インド北部ウッダルプラデシュ州アヨディヤで22日、「ラーマ神生誕地」をうたうヒンズー寺院の「落成式」が行われれました。ヒンズー至上主義の右派与党インド人民党(BIP)のモディ首相自らが参加し、国を挙げた祝賀ムードを演出しました。憲法がうたう政教分離の原則に反するとして、多くの野党代表が式典への出席を見送りました。

 

南部ケララ州ではインド共産党(マルクス主義)のピジャヤン州首相がメッセージを発表し、世俗主義(宗教と政治の明確な分離)は、「民主的共和国であるインドの魂だ」と指摘。「憲法を守ると宣誓を行ったものは、すべての人々が平等な権利を持てるように保証すべきだ。一つの宗教を推進し、他のすべての宗教をおとしめることはできない」と述べ、モディ首相による宗教の政治利用を批判しました。

 

草の根会議派のバナジー西ベンガル州首相は同日、コルカタで全宗教の調和をテーマに集会を開きました。

 

今回寺院が建設された敷地には、かつてムガール帝国時代に建立されたモスク(イスラム教礼拝所)が建っていました。BIPやその支持母体のヒンズー至上主義団体は、「イスラム教徒の支配者がラーマ神の生誕地にあったヒンズー寺院を破壊して建てたモスクだ」と大規模な宣伝を行い、寺院建設運動を展開しました。

 

その極致が1992年12月に起きたヒンズー至上主義者の暴徒による同モスクの破壊でした。この事件をきっかけに全国でイスラム教徒とヒンズー教徒の衝突が広がり約2000人が死亡しました。

 

ラーマ生誕寺院建設運動を中核にしたヒンズー至上主義勢力の動員力によってBIPは勢力を拡大。96年の総選挙で第1党に進出しました。その際は13日間で下野したものの、98~2004年に初めて本格政権をつくり、核実験の実施などタカ派の政策を進めました。

 

14年から2期続くモディ政権の下で、ヒンズー至上主義団体によるイスラム教徒やキリスト教徒に対する迫害が激増。ヒンズー右派の思想に沿った教科書の改変や各国家機構への政権寄りの人物の配置などが進みました。

 

その結果アヨディアのモスク跡地の所有権が争われた裁判で、最高裁は19年11月、ヒンズー教徒側に所有権を認め、ラーマ生誕寺院の建設を容認する判決を出しました。イスラム教徒には、アヨディヤ市内の別の土地を割り当てるとしましたが、モスク建設は進んでいません。

 

同判決はまた、92年の事件で「法の支配の重大な侵害があった」と認定。しかし20年、ラクナウ高裁は、同事件に関与したとされてきたBIPの重鎮政治家を含む32人を、全員無罪としました。(伊藤寿庸)

 

 

2024年1月24日付「しんぶん赤旗」より

 

 

ヒンズー教はバラモン教を母体として生まれた宗教であり、典型的な多神教です。またインドで衰退して、東アジアと東南アジアに伝わった仏教も母体はバラモン教です。だからヒンズー教と仏教とは「兄弟関係」になります。

 

ヒンズー教で一番有名な神はブラフマン神、ビシュヌ神、シバ神です。また仏教の開祖である釈迦も、ヒンズー教では神に位置づけられています。

 

インドは第2次世界大戦後にイギリスから独立したのですが、その際ヒンズー教徒が多数派だった地域が現在がインドであり、イスラム教徒が多い地域が西パキスタンと東パキスタンとなりました。このうち東パキスタンは独立してバングラディシュとなりました。1970年代のことです。

 

とは言っても、現在のインド国内にはイスラム教徒も居住していますし、新たに仏教徒になった人たち(いわゆる「不可触民)も居住しています。また大乗仏教に属する密教は、6世紀中頃にインド南部の密林地帯で誕生したとされていますが、ヒンズー教の影響を強く受けています。これは他の仏教(大乗仏教と上座部仏教)に比べて遅く誕生したために、必然的にヒンズー教の影響を強く受けたわけです。