542粒目「愛は金なり、無知は罪なり」 | 砂のブログ

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「線は無数の点から成り、…」で始まるボルヘスの
“砂の本”の様に、始まりも無ければ終りも無い
日々の営みの中で感じたことや思いついたことなどを
つらつらと綴っていこうかなと、ね。

“愛=金”ですよ?




慈しむ、思い遣る、
という本来の意味において
“愛”は
=金では
ありませんが

親子、
きょうだい、
友人、
恋人、
夫婦、

など、
特定の関係の相手に対し
他の者より優先して
注ぐ、尽くす、
“愛”は
=金で示すことが
出来るでしょ?

尚且つ金額で
その深さ大きさを示すことも
出来るでしょ?


慈しみや思い遣りの心
という意味での“愛”は
特定の人に対してのみを対象と
すべき事ではないので

ほとんどの方が思われる
愛は=金です。



だから、と言って
別に悪いこっちゃなく

人として生きるには
金が必要で

より楽に生きる為に
何かを成し遂げる為に
より幸せになる為に

金は、あった方が
良いんだから
愛=金は恥ずかしいこと
ではないんだけどね。




慈しみや思い遣りの心から
見知らぬ人へ募金や寄付をしてる
と、言う人も
大勢いることでしょうけど


じゃあ、さ

そんな余裕が無ければ
どう?

借金してでも
できる?

自身の、
状況や都合に左右される
条件付きの愛を
慈しみや思い遣りから
とは、言い難いでしょう?


それに、
嫌いな人にも
慈しみや思い遣りを
例外なく発揮出来るのか
と、問われたら

でしょ?


傷病者、障害者、
被災者、高齢者、

など、困っている人達に対し
支援金、寄付金、義援金、などで
いと易く手を差し伸べることが
出来るのは

“困っている”
“助けを求めている”
“助けるべき”

人達だと“漠然”とでしか
分かってないからでさ

もしも、
寄付金の
渡るべき困っている
人達が

好ましくない人ばかりや
善人とはいえない人ばかり
だと、実際に
会ってみて痛感したら


それでも出来る?



それでも、困っているんだからと
手を差し伸べることが
出来るなら

それは、
例え金で示そうが
慈しみや思い遣りの心

“慈愛”

と、云えることでしょう。


結局ね、

よく知りもせず
よく分かりもせず
善いことと
されている行いを
することで
善い人に成りたい
というだけのことが
多いんですよ。


ま、困っている人達
にしてみれば
助けてくれるなら
相手の考えは関係無いしね




扠、ね


善いとされる行いを
することは
とても善いことだし

愛を金で示すのは
決して悪いことではない

けれど、

人に限らず
あらゆる生物や物
この世の全てを
慈しみ思い遣れる人達が
もっともっと増えなければ

人の、
地球の、
未来は


それには、

自身が
どうして
どんなつもりで

その“愛”を示すのか?

心の奥底を覗き
自身の人間性を探り
自身の真実を知ることが

第一歩、だと
思ったりもするんだよね。