戦車今昔物語(その1) 3. 初めて戦車を迎えて | 軍曹!時間だ!…

戦車今昔物語(その1) 3. 初めて戦車を迎えて

3. 初めて戦車を迎えて

 

 さて、その後、大正十四年五月に戦車隊が創設されるまでは大体において英国中型A戦車二両と仏国FT型ルノー軽戦車三両の五両をもって歩兵学校内に軍用自動車調査委員の嘱託というような名義で、二十数名の将兵をもって様々な実地研究を行った。その間、毎年概ね将校一名、下士官二、三名が自動車隊に練習を受けに行ったのであるが、それ等の人々は今なお多くが戦車関係の職務に就き、今度の事変にも参加し皆、はなばなしい武勲を立てている。馬場英夫少将、石井廣吉少将、兒島中尉(故人)、細見惟雄少将、吉松喜三大佐、加護武一中佐などの猛将は当時中尉か大尉で研究に従事した人々で我が国、戦車界の至宝である。

 

 大正九年一月、まずA型戦車二両を学校へ御迎えした。

 ヴィッカース軽機関銃が各車に四銃付いているほか、工具及び予備品は元より潜望鏡まで完全に備わり、それに弾薬千発というから、嫁入り道具一式に持参金といった有様であった。私はその当時から、戦車でも自動車でも作った時には工具はもちろん、部分品は必ず同時に備え付けるべきだな、ということを痛切に感じていたのだが今度の事変において、ますますその必要を痛感する次第である。

 

 その後FT型ルノー軽戦車も迎えたが、これは全備重量六トン半、最高速度八キロ位のものであるが、それでも欧州戦当時は仏軍戦車の主体をなしていた事は一般に知られている通りである。先日、戦車学校開記念日に参列した際、校庭で行われた演習で優秀戦車の後について遅れまいと走って行く姿は、誠に可愛くもあり、懐かしいものであった。

 

 これから戦車隊創設までの事は知る人も余りないのであるが、その間の苦心は真に並々ならぬものがあると共に、我が国の戦車発達史を研究する上において避けて通れないものである。

 

【補足解説】

 

■今度の事変

支那事変(日中戦争)の事である。

この時点では終わっていないので名称もない。

 

 

 

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