息子命の意地悪姑のいびりにも負けず二人の子どもを産んだら病気になった私。
孫たちのママになりたい姑は嫁が倒れたこのチャンスを逃してたまるかと新たな意地悪を始めた。
食い尽くし系夫の産みの親であるムスコン姑と私の戦いの日々
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入院三日目の朝8時過ぎに実家から電話が掛かって来た。
何だろなと思いながらも出ると
「おまえ!金がいるんじゃないんか~~!!!」
と突然毒母がキレておりました。
「お父さんが金が要るんじゃないかと言っているんだ!お前!金が要るんだったら取りに来い!!!」
どうやらこの前乳飲み子を連れて行ったので出産祝いを送りたいのだろうとは思ったのだが何分ぶしつけなので
「朝から何言ってんの!!!うるさいから切るよ!!」
と言って電話を切った。
病室にいるときにかかって来たので恐らく同じ部屋の人には会話が筒抜けだっただろう。
他の人からすれば、病気で入院したばかりだからお金がいるんじゃないかという心配の電話のように聞こえたかもしれないが実際は孫が生まれても知らせてもらえなかった祖父母がお祝いをあげたいけどあげたくなくてキレているといったところ。
私はこの時から病気になったことは親に知らせるつもりはなかった。
うちの親はとにかくたちが悪いのでこんなデリケートなことは絶対に知らせたくなかった。
ステロイド点滴を始めてから夜は殆ど眠れていなかったが、主治医から「夜眠れてますか」と聞かれても「はい」と噓をついていた。
病院食は薄味でまずかった。
カーテンを閉め切った部屋で一人でベッドに腰を掛けてテレビ台に向かって食べていると何だか無性に寂しくなって子供たちと一緒に食べたくて食べながら涙が出た。
午後のステロイドの点滴が終わると、医師が二人やってきて
「りんごさん、お話があります」
と言うので医師について病棟内の診察室に行った。
医師はプリントを見せながらどういう病気でどういう治療をしていくのかを丁寧に説明してくれた。
まだ確定ではないがこの病気であることが前提で話が進められた。
特定疾患で難病であること。
治療法はいくつかあるが効果があるかどうかはやってみなければ分からないと言われた。
最初の治療はステロイドをたくさん飲む事だった。
治療効果がある人は70%で効果がない人は30%で、効果のない人の方に入ってしまうかもしれないとのことだった。
ステロイドの効果と副作用と処方量についてはとても丁寧な説明を受けた。
私の場合は体重が52キロだったのでプレドニゾロンを一日50ミリ飲むように言われた。
私は副作用の説明を聞いてもそんなもの自分はなるわけないと思っていた。
ステロイドは一定期間たくさん飲んだ後に徐々に量を減らしていくが、減らしていく過程で病状が悪くなることがあると何度も言われた。
ステロイド治療に効果がなければ半年以内に別の治療をして、それでも効果がなければまた別の治療をして、それ以外にも治療はあるがどれも効果は10%だと言われた。
そして翌日からプレドニゾロンの内服が始まると言われて診察室を後にした。
いきなりそんなことを言われても受け止められない。
私には受け入れがたい現実だった。
同室の患者さんたちは毎日のように誰かが面会に来ている。
でも私にはそんな人はいない。
誰かに支えてもらおうにも私にはこんな時に支えてくれるような人はいないのだ。
でもまぁ薬を飲めば何とかなるだろう、きっと治るだろう。
この時の私はそう軽く考えていた。
そしてこのことをハイエナに電話で言おうとハイエナの都合の好さそうな時間帯に電話をしてみると
「おお、そうか。あ~、子どもがうるさいからもう切るわ。何かさっきからうるさいから。じゃあ、切るよ」
と話の途中で切られてしまった
そしてハイエナの背後からは姑が可愛い声で(おえーっ)子供たちをあやす声が聞こえた。
何だか私はまるで子育て中の新婚家庭に電話をしてしまった邪魔者のような感じがした。
翌日からはステロイドの内服が始まった。
プレドニゾロン5mgを朝5錠、昼3錠、夜2錠と分けて飲む。
最初は「いただきまーす」と心の中で思いながら飲んだ。
飲んでみると小さいくせに苦くてまっずーーーーっ
そして妙にハイな気分になって楽しくなった。
そんな時あるナースが来た。
「お子さんがいらっしゃるんですよね。病気になっても子どもがいるだけいいじゃないですか。私なんてまだ結婚もしてないんですよ」
ナースにとっては何気ない会話だったのかもしれない。
でもこの時の私にはケンカを売られているような気分になった。
そう言われると逆に子どもが小さいのに病気になって子どもと引き離されて病気も治るかどうかわからないこの状況でどうやって子どもがいてよかったと思えるのか聞きたかった。
本当はすごく不安で泣きたかったのにこの一言でますます泣きたくなった。
子どもとは離れ離れになり、
子ども達は自分がママだと言う姑が面倒を見ている。
あいつのことだから毎日「私が本当のママだったのよ。ママはあなたたちを捨てたのよ」と子供たちに刷り込んでいるような気がして落ち着かない。
この状況でどうやって子どもがいてよかったと思えるのか。
でも不安な気持ちをぶつける相手はいない。
私はハイエナに買ってきてもらったノートを広げてその日思ったことをそのまま書きなぐるようになった。
誰かに読まれていたかもしれないけど、私にはそうするしか自分の気持ちを吐き出す方法がなかった。
私は小さいころから毒母に、
「血の道というのがあって、子どもを産んだ後に怒ったりすると体に悪いから病気になる。お産の後は1か月は風呂に浸かったらいけないぞ」
と言われていた。
でも一人目出産後に姑宅に滞在したら退院直後から風呂に浸かれだのわざと怒らせることはされるだの飯は食わされないだので散々だった。
今私がこうして病気になったのも血の道のせいなのか。
産後姑宅に近寄らなければ、いや、ハイエナと結婚さえしなければ私はこんな病気にはならなかったのか?
眠れない夜に私は悶々とそんなことを考えていた。
日が経つにつれ、ステロイドの副作用とは何かを思い知らされるようになった。
まず口内炎が口の中にびっしりできた。
次に便秘。
今までにないほどの固さでただ事ではない感じだった。出ている途中で止まって微動だにしなかったからトイレットペーパーで鷲掴みにして引きちぎった。
看護師に言うと医師が来て便秘薬を処方してもらった。
不眠も続いた。
毎日1時間寝れたらいい方だった。
30分ぐらいウトウトして3時間寝れなくてまた30分ウトウトして後は全く寝られない。
夜中の2時3時になると同室の患者さんがこっそり病室を抜け出してしばらく帰ってこないことを毎日確認していた。
次はムーンフェイス。
顔がパンパンに腫れたようになって別人のようになった。
次は血圧が高くなった。
気分が悪くなりトイレ中にナースコールを押したりトイレから出るなり廊下で座り込んだりしていた。
次は気分がぱああ~と盛り上がったかと思うとはーっとこの世の果てに来たような絶望感を味わったりと感情の起伏が激しくなった。
次は関節痛。立っていると膝が痛くて立っていられないほどの痛みが走った。
それに並行して行われる色んな精査。
今日こんな検査があったよと電話したくてもハイエナは相変わらず「子どもがうるさいから切るで」と言って話を聞いてくれない。
「なら夜勤の前か昼勤の後に少しだけでいいから面会に来て欲しい」
と言えば
「夜勤の前は寝ないといけないからダメ。昼勤の後は制服が汚れているから行けない」
と秒殺。
病棟もおかしくてどこかに出ると荷物の置き場が変わっていたり、ごみ袋に鼻をかんだティッシュを入れていたら誰かの精子が付いたティッシュを一緒に入れられていたりとなかなかのバイオレンスだった。
ごみは毎日誰かが回収に来てくれていたんだけどさすがに精子の匂いがするティッシュを回収してもらうわけにはいかないので私はそのティッシュが手につかないように袋を結んでごみ集積所に持って行って捨てた。
何で私がこんなことをしなけりゃいけないのか。
ただでさえしんどいのに無駄に歩かせないで欲しい。
そんな私はいつの間にか常に不安になるようになった。
そして大事な検査の日の朝。
珍しくハイエナが電話をしてきた。
何だろうと思って出ると
「おかんがもう大変すぎて子どもの面倒を見れないと言ってる。どこか子どもを見てくれる場所を知らないか」
そんなこと私に聞かないで欲しい。
私は今から骨髄に針を刺すんですよ。
そんな緊張した時に一体どうして姑を楽させるお手伝いをしなきゃいけないんですか。
確かに0歳児と2歳児の面倒を見るのは大変だって分かりますよ。
でも面倒見るのが大変だって言われたらそんな人に任せていても大丈夫なのか不安になりますよ。
どうして姑に預けているのに新たに預かってくれる場所を探さなければいけないんですか。
そんなのハイエナが調べればいいじゃないですか。
私は毎日不安で一杯なのに次から次へと起こる副作用にも一人で耐えて治療しているんですよ。
それなのに、それなのに・・・。
どうしてこの親子は私に負担をかけさせることしかできないのか。
私は子ども達の為にハイエナを責めたい気持ちを押し殺して、
「ちょっと調べてみるわ」
と言ってガラケーで姑宅の近くに何かないか調べてみた。
もともと子どもを妊娠した時に保健センターかどこだったか忘れたけど保育園や幼稚園の園庭解放の一覧表みたいなのはもらっていたのでそこに一時的に行けば少しは違うのではないかと思ったので、近くの保育園の電話番号を調べてハイエナにメールして「電話して園庭解放の日に行ったらいいよ」と告げた。
どうして私がこんなことしなきゃいけないのかなー。
私は人の心配してる場合じゃないような気がするんだけどなー。
と思いながら私は骨髄の検査に挑んだ。
そして私のこの余計なお世話が新たな火種になるのだった。
続く