人は物語る | クラスタ民主主義システム研究室

クラスタ民主主義システム研究室

☆学習とディベート☆ ☆ネットワークデモクラシーを夢みて☆ 
☆教育ディベートを推進しよう☆ ☆「complex system」で思考してみよう☆「ネットワークデモクラシー(Demoex)研究室」からタイトル改題しました。 

赤ちゃんは、虐められるものを救う…、京都大学の助教先生が一歳児を対象とした実験で確かめたんだそうです…。パソコン上で、黄色い四角を青い丸が追いかけ回し、黄色い四角がどつき回される様子を一歳児に見せた後で、黄色い四角と青い丸のどちらかを選ばせると、黄色い四角を手にするんだとか。


人間などの動物には、殴られたり、襲われたりしている側を救おうとする本能があるんでしょうね。


親が子を守り救おうとする衝動も、こうした本能に由来するんだと思います。


同様なことは、くじらでも観察されています。


北極海の豊富な食べ物を求めてベーリング海峡を通過する鯨たちをシャチが襲うんですが、シャチに襲われていたコククジラの子供をザトウクジラが助ける様子がNHKで放送されていました。


ザトウクジラのこうした行動は、南極海でも観察されていて、シャチに襲われていたアザラシをザトウクジラがムナビレの上に乗せて守ったことが知られています。


動物は、襲われるものを守る本能もあれば、糧を得るために他者を襲う本能もある…


ここにも対極性と相補性があります。そして、その二つの対極が合一して生命がある…


これが究極なんでしょうね。


陰陽を極め、表裏を極めると、全てが同様に見えてくる…


実は、やっと河合隼雄さんの「無意識の構造」を完読しました。


本能、発達、夢…。人間の正体は面白いですね。




そして、映画「ライフオブパイ」のDVDを買って観ました。未公開映像や特典映像が満載だったので、いろいろな資料が得られると思いましたし、私にとっては野のゆり、コンタクトといった映画に匹敵する秀逸な作品として記念に買っておきたいと思ったからです。


その中に、ライフオブパイの製作者たちの思いを語ったドキュメントがありました。


彼らは「物語」を強調していました。


人間の世界では、現実と空想の物語が混在し合一している…。そんなことが語られていました。


人は物語る動物です。というより、生物は物語りで思考していると言うべきかもしれません。


夢も、人の物語りですから、脳は物語るようにできているわけです。


子供にしても幼児のころからママゴトなどの様に空想しています。


もちろん、小説も映画も物語りですが、素粒子論や相対性理論にしても、実は人間の空想にすぎません。


私たちは夫婦になったり親子になったりしていて、それを現実だと人間は考えていますが、これも実は人間の空想によって夫婦関係や親子関係を築いているにすぎない…


恋人同士にしても、それぞれが恋人だと空想しているから現実化している…


人の思考は「物語り」でできていると考えると、妙に全てを納得することができます。


明日、何をしようか?と考え、買い物に行って映画を観て散髪して帰ろうと予定を立てた時も、物語りにしているわけです。


仕事の手順を、あーして、こーして、こうしようと考えた時も、物語りにしている。


人間は、様々な物語りに接しながら、脳の思考パターンを構造化していきます。


神話、聖書、昔話、児童書、小説、映画、ドラマ…


そういった物語りが人間を育て、人間の脳を組み上げ、社会を営ませているわけです。


しかし、生命は、論理や物証における対極性と相補性でできています。


なぜなら、DNAが生命世界を生み出しているわけですから、物事は二分化できず、最終的には対極と相補を内包したまま合一していく宿命にあるから、そうならざるをえないのでしょう。


人間が物語りで思考しているということは、おそらく、生命体全てが言語がなくてもイメージで物語りしていると思われます。


うさぎがきつねを見ると、襲われる物語りを思い出し、逃げるのでしょうし、雨が降る様子を見ると、雨宿りする物語りに従う…


情報を処理する時、物語り化する作業が欠かせず、その物語りを自分が記憶している物語りと比較して、意思決定し、新しい物語りとして行動に移す…


現実と空想の間は、ほとんど境界が無く、とてもファジーな世界であり、脳が決めているだけの話だと気づいた時、世の中はとてもシンプルに動いていることに驚かされます。


物語りと信仰と人生は、繋がっているのでしょうし、物語りを介して生命も繋がっているといっても過言ではないのでしょう。


クラスタ民主主義システム研究室-くじら

赤ちゃんのイメージする物語り、ザトウクジラが想う物語り、そして人間の大人が考える物語り…


すべて理論的には大差なんか無いはずであり、世界は物語りでシンプルに動いていると考えてみたら、どんな物語りが大切なのか見えてくるのかもしれません。