市川 竜
それは小学校三年生の下校時のことだった。
登下校時には必ず同じクラスになったN.Eさんの家の前を通るのだが、その日彼女は体の調子が悪いとかで学校を休んでいて、どういう偶然だったのか、私は玄関から出て来たNさんと鉢合わせになってしまった。おそらく病欠の身で外に出ていることを見られてまずいと思ったのか、学校では絶対に見ない白いワンピースの裾をパッと翻して家の中へ入ってしまった。
私は「あっ」と叫んでいた。
彼女は痩せ型で色が白くて可愛いくて、もしお嫁さんとか貰うのだったらこんな子がいいな、と幼いなりに思っていた私は、突然の出会いに思わず笑顔になっていたに違いない。それをどんな意味に取られたのか。しかし一瞬Nさんと話が出来ると思ったので、さっと雲隠れしてしまったことにがっかりした。
でもその時のフランス人形のように美しいNさんの姿をいつまでも忘れることができなかった。
こういうのを初恋と謂うのであろうか。
学校での彼女はよく休みはするものの、勉強はよく出来て、馬鹿の私には近寄り難い存在だった。好きだけど、そんな想いは心に秘めたままで小学校、中学校と年は経って行ったが、彼女は眩しいほどに美しくなっていって、ますます手の届かない所に行ってしまうようだった。
憧れはこんな身近にありても想うものなのか。
そんな私が不思議なことに新しい恋をしてしまった。
中学二年の放課後だった。
本馬鹿で図書委員でもある私は、職員室の上にある図書室への階段を昇っていた。
その時、図書室から本を抱えて出て来る一人の小柄な女の子とすれ違った。一年生の図書委員だとは知っていたが、真近でハッキリと見るのはこの時が初めてで、Nさんと同じように目鼻立ちが整っていて賢そうだった。そしてその白い膚を何故か紅潮させつつ恥ずかしげに俯いていたのが魅惑的で、私は心臓をギュッと鷲づかみにされたように感じた。
あぁっ、どんな馬鹿でも分かる。これは紛れもなく恋だ! Eっちゃんご免なさい。
私はそのまま図書の貸し出し室に入り、貸し出しノートを開いた。それは借りた本の書名と借りた人の名前を自分で書くものだったが、そこにはもちろん、今出て行った女の子の名前が書いてある。
M.Hさんか・・・。
とてもいい名だと思った。Mはどこか雅な苗字で、Hはひらがな。そんな名前まで素敵に見えて、私は余計に彼女のことを好きになってしまった。
Mさん、Hさん、MHさん、MH、MH・・・ふうっ、Hさま。一人だけになった時、私は何度も何度も彼女の名を口にしていた。
そんな一人想いに狂っていた二年生の冬、女子同級生との間でちょっとした事件が持ち上がった。
同じクラスのT子はさほどの美人ではなく、不細工でもなくて、可愛いといえば目がクリクリとして何となく可愛い部類に属するだろうか。しかし学業面では目立つ存在でもなく、あいつは馬鹿だと陰口する男子もいたりして、賢女嗜好の私も進んで近づきたいとは思わなかった。
事件は休憩時間に起こった。
私はダルマ型の石炭ストーブに右半身を向け、右手を伸ばして暖を取っていたのだが、その背後に近づく者がいた。
誰とかは気にせず振り向こうともしなかったのだが、ジワッと背中に丸いもの二つを相手から押し付けられていた。
私はそのままの姿勢で、そのゴム鞠のような感触の正体は何かと考えを巡らした。
柔らかくて気持ちがいい・・・これはもしや女の子の双丘・・・えっ、誰のだ。
そのままでいる所を見ると、わざとしているとしか思えないのだが、こちらは周囲から丸見えでいつまでも楽しんでいるわけにもいかず、そっと離れてから振り返ると、T子が黙って私を見つめていた。
嫌いな相手ならこの件は黙殺するか、そうでなければ二人だけで何らか?の内緒の話し合いをするとかの常識的な対応が有ったと思うが、私は本物の馬鹿だった。
つい仲の良かったY君にこの秘密を喋ってしまったのである。
黙っていてくれると思っていたY君は、聞いたその足でスタスタとT子の立つ場所へ行き、
「お前、市川が好きなんか?」
とストレートに聞いてしまったから堪らない。一瞬目を丸くしたT子は、たちまち真っ赤な顔になった。そして彼女はツカツカと私のそばへ来ると、
「うち、市川君なんか、大嫌いや!!」と喚いた。
そのあとT子は自分の席にドタンと座り、机に突っ伏して泣き出してしまった。
これはえらいことになったと感じた。
「おい、市川、どないするんや。T子泣いとうやんか」
とY君がほざく。それは大体お前がいらんこと言うからだろ!
「市川が好きなんやで。何とかせんか」
何とかせんかと言われても・・・
混乱する私の脳裏をMHさんのことがよぎり、
「僕はT子のことなんか知らん!」と言っていた。
しばらくして泣き止んだT子が立ち上がり、私のそばへ来た。
「なんよ! 市川君なんか! カナヅチやし、自転車もよう乗れへんし、運動神経ゼロやんか! 誰があんたなんか好きになるん!」
確かに私はカナヅチで自転車にも乗れなかった。私は少し傷ついたが、教室を出て行くT子のケロッとした後ろ姿にチョッピリ安堵もした。
丁度そんな時期だったろうか、校舎を繋ぐ渡り廊下を通る時、向こうからMHさんがやって来た。向こうは二人連れで、一緒なのは同じ学年の仲良しY嬢である。
Hさんは俯き加減、私はドキドキですれ違おうとする直前、Y嬢の小声が聞こえた。
「市川さんやで」
Y嬢に小突かれたHさんはパッと真っ赤になっていた。
エーッ、Hさん、僕のことが好きだったんだあーあーあー。もう嬉しくて、嬉しくて、夢見心地とは、まさにこのことである。
となると、何とかして彼女とコンタクトを取りたいが、顔を合わす時はいつもY嬢や、もう一人の仲良しS嬢と一緒なのである。この三人は私と同じ地区から通っているので登下校も一緒のことが多く、シャイな私はHさんになかなか近付くことが出来なかった。
それまで成り行きだけでなっていた図書委員を三年生になったら性根入れてやろう、と珍しく生きる意欲みたいなのが湧いていたけど、いよいよ三年生になった時、意外な人が先に手を挙げてエッ・・・何で、と思った。
同じクラスになった初恋のNさんである。Nさんだって図書委員が私の指定席であることを知っているのだが、各委員を決めるというその日、彼女は私の傍に来ると、
「私、図書委員やりたいけど、いい?」
と尋ねた。とにかく私はこの人に弱くて頷かざるを得なかった。後でちらりと聞いた話では、副委員長とかの面倒な役から逃げるためだったとか。そりゃないよ、嘘だよね。
このことはかなり応えて、私はすっかり元気を失って行った。何か暗雲のようなものに行く手を阻まれた感じで、勉学の意欲すら失せていくようであった。
ああっHちゃん、どうしたらいいんだろう。
学校から帰宅する時はMHさんの家の前を必ず通る。何とかお付き合いの糸口を掴めないかと思案しながら通る。Mさんには二つ下の弟が居る。地区の活動とかで一度ぐらいは話したことがある優しそうな少年だ。手紙を渡してもらえないかな、と思うが小学生を使うなんて道義的にどんなものか。
ある下校時、MHさんの家に近付くと彼女のお母さんが家の前で立っていた。お母さんはとても綺麗な人で、私を見ると何故か首を横に振って、ため息をついたように感じた。
もしや、娘が好きだという男の子を見ようと思って待っていたのだろか。
その時のお母さんのどことなく困惑した様子から「こりゃ駄目だ」と私は思った。中学生の分際で恋人を作るなんて早過ぎる。私が親ならそう思う。
学校でもある日、廊下を歩いているとMさんとS嬢が二人して立っていて、Mさんは例によって恥ずかしそうに俯き、S嬢は値踏みでもするような目付きで通り過ぎる私を見送った。
恐らくMHさんは親友のS嬢に三年生の人が好きだと告白し、S嬢がどんな奴だかこの目で確かめてやると言って見に来たのに違いない。
二年生のS嬢は三年生男子の間でも人気の美人で、算盤の全国大会にもよく出掛ける才媛だった。この計算速い人は私の事をどう判定したのだろうか。
もんもんと過ごすうちに夏は秋になって、もうすぐ高校受験というのに私の成績はどんどん下り、そんな私に何を感じたのか、Nさんが珍しく、
「一体どうしたの。ちゃんと勉強したら」と言ってくれた。こんな忠告をしてくれた女生徒は彼女だけだった。この人は私のことをどう思っているのだろうか。
私の心は何かに引き裂かれるようで、益々もんもんとなるばかりで勉強どころではなかった。
もういいや、進学は諦めて就職するか。そう決めると、気が軽くなった。
町を支える産業は衰退気味で、就職するとなると町を離れざるを得ない。もうそれは恋も諦めるという決断に近かった。
土台あんな可愛い子、僕には勿体無いし、付き合ったからといって、幸せにしてやる自信がまったく無いだろう。私は自分にそう言い聞かせた。
もう冬の下校時だった。空は晴れていたが、前日の雪が融けずに道路に残っていた。
ある地区を抜けると、私の暮らす地区までの300メートルばかり人家の無い寂しい道を通らねばならない。300メートルの違いで手前の地区は徒歩通学で、私の地区は自転車通学が許可されていたのだが、前にも書いたように私は運動神経ゼロで、自転車に乗れず中学の三年間を歩いて通した。一部の男子の中には「市川って根性あるな」と尊敬の声を呈する者がいたが、それは勿論誤解で買い被りだ。ただこけるのが恐くて自転車に乗れなかっただけなのだ。
その時、後ろから自転車が近付いてくる気配がした。
追い越して行こうとしていたのはMHさんだった。
声をかけるなら今が絶好のチャンスだ。いや、駄目だ、こんなところ誰かに見られたらどうしよう。それに何を言えばいいのだ。
何かが頭の中でグルグル回っているような気分だった。そしてそのまま彼女が十メートルばかり先まで進んだ時、彼女の自転車は雪にハンドルを取られたようによろけ、そして倒れた。
あっ、やった! 私は心の中で叫んだ。
幸い本人は倒れずに着地していたが、自転車の荷台からはカバンが雪の上に投げ出されていた。
常識ならここで私は「大丈夫ですか!」と叫びながら駆け寄り、彼女のカバンを拾うべきはずであろう。たとえ相手が好きな子で無くとも。
しかし呆れたことに私は、そのままの歩度と無言のまま、自転車を起こしてカバンを拾う彼女へと近付いていく。
まだ遅くはない、何とか言えー。
しかし何を言えばいいのだ。好きです、か。そうだ文通して下さいとか。いや、とにかく大丈夫ですか、だろ。そしてどう言う。好きです、文通して下さい。でもお前、彼女を幸せにする自信があるのか。馬鹿ヤロウ、そんなことこの際どうでもいいだろう。
頭の中が真っ白になったまま彼女のそばに来ていた。すでにカバンを荷台に縛り直した彼女の横顔を見ると、怒っているように見える。
ああーやっぱり駄目だ。
Hさんは憮然とした表情で再び自転車に乗ると、今度はよろめくことなく雪道を去って行った。
この事件はもちろん私にとって衝撃だったが、彼女にとってはどうだったろうか。私が彼女に対して好意を持っていないと思ったかもしれない。それでも全く無視するなんて酷い男ではないか。