ドラマ「関ヶ原」~江戸へ~ | ♪ DEAR MY LIFE ♪

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◆◆◆江戸へ◆◆◆
深夜、家康の寝所。鹿の角を調合し、精をつける家康
佐和山の狐は城の整備に忙しく、立つ気満々と報告する正信は、
おそらく上杉と気脈を通じ、前後から挟み打ちにするつもりだろうと説く。



共に会津に行く気の阿茶の局は、出発の時期を気にするが、
他の大名達も女子供を大坂に残していくのに、
自分だけ連れて行くのでは、心の底を見透かされてしまうと説く家康。



>残る、のですか・・・。(阿茶の局)
>なごり、おしいか、な。ん~?(家康)

北政所の握り飯を頬張る福島正則は、
上杉討伐の為、江戸に集まることになったと告げる。
「この指、とまれじゃな」誰が一番先に江戸に来るか、
家康殿は見定めているのだろうと予測する北政所



家康殿の腹の内が読めず、少々、困っている正則
北政所が言うには、加藤清正も同じ事を尋ねに来たらしい。
「すべてを家康殿に任せておる」という彼女の言葉に、正則は、
お袋様がそう言うのなら会津攻めは先頭を切ると宣言する。

近々、会津へ向かう事をガラシャに告げた忠興に、
女の私には関係のない事と答えるガラシャ。

>何が不満なのだ?言うてみい。(忠興)

二十年前、父(明智光秀)ではなく秀吉様に味方した。
そして今度は、秀吉の忘れ形見・秀頼を見捨て、徳川に味方する。
疑問をぶつけるガラシャ。「それが細川家だ」と答える忠興。

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別室で控えていた小笠原少斎(中村竜三郎)に、
自分の留守の間、大坂で石田三成が挙兵し、
奥を人質に取るだろう、いや、必ず取る!~と語る忠興

その時は何としても奥方を守り、抜け出すと答える少斎だが、
美しい妻を人目に晒したくない忠興は、自害させよと命じる。
もし、拒むようなら、お前が殺せ、死体には火をかけ、
人目には晒すな・・と付け加える忠興。

五大老筆頭として秀頼公の名代として、逆臣・上杉景勝を討つ為に、
会津へと出発する家康
>6月16日、家康は将兵三千を連れ大坂を発った。(ナレーション)



>左近、見ておれ。わしは必ず勝つぞ。(三成)
>勝たねばなりません。(左近)



>義が、正義が勝てぬわけがない。(三成)
>正義ばかりが、勝つとは限りませんがな。(左近)
>いや勝つ!勝たねばおかしいのだ。(三成)

その夜、伏見城天守閣では、留守居役の鳥居彦右衛門元忠が
家康を出迎えていた。

◆◆◆最後の酒宴◆◆◆
石田三成が上方で兵を挙げれば、真っ先に攻められるのが、
この伏見城である。いわば「捨て城」と言える城だが、

この城の城主が、敵に囲まれた途端に降伏してしまっては、
徳川の『威信』は地に落ち、その後の戦略にも影響する。
また、たとえ奮戦の上、玉砕したとしても、
あまりにも、あっけなく全滅しては、徳川の『武威』が疑われる為、
ある程度は持ちこたえる必要があった。

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この難しい役目に、家康は徳川家の中でも律義で通っている、
鳥居彦右衛門元忠を選んだ。この老臣、家康より三つ年上。

少年時代の家康が、今川家への人質として送られた際、
お守役として付き従ったというから、家康との関係も古く、
以来、主人の為なら水火も辞せぬという典型的な三河武士。

家康の出世と共に石高も増え、今では下総4万石の大名なのだが、
同時に拝命する「何々の守」という官位を頑として受け取らず、
「それがしは、ただの彦右衛門でけっこうでござると」言い張り、
日本唯一、無官の大名として通し続けている。



この律義で朴訥、負けると分かっている防戦を愚直に行ない、
三河武士の勇猛さを存分に発揮して天下に戦慄を与える将を演じるは、
TBSの人気ドラマ『七人の刑事』の芦田伸介

芦田さんといえば、石原裕次郎主演「黒部の太陽」の山垣社長役や、
1992年の大河「信長 KING OF ZIPANGU」の斎藤道三など、
抑え気味のシブ~イ演技が光る俳優さん。この元忠も適役ですね。



>お前には本当に世話になった・・・。
>お前の体で、わしの足をあたためてもろうた事もある。(家康)

>殿も、、長い苦労をなされました。(元忠)
>最後まで、世話になる。(家康)

>なんの、もうお役には立てまいと思っていたのに死に花を咲かせて、
>いやいや、武士として、もう一度、夢を見ることができまする。
>殿、彦右衛門、嬉しゅうございます。(元忠)


家康から受けた酒を飲み干すと、手許で盃を叩き割り、
早朝に出立する家康を気づかって、席を辞する彦右衛門



>彦、脚は痛まぬか?脚は・・ん?(家康)
>なんの、なんの・・・。(元忠)

家康の優しい言葉に、足の痛みを痩せ我慢しながら去る彦右衛門。
「あの脚は『三方が原の戦』の時だった・・」
ひとり天守に残った家康は、顔を両手で覆いながら涙する。

これより28年前の1572年、三方が原の戦いに参加した元忠は、
  諏訪原城合戦で敵陣に潜入。敵の銃撃により足を負傷し、
  以後、歩行に多少の障害を残したとされている。

▼ドラマ「関ヶ原」 ~さらば、友よ~