T理論における自我やゴールの定義に大々的に可能世界の概念が導入され界隈が沸いておりますが、すでにSFの世界ではマルチバースは定番の設定になっております。
エブエブに至っては別の可能世界との通信までできてしまうのですが、フィクションではないサイエンスである物理学でも並行宇宙論や多世界解釈が提唱されるようになり、自然が芸術を模倣する様相を呈しているようです。
物理学でいうマルチバースは宇宙が生まれた時にそれぞれ異なった物理法則や定数を持つ無数の宇宙が生まれ、今我々が観測している宇宙はその中の1つであるという説で、この宇宙が生命が誕生するのあまりにも上手くできすぎていることがうまく説明できる概念なわけです。
多世界解釈は、量子力学における観測問題を解決する解釈であり、波の束として広がりをもって表現される物理現象が観測されるとあたかも波が収縮するように位置や運動量が決まるというコペンハーゲン解釈に対し、観測時に世界が分岐することで「収縮」という余分な概念を持ち出さなくてもよくなり、二重スリット実験で生じる干渉模様も説明可能になるという利点があります(と私は思っております)。
ということで上掲の野村先生をはじめとしてマルチバースや多世界解釈が物理学界では優勢なのかと思いきや、数年前に現代量子力学の教科書の決定版と言われる書物を上梓された堀田先生は真っ向から否定しておられます。
最近のマルチバース理論は、超弦理論の予言能力の行き詰まりをなんとか回避しようと、半ば苦し紛れで考えられたものと言えます。超弦理論は、「万物は弦から出来ている」と考える仮説であり、そしてそれは究極理論(theory of everything)であると、期待もされていました。この理論の方程式を完成させて、それを解けば、この宇宙のすべてのことが理解できるのではと、素朴に期待していた人も、前世紀には多かったのです。
しかし、理論研究の進展とともに、その問題点もはっきりしてきました。たとえば、超弦理論には唯一の真空解が存在して、その真空を励起して出来ているのが、この世界だという期待がありました。そうだとすると、決定論的に粒子の質量なども正確に予言することもできるだろうと考えられていたのです。でも、その期待が破られました。膨大な数の異なる真空解が、理論に出てきたのです。その多数の真空解の集まりは、圧倒的に広い多様な景色に例えられ、超弦理論の「ランドスケープ」とも呼ばれます。各真空では、その素粒子が持つ質量や電荷の値も異なります。したがって、このままの形の理論を解析しても、素粒子の性質が異なる宇宙の可能性がほぼ無限大に近い数だけ現れるので、一意的な予言を導くことができません。
そこで、決定論的な予言はあきらめて、その多宇宙の統計的な性質から何か物理的な予言ができないかと、一部の理論家が方向転換をして進められているのが、このマルチバース理論なのです。宇宙のゆりかごにあたる量子揺らぎから、異なる宇宙が全部生成をされて実在をしているという描像を採用したのです。その多くの宇宙の中に、確率論の意味での典型的な性質を見出そうとする研究テーマです。しかし現在まで、本当にシャープな予言を導くことは誰も成功しておらず、その意味でマルチバース理論を真に検証する方法は、全く確立していないと言えます。実証科学として意味があるかどうかも分かっていません。
野村泰紀さんの「量子的マルチバース」の話をいつも見聞きすると、多世界解釈はロジックとして彼の理論に不必要だなと思うのですよね。彼の結論を出すためには、標準的コペンハーゲン解釈で十分なんです。多分野村さんは、量子力学の通常理論を誤解されているだけなのだろうと思っています。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) 2022年1月10日
とまあ、ケチョンケチョンなわけですが、
多世界解釈のほうが可能世界意味論など学際的に見て整合性があるよなぁと思って調べてみると堀田説をぶった切りしている人もいましてひと安心しました。
よって、Hotta解釈は多世界解釈より劣っている。 にも関わらず、Masahiro Hottaは多世界解釈を酷評する。 多世界解釈が駄目なら、それより劣るHotta解釈はもっと駄目だろう。
真っ当な科学理論は、納得できるかどうかでなく、現実との整合性を重視する。 現実と整合する唯一の理論は、どれだけ納得し難くても、正しいと考える。 現実と整合しない理論は、どれだけ納得できても、間違っていると考える。 それが今日の科学である実証科学である。
一方で、Hotta解釈は現実との整合性よりも納得することを重視する。 Hotta解釈が用いる手法は、いずれも、納得できないことに対して、納得できなくなっている根本原因を何ら解消していない。 単に、理論を無駄に複雑にすることで、直感的には疑問に気付きにくいようにしただけ、すなわち、問題点を隠蔽して誤魔化しているだけにすぎない。 しかし、論点を整理してよく考えてみれば、違う形に変形されただけの奇妙な点がそのまま残っていることに気づける。 奇妙な点をあたかも奇妙でないかのように偽装した結果、むしろ、余計に問題を大きくしている。 このようなやり方は現代科学の対極にあるものである。
とまあ、ここまでは前フリでして一知半解の物理学について一生懸命書いてみたわけですが、本題はこれからでして、
ご存知、髭ダンのプリテンダー。
(別ブログにも登場しております。)
「もっと違う設定でもっと違う関係で出会える世界線選べたらよかった」
という痛切な叫びが身に染みますが、「もっと違う設定」を選びつづけるドラマがありまして、
それが「ソンジェ、背負って走れ」。
主人公のソラがソンジェの命を救うために何度となくに過去にタイムリープを繰り返し、なんなら始めから会わなかった設定にしようとするくらい頑張ります。
ところが何回繰り返してもどの世界線に移動しても出会ってしまい恋にも落ちてしまう。
最終的にはハッピーエンドになるのですが、終盤に今まで辿った世界線の出来事がフラッシュバックのようにソラとソンジェの脳裏に浮かぶ現象が多発するようになりそれらが2人を導いて行きます。
これを見ていて、これぞ別の世界線からの干渉ではないか!と膝を叩きました。
これが書きたかったわけですが前置きが長すぎました。
そしてこれまたSFではお馴染みのタイムリープというのも物理的に可能なんじゃないかという話もありまして、反物質というものがあってその代表が電子に対する陽電子なのですが、陽電子は実は時間を逆行する電子のことだと解釈できて、その解釈を推し進めると、宇宙の中の全ての電子と陽電子は一つの電子が時空を縦横無尽に駆け巡る姿に他ならないということになるわけです。
その解説を先ほどの堀田先生がわかりやすく書いてくれております。
ジョン・ウィーラーという先生がいました。彼の研究の原点はある意味「夢想力」でした。彼の学生だったリチャード・ファインマンと議論をしてる最中に、ウィーラーは唐突にこう言いだしたそうです。世界には沢山の電子があるように見えるが、実はただ1つの電子が時間を行ったり来たりしてるだけだと。それは図1のような感じのアイデアでした。横軸が空間、縦軸方向が時間です。波線は光子を表してます。
陽電子という、質量も自転スピンも正確に電子と同じ値をとるのに、電荷だけが反対な粒子があります。電子の反粒子です。電子と陽電子がぶつかると光子になって対消滅します。また光子は電子と陽電子に対生成することもあります。この過程を表したのが図2です。

ウィーラーは時間順方向に進む陽電子をタイムマシンのように時間を逆行する電子だと解釈しようとしました。すると異なる粒子は必要なくなり、図1のようにただ1つの粒子だけが時空の中をうろうろしているだけに見えます。世界中にある全ての電子と陽電子は、時間を進んだり戻ったりする、ただ1つの粒子に過ぎないと、彼は夢想したのです。時間を行ったり来たりする1つの粒子の運動を、ある時刻の断面で見たときに、沢山の電子と陽電子が出てくるというアイデアでした。これならば、なぜ全ての電子と陽電子が同じ質量、同じスピンを持つのかも自明になります。相対論的な場の理論では、時間反転で電場の向きは変わるので、電荷が反転するのも自然に見えます。
全人類がタイムリープを無数に繰り返して異なる世界線に移動している自分になってしまうというものすごい話になります。
そうなると目の前の他人は可能世界の自分ということになり自己愛と隣人愛は同じものになるというなんとも素敵な展開になります。
もう少しスケールを小さくするとロバートハインラインの「輪廻の蛇」になります。







