「この数年間とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかもわからずに、僕はただ働き続け、気付けば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実であった思いがきれいに失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。 」

この言葉には色々な意味がある。
幼馴染の初恋の相手、初めてキスをしたあの日。

それが月日をえて彼女は「結婚」という選択をする。
相手は勿論・・・。

小説もアニメもコミックもすきなわたしだけど、秒速を見たときは(アニメ)むねが苦しくなって、ああ、こんな想い忘れていたんだと。

会社なんてやめていいんだ、とここでわたしが発したら怒られそうだけどそうなんだ。
何度でもコピペしよう。よく見てほしいんです。

「この数年間とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかもわからずに、僕はただ働き続け、気付けば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実であった思いがきれいに失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。 」



そして最後のメール。


「わたしたちは1000回以上メールを交わしたけど、心は1センチも縮まらなかった。」





昔は文通だった。
文通は筆跡で相手の気分や精神状態まで分かる気がする。いや、確かに感じた。
「ラブレター」

今じゃメールで終ってしまうだろう。

「愛してる」

たったその言葉の重みが文通とメールでは大きく違うものだ。
メールでは文体も絵文字を付けようがなんとなく軽い。


心は1センチも縮まらない。そうだ。そりゃそうだ。


わたしから言うと「所詮、電子文字の定型文なのだから」


でも、それを否定することは出来ない。だって、メール・・・携帯ぱそこんの時代なんだから。
否定しても始まらない。時代には乗るべきだと思う。


そして、それを経て1センチも縮まらないんだから、仕方ないだろう。


最後にもう一度。

「この数年間とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかもわからずに、僕はただ働き続け、気付けば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実であった思いがきれいに失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。 」



辞めてよかったんだよ。

人はなぜ人を殺すのか――河内音頭のスタンダードナンバーで実際に起きた大量殺人事件<河内十人斬り>をモチーフに、永遠のテーマに迫る渾身の長編小説。殺人者の声なき声を聴け!



とても面白かったです

太宰治の人間失格と比較された文章をいくつか読みましたが、

いまいちぴんとこない、でもわかる、不思議な気分


しいていえば、人間失格と読後感が似てるな、と思ったのです

いちいち偉そうな批評まがいなことを言いたがるわたしは

小説を読みながらこのほんのメッセージは、魅力はと

偉そうな立場からほんを読んでしまうのですが

このほんは、ただ惹きこまれ、そして、なんだったのか、釈然としない、

けれどなんか熱を帯びて面白かった、ひきこまれた、と強く感じる

そういうほんです

偶然同時期に同じタイトルで違う作者のほん(湊かなえ)を読んでいたけど

今おもうと同じ告白、でもなんというか質というかレベルというか全然違うなぁ,,,

もちろん、こちらの告白のが真の告白です

一冊で842ページもあり、とても読み応えがあります

時代背景とコテコテの河内弁が、読みなれてないわたしには最初とっつきにくく、

この調子でこんな厚い一冊を読めるのかな、、と思っていましたが

数ページで物語に引き込まれました。

内容も辛く重いほんかと思ってたけど、

むしろきらりとひかる文章のセンスとユーモアに、小気味よく軽妙な河内弁が魅力をあげて

何度も噴きだしてしまう面白い一冊でした。


人間失格の主人公のように同じ内向的につっぱしるとはいっても、気取ったところはなく

このほんの主人公、熊太郎は誰よりもまっすぐで人間味溢れていて、だけど不器用で、

こういう思弁的でしょうもない面って、結構自分にもあるわよね、と熊太郎に愛着がわきます


長い話も無意味に長いわけでもなく、じっくりと思考と言葉の耐えられない不一致をあらわしていき

犯罪者というものも、訳あっての犯罪者よね~と、ダメ人間思考な自分は共感するダメっぷりでした


本当に、8割、いや9割がリズミカルで惹きこむ、面白い文章と展開なので

漫画を読むテンションで読み進めたけど、最後は考えさせられるものになり

ただの娯楽ではなく、これは非常に練り込まれた、深く重い、はなしだったんだなぁと唸りました。


犯罪者であろうが、堕落したやくざ者であろうが、その心理描写は見事で

私小説で心理を描くものよりも、ひとつ冷静な視点というか、立ち位置で描けているので

太宰治の人間失格よりもすぐれてるといってもよいのではないかと思えます



考えてもしょうがない、自分の真実なんてどこにもない、自分に甘く、正当化して、何度も何度もやりすごした熊太郎は最後に気づく。そう、賭博と一緒のことを。

「大きな厭な気持ちから逃れようとしてあえて小さな厭なことをやったらもっと厭な気持ちになった。救 われるのではないかと思ったけど結局は救われなかった。どっちにしろ負けを取り戻すことができないということがいま分かった。だから俺はもっと早く勝負を 降りるべきだった。そうすれば負債は負債でもより小さい負債ですんだ。それがいまわかった。」


子どもの頃に戻れたら、そう24歳の時に思った熊太郎。

30代でまた24歳、あの頃に戻れたら、そう思う熊太郎。

その自分自身の思考回路のしょうもなさにはなかなか気付かない。


「まだ、ほんまのこと言うてへん気がする」

しかし、最後の最後まで熊太郎に真実の言葉はなかったのだ

徹底的に自己正当化し、人生における負けをとりもどそう、取り戻そうとしてる内にどうしようもないところまできてしまった。

そして、最後の最後まで、残虐に人を殺しても自分の指の痛さには耐えられなかったり、自分が救われたいが故に無二の友を切っても、それさえもより多くの人の死を防ぐためだと正当化していた自分がいた。


なんらの言葉もなかった

なんらの思いもなかった

なにひとつ出てこなかった


客観的にみれば、実にばかげている、あほか、といいたくなるであろう。

しかし、熊太郎的人間じゃないと、あなたは言い切れますか?


最近のヒット作は、自己正当化した、癒しのような話が多いです

悪と自分はまるで別の次元かのような、ひたすら自分(=主人公)を魅せるほん

そんなほんに飽き飽きした時、人間のズルさを捉えたこの作品は逸材

結局周りを批判することにより自分を確立するなさけない人間なのです

熊太郎と、わたし、まさに同族です

あなたはどうでしょうか

太宰治は1933年(昭和8年)に作家デビューするが、1935年(昭和10年)には東京帝国大学落第・都新聞入社試験の失敗から鎌倉で自殺未遂を 起こし、パビナール中毒にも陥り、東京の武蔵野病院に入院していた。1937年には愛人の小山初代と再び自殺未遂を起こしている。

1938年(昭和13年)9月13日に太宰は井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある土産物屋兼旅館である天下茶 屋を訪れる。太宰は井伏の付き添いで同18日には甲府市水門町(朝日一丁目)の石原初太郎の娘美智子と見合いを行ない、11月6日太宰は美智子と婚約し、 甲府市竪町(朝日五丁目)の下宿屋である寿館に写り翌昭和14年1月8日には正式に結婚し甲府御崎町(朝日五丁目)の借家で新生活をはじめる。この間に発 表されたのが「富嶽百景」をはじめ「黄金風景」「女生徒」「新緑の言葉」などの作品群で、二冊の単行本も刊行している。(ウィキペディアより引用)



「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」


この短編はとても日本語が綺麗

驚くほど綺麗


太宰が生活を立て直すため療養のために訪れ、実際に過ごした日々を綴ったお話

富士についての記述が何度もでてきるけど、一度も同じ表現は繰り返さず

まるでとある人間の生き様の如く見守る太宰

富士山について、いままで一体いくらくらいのひとが言葉に乗せて称えたことだろうか、

それにしても太宰治のような感性で、情景を描き、まるで憎めない恋人のような感覚でかけるひとはほかにいるのであろうか

月見草のお話の部分なんて唸ることしかできない

花嫁とかカメラのくだりは、見事すぎて逆につまらない

ただ、文章を愉しむ作品です


富士は小学校の頃登ったし1年半くらい前には富士を眺めるためのハイキングにとまりがけでいきました

あいにくの天気で、絶景ではなかったのですが、霧靄の中に聳え立つ日本の山は、やはり素晴らしかった

あ~また登山したいなぁ


ひとはなぜ富士山を目指すのか。

色々な理由があるであろうが、

本能的に天を目指す本質が人間には備わっているのかもしれない



このお話がほぼ実話ならば、生活の中にいくらでも詩的なことって隠れていて、

それに気づけるセンシティブな人は、同じ日々でもこうも感じ取ることができるのか



河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色 の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士が よく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆(えいたん)ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大 きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごと く、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、 胸に深い憂悶(いうもん)でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥(いちべつ)も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見 つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見 せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつと すり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。


有名な記述ですが、これは富士を「権力や権威」の象徴であり、月見草はそれに歯向かう太宰自身だ、と いう解釈はいまいちピンときませんね、わたしはこの部分を読んで、結局太宰は可憐な月見草であっても富士と相対することで輝きがますと考えなによりもまず 富士に魅せられているわけで、もちろん男性ならば常に持っているであろう、権力の希求心という野心も含まれているとは思うけど、もっとここでいう富士は、 太宰の感じる世の中、社会、世界のすべて、不透明で予想だにしないものに対する恐怖、そして魅力、つまりは生きづらいこの世のすべてのものであって、でも 自分だって得たい、そういう堂々たるものにいちばんよく似合うのは、どこにでもあるような小さなお花。ちっぽけな自分。老婆への好意は、その大きな富士よ りも小さなお花に慮るセンスであるわけです



似た雰囲気のお話で「黄金百景」もあります

女中とのお話で最後の「負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」にすべてが凝縮された整合性のとれた素敵な短編

ひとがいちばん苦しむのは、罪に対する罰ではなく、それを許してくれた者への罪悪感なのだ・・。