軍師官兵衛:第15回 播磨分断 ~別所家の事情~ | ♪ DEAR MY LIFE ♪

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◆◆◆ 丹波、丹後、但馬の事情 ◆◆◆◆◆◆◆
1578年(天正六年)二月。
播磨の領主達を集めた加古川評定が開かれる。
この時期の前後、播磨の周辺各国の情勢は以下の通り。

波多野秀治(はたの・ひではる)
1575年(天正二年)、秀治は、明智光秀の軍勢と共に、
丹波国で織田氏に反抗する豪族の討伐するかに見えたが・・・、

1576年(天正三年)一月、突如として叛旗を翻し、
光秀の軍勢と、その援軍の山名軍を攻撃して撃退させている。
信長は光秀に再び丹波侵攻の命を下すが、丹波の山岳地帯、
地形を巧みに生かしたゲリラ戦の前に、光秀の軍勢は苦戦。
           【加古川評定】
1579年(天正七年)、6月、長期の籠城戦によって兵糧が尽き、
周辺各国~丹後、但馬の豪族が次々と討ち果たされ、
形勢が織田家へと逆転しつつある段階での光秀の調略の効果もあり、
ついに、光秀に降伏。

山名祐豊(やまな・すけとよ)
1568年(永禄十年)羽柴秀吉の攻撃を受け領国を追われ堺へ逃亡。
その後、今井宗久の仲介で信長に許され、二年後に但馬へ復帰。
1575年(天正二年)、明智光秀の丹波侵攻に呼応しつつ、
1576年(天正三年)、光秀と共に波多野氏を攻めるが、これに敗退。
           【加古川評定】
1579年(天正七年)、6月、波多野氏の居城=八上城が落城するも、
重臣の太田垣氏がこれまで敵対していた毛利氏(吉川元春)と無断で和睦。
結果的に信長を裏切るはめになった山名氏は、信長の怒りにふれ、
羽柴秀吉の但馬出兵を許すことになる。



一色義道(いっしき・よしみち)
毛利氏、上洛した織田氏とも親交を深めつつ、
将軍足利義昭から「義」の文字を賜る。
信長の越前一向一揆討伐にも参加している。
1571年(元亀二年)、信長の比叡山焼き討ち事件。
この焼き討ちで追われた延暦寺の僧をかくまったことで、
1578年(天正六年)、明智光秀細川藤孝による丹後侵攻が始まる。
           【加古川評定】
1579年(天正七年)、丹後国人の相次ぐ寝返りにより山名氏への亡命を画策。
しかし重臣の細川藤孝への内応によって自害。

◆◆◆ 姻戚関係 ◆◆◆◆◆◆
別所家の当主=長治の妻は波多野秀治の娘(=妹という説もあり)で、
波多野家と別所家は、同盟関係にありました。
同時に、長治の弟は山名家から嫁をもらっているという説もあり、
その山名家の当主=祐豊(すけとよ)の妻は一色義秀の娘でした。

勿論、戦国の世にあって、この種の姻戚関係が、
恒久的な同盟関係を約束するものではないとはいえ、

この「加古川評定」の時期には、
妻の実家=波多野氏が光秀に攻撃されている最中であり、
長治の苦渋の大きさは、容易に想像できるかと思えます。

◆◆◆ 賀相と重棟 ◆◆◆◆◆◆
信長の上洛早々、小寺家の家老だった官兵衛が、
いち早く織田家への接近を試みたように、

重棟(しげむね)も、信長と共に上洛した足利義昭のもとへ、
別所一門を率いて馳せ参じ、以降、信長との親交を深めるべく、
別所家の外交を担当していきます。

また、ドラマの中では、長浜城で官兵衛の息子=松寿丸と、
剣術稽古をする市松(福島正則)が登場していますが、
この重棟の妻は、福島正信の娘であり、
あの市松の姉であることもポイントでしょう。



当然、秀吉はこの重棟を、同じ播磨の官兵衛と共に重用し、
ドラマの中でもエピソードとして紹介されていた通り、
官兵衛の息子である松寿丸重棟の娘との婚姻を決めたりします。

もともと仲が良いとは言えない賀相(よしすけ)としては、
将来、播磨平定が成就すれば、秀吉の出世と同時に、
重棟の地位も高くなるのは明白で、かなり面白くない。

なんとかして重棟と秀吉の鼻をあかしてやる機会を、
虎視眈々と狙っていたのかもしれませんね。

◆◆◆ 別所家の家風 ◆◆◆◆◆◆
平安時代から続く赤松家の庶家(しょけ)だった別所家
本家より別れた一族とはいえ、
播磨における赤松氏の血族集団だった別所家は、

尼子家三好家が播磨に侵入し、周辺諸将が寝返る中にあっても、
毅然と戦い続けた実績がありましたし、
赤松家の重臣だった浦上家が主家を凌ぐ勢いだった頃も、
赤松家を裏切ることがなかった点からも、

外敵に対して断固拒絶する~という対応が、
別所家の伝統的な家風になっていたのかもしれません。



また、赤松の庶家という名門ゆえの自負心の強さから、
尾張守護職に仕える家老の一つの織田家、
その家老の下の奉行の家柄でしかなかった信長の織田家など、
その風下に立つなど許せないものがあったでしょうし、

播磨に着任した、百姓あがりの秀吉など、
話しにならないという思いがあっても不思議ではないでしょう。

◆◆◆ 秀吉の策謀説 ◆◆◆◆◆◆
この時期の信長は、家臣へ与える褒美を、
「領地」から「茶器」に代用することにより、
なるべく自身の直轄領を増やし、
圧倒的な軍事力を築き上げようとしています。

苛烈な手段とも言えますが、従わない者は滅ぼすまで~という、
信長の作戦は、天下統一を成すには不可欠な手段だったでしょう。

逆に秀吉や官兵衛が用いる~調略によって従わせる~という作戦は、
敵味方の兵士を損なうことが無くて済むという長所はありますが、

互いに兵力が温存されている分、
たえず寝返りの心配をしなくてはなりませんし、
配下の武将達に与える褒美や、その先の毛利との戦いに必要な戦費を、
どうやって捻出するのか?~いう短所もあります。



ドラマの中でも、乙御前の釜を頂いて、
ありがたがっている秀吉の姿がコミカルに描かれていましたが、
長浜から姫路までの兵糧の運搬、人足の手配など、
播磨での着陣が長引くほど、その費用は膨大に膨れ上がっていくはず。

そこで秀吉としては、東播磨で最大の領地を持つ別所家に着目し、
不穏な動きを見せる賀相を利用して、
あえて重棟を贔屓することによって、賀相を追い込み、
加古川評定で決裂するように仕向けていった~という説です。

このドラマでは、優柔不断な当主=長治や、
織田家に従おうとしない賀相、そこに付け入る毛利の使者など、
官兵衛の主観によって、彼の苦悩が描かれていますが、

また、別の視点から考えると、

策士秀吉が、能動的な意志を持って、
賀相を破滅への道に追い込んでいった~とも考えられるでしょう。

◆◆◆ 毛利家の陰謀 ◆◆◆◆◆◆
加古川評定の約二年前、「第10回:毛利襲来」の中で、
1576年(天正二年)五月、英賀の浜に毛利軍が上陸。
窮地に立たされた官兵衛は、この戦いになんとか勝利しますが、
実はこれも毛利側の遠大な陽動作戦の一つで、

織田軍を播磨に呼込み、西播磨の上月城まで引き入れた後、
補給路に位置する東播磨の別所家に謀叛させ、

織田軍が別所の三木城を取り囲んだところで、
今度は西播磨に侵入、上月城を奪還する。
この様に、敵を西に東に奔走させて消耗戦を展開する、
吉川元春の策だったという説。



侵入される側としては、なるべく敵を自領の奥深くに誘い込み、
補給路がのびきった所を、一気に叩く~という戦法が効果的。

また、播磨は毛利家の領土ではありませんから、
もしも、別所家の籠城戦が失敗して滅んだとしても、
毛利の損害は少なくて済み、余計、好都合だったはずです。


いずれにせよ、なぜ、賀相が反旗を翻したか?
その明確な答えは我々現代人には分かりませんが、
もしも武田信玄が、あと五年生きていたら?
上杉謙信が三年、生きていたら?

その後、官兵衛が見た風景も、
また違った景色になっていたのかもしれませんね。

▼軍師官兵衛:第15回 播磨分断 第4幕