながら通読した作品があったではないか。

 その際、リアリズム小説に触れていながら、すっかりそのことを忘れていたのであった。 

「谷間の百合」他、バルザック作品についての回想