ドラマ「関ヶ原」~直江状~ | ♪ DEAR MY LIFE ♪

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大坂への道中、京の北政所(ねね)を訪ねた芳春院(まつ)
堅苦しい挨拶もそこそこに、ざっくばらんに打ち解ける二人。
庵で雑炊料理をつくりながら酒を酌み交わし、昔話に花を咲かせる。

二人が同じ長屋住まいの頃、秀吉が、一度、間違えて、おまつの家に帰り、
「おねねぇ~」と言いながら、両のお乳を揉まれたと言う、おまつ。
「あれはねぇ、わざと間違えたんだで~」と、ねねが告白。笑い合う二人。



子供を11人生んだ、おまつ。
自分はとうとう一人も産まなんだと語る、ねね。

豊臣家は一代限り。

秀頼が自分の子ではないから、そう思うわけではないが、
あの幼さで天下を統べるのは無理。無理は必ず壊れる。
秀頼は、それなりの身に合った大名として残れば、
それで良い・・と語る北政所。



>おねね様は、そんなお気持ちで・・・。(芳春院)
>徳川の、家康殿な、、(北政所)
>えっ?(芳春院)

>あの御人だけは・・・、
>あたしの気持ちをよく分かってくれているようじゃ。(北政所)

 (ちょっと驚いた様子の芳春院)

>お天下様としての豊臣家は、亭主とあたしで造り上げたんじゃ。
>ほんでまぁ、一代限りで店じまいや。(北政所)

 (黙って、うなずく芳春院)

◆◆◆年賀の儀◆◆◆
明けて1600年(慶長5年)の正月、大坂城の殿中にて、
挨拶まわりに出向く大名達の場面に登場するのが、
この年の「小山会議」で明暗を分ける、二人の大名。

ひとりは才気あふれる堀尾家の若き当主・堀尾忠氏
演じるは「渡る世間は鬼ばかり」でお馴染みの角野卓造

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2014年7月、13年ぶりに復活した木村拓哉主演の「HERO」で、
東京地検本庁・次席検事の牛丸豊をコミカルに演じてましたが、
この忠氏、人並み以上の知恵はあるのに、
他人に褒められるのに弱く、ついつい多弁になるのが玉にキズ。
二枚目半といった役どころですね。

堀尾忠氏の父・吉晴は、若い頃は茂助、幼少時は仁王丸という名で、
尾張近郊の郷で織田信長が狩りをした際、
手負いの大猪を仕留めたのが縁で、信長に仕えますが、
その後、秀吉に乞われて彼の家来となり、
秀吉の近江長浜時代には、馬廻りの士になっています。

以降、秀吉の立身と共に出世。若狭や近江・佐和山城主をへて、
秀吉が家康を関東に移封した際、家康の旧領である遠州浜松を、
堀尾茂助(吉晴)の実直さを見込んで配置していました。

その吉晴の息子・忠氏。殿中の廊下で立ち止まり、
何やら悩んでいる様子の山内一豊に声をかけます。



その一豊の悩みは、本丸の秀頼公、西の丸の徳川殿、
「どちらを先に挨拶に行くべきか?」という難題。

思案顔の山内一豊を演じるのは、島左近の三船敏郎同様、
「七人の侍」など、黒澤映画の常連、千秋実
このトボけた風貌、物腰の低さ柔らかさにほだされ、
ついつい自分の知恵を披露したくなってしまう忠氏。
~と思わせる一豊役の千秋さん。まさにハマリ役でしょう。

>それはまず、御本丸の秀頼公が先でしょう。(忠氏)
>はぁ~、やっぱりぃ・・・。(一豊)



>しかし、ここからは西の丸のほうが近こうござる。
>近いほうから先と、私は考えております。(忠氏)

>はぁ~、そりゃあ、西の丸のほうが近い!
>いや~、ありがとうござった。では、御一緒に。(一豊)


手にした数珠を見つめながら、
「西の丸組」が半分を越えた事を確認する本多正信

淀君秀頼に目通りする、三成の嫡男・隼人正島左近
西の丸にそびえる天守閣を嘆く大蔵卿

通常、一つの城には一つの天守閣と決まっているが、
家康は「西の丸にも天守を造れと」強引に命じ、
その建築費用も豊臣家の金庫から捻出させていた。



おそらく、豊臣家の金銀を減らすのが目的と、
家康の策を読んでいる島左近。
琵琶湖の鮎の行く末を案じる大蔵卿と淀君。
鮎は春にならなければ動きませぬ~と答える左近。

西の丸で多くの大名達の挨拶を受ける家康
>会津の上杉、、会津の上杉が姿を見せんな・・・。(家康)



上杉景勝はついに来ない。その代わりに会津周辺の各国から、
上杉が城を築き、兵を集めているという情報が矢の様に届く。

◆◆◆挑戦◆◆◆
「会津に謀叛の疑いありき」と、家康が派遣した問罪使、
伊奈図書頭(いな・ずしょのかみ)を徹底的に無視する上杉景勝
城を築いたり浪人を雇うなど、上杉の内々のこと、
他人にとやかく言われる筋合いではない!と突っぱねる景勝。

加えて、言葉では正しく伝わらぬだろうから、
書状にて上杉家の意向を示すと言い添える家老・直江兼続

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文中、先日の前田家の裁きについても、
やあやあ、最近の家康殿の御威光はすざましいものと皮肉りながら、
天と景勝は徳川の野望を見抜いていると書き放ち、
最後に追記として、三行の挑戦状を付け加えている。

噂によれば、家康殿にあっては、近々会津討伐に御下向とのこと。
万端、その節に仕ろう~つまり、来るなら来い、我らは国境に陣をしき、
お相手申すだろう
という意味になる。



上杉に対する家康の問罪を、逆に嘲弄するかの様な直江状。
激怒した家康は、書状を足で踏みつけると、
齢五十九になる今まで、
これほど無礼な手紙を受け取った事はない!と叫ぶ。
手にした刀で背後の竹を試し斬り。上杉討伐を号する家康。

諸大名の集まる場所は「江戸」と告げられた・・・。

▼ドラマ「関ヶ原」 ~江戸へ~