これまで沢山の文学作品を読んでいる中で、読みにくい・読み進まないものも少なからず存在している。


 今回はそれについて綴ってみたいと思う。

まず、今読書期間中のこちら。

 

谷間の百合 (新潮文庫)

 

一度150ページ目で投げ出して、再度読み直しを図っているが、断然読み進まない。

 オノレ・ド・バルザックの「谷間のゆり」である。



 小説の枠組みができる前の時代の作品と思われるが、心情や情緒の部分がひたすらくどく述べられていて、少し読むだけで骨が折れてしまう。
 ただ、文章そのものが美しく、内面描写が克明であることから、生身の人間像を感じられる最高峰のリアリズ厶小説であることは間違いない。

 さて今度は変わって、過去にも綴ったことがあるカフカの「城」。

詳しくはこちらを。
 苦節約2ヶ月、何がなんだか整理がつかないうちに読み終えたというもの。
ただし、その後の「審判」の通読に大いに教訓となった。

 

  それから、メルヴィルの「白鯨」これも「城」同様に2ヶ月余り費やし完読した。

その際は敢えてレビューの少なかったアメリカ文学研究者の坂下昇訳を読んでみた。

ひとつは、このカバーが大変気に入ったからである。

 

 

 

 

 この通読回想も後に綴ってみたいと思うが、鯨にまつわる知識が物語の7〜8割あるため、どうしても牛歩気味になってしまうのである。

 ただ、その読みの苦しみの最中に時折挟む本編が無茶苦茶面白いのは過言ではない。


 それからもうひとつ、ここまで読んでくださった方が居られたら、甚だ意外に思われるかもしれないが、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も私の中ではその分類に入る。


 ホールデン青年が行き当たりばったりに、あちこちをぐるぐる巡る青春小説であるが、あの独特の問わず語りの節まわしにイマイチピントが合わせられなかったということが大きかったのだが、多分あと20歳若ければ、もう少し話に共感できたかもしれない。

 

 その他色々あったと思うが、今回はこれぐらいにしておきたい。


 今時を経て、これらの作品に共通して言えることは、多大なるリスペクトの念である。