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ある冬の日の光

今まで自分の日記じみた事を書くツールは何度かやってきたけど、結果的にリアルの知り合いが見ているものは
自分をよく見せようとする気持ちが働いてしまって、自分のダメな所はさらけ出せない。
ここでは、素性を隠す替わりに本当に心の内を書いていってみたいと思う。

昨年の父の死以降、自分の人生、残った時間、なにを

やりたいか、などに思いを巡らす時間が多くなった。

一人の人生が終わったのを見て、「人生には終わりがある」と

いうことを正面から突きつけられたからだろう。

 

だけどどんなことをやろうにも、次の瞬間には

「それをやってなんになる」という言葉が出てくるようになった。

子供のころからやりたかったマリンアクアリウム、やって

どうする、という・・・。

ある程度の節約生活にはなるだろうし、電気代やらなにやら

色々金がかかる。

 

自分で何か文章を書いたり動画にして、ユーチューバー

じゃないけどネットで世に発表していく?

好きなものを集める?

撮りためた動画を整理する?

 

それも、やってなんになる、だ。

「死」がそう遠くない場合、自分が死んだら何にもならない。

しいて言えば、お金になる活動だ。これは生きてる限りは意味があり、有効。

だけど結局それは仕事をしているだけ。

「趣味」「楽しみ」でやっていることがお金になればいいが。

 

駅前で、高校生くらいの女の子が、運動部の帰りであろう、

運動着で汗をかきながら試合で使う道具を持って歩いていた。

自分にも覚えがある、そんな年代。

けど、その先にも結局「死」が待っている。

今彼女はその競技が上手くなること、試合に勝つこと、

大会に出ることを考えているかもしれない。

自分にもそんなときがあった。

だがそれに何の意味があるのだろう、と感じる。

 

どうも鬱っぽく聞こえるが、別にうつ病というわけでもない。

永遠に消えない何かを持ちたいんだ。

それは多くの場合、「愛」という答えになるのだろう。

だがその対象がいない場合、どうすればいいのだろう。