http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100426-00000032-mai-int


タイの内乱が激しさを増しているらしい。 これまでタイと言ったらバックパッカーの聖地と呼ばれていて、タイを拠点に東南アジアの国々へ旅行するといった手段がポピュラーだったが、それも難しくなるのだろう。


この内乱の件についてウィキペディアで調べてみた。


2006年、当時のタクシン首相のインサイダー取引等がきっかけで、軍部がクーデター。

                   ↓

その後軍部の推薦で首相誕生。タクシン与党の解党を命じ、軍部独裁に対する国民の不信感が起こる。

                   ↓

タクシン派DAADと反タクシン派PAD(黄シャツ)との武力衝突がおきる 2008 9

                   ↓

現首相アピシット(反タクシン)の退陣を求めDAAD(赤シャツ)が抗議デモ、暴徒化


                   

こんな流れらしい。2006年から一連してDAADとPADの対立が続いてきたわけだが、wikipediaを見ても複雑で理解するのにかなり時間がかかった。


しかし今回自分が考えたのが、「デモと暴徒の違い」である。

もともと、DAADの主張というのは現在のアピシット政権は公正な民主主義に基づいていないというものらしい。(違っていたらゴメン) つまりリベラル派である。 

しかしながら、現在彼らは自ら暴徒化への道を歩もうとしている。 なぜなら銃を手にしてしまったからだ。


そもそも、民主主義国家においてデモは当然の国民の権利である。日本でも、右翼左翼にかかわらずデモが行われている。(個人的に好きではないが)

日本の場合、警察への届け出が必要など法治国家ではルールも存在する。

ここでデモ参加者に必要とされるのが、 「武器を持たない」である。 これは意外と暗黙の了解であり、当然守られるべきこととされている。 

 だから、暴徒化した場合治安部隊が鎮圧に使うのも、あくまで非殺傷武器(non-lethal wepon)である。


かつての日本の学生運動でも、使われたとして「ゲバ棒」や「火炎瓶」ぐらいであり、自前の(殺傷能力の低い)武器であった。

もちろん、暴徒と鎮圧部隊との衝突の中でまれに、暴行や発砲で死者が出ることはある。(今回のカメラマンのように)  が・・・・、 武器を持たないということは相手を殺さないということの大前提であり、また相手側にも自分を殺さないでねという暗黙の了解である。


しかしDAADは違う。彼らが持っているのはAK-47、M-16、手榴弾など立派な武器である。つまり、相手を殺す覚悟があるとアピールしているわけだ。(本人には自覚がないのかもしれないが)

その時点で国家権力の立場は一気に硬化する。彼らにとってデモ隊は、「デモをしているが守るべき国民」から、「武器を持って政権の転覆を試みる反乱者」となる。こうなると、容赦はかけられなくなってしまう。


実際この前武力衝突も起きている。つまりデモの域を超えた内戦である。


長くなってきたので次に続けたいと思う。




Que sais-je? 4・3のDAADのデモの様子
















 


 

久々に更新することになった。 というのも最近は割と平穏に暮らしており、ある出来事を見て「何なんだ これは!!!」という感動(良くも悪くも)がなかったである。 そういうものがないと、逆にブログを書こうという気が起らない。


今回、更新することにした、一つの理由に「自分の感じたネットの気持ち悪さ」がある。そのことを伝えたいと思った。


タイトルに挙げたとおり 今回は「光市母子殺害事件」についてネットの反応を考えてみたい。 みなこの事件のことを知っていると思うので事件の概要は省略する。※参照 


自分は死刑支持派である。 だから加害者の死刑判決など当然と考えている。 もちろん、一般社会(ネット社会を除く)では、遺族の本村洋さんへの同情の念が強い。


しかし、ネットでは違った。いや、改めてネットという場所が一般常識からかけ離れているかが分かった。

2chで本村洋と検索してみる。


【BMW】本村洋アンチスレ【ドゥカティ】

【日本の悪霊】本村洋 【犯罪被害者貴族】

光市母子殺害事件の夫 本村洋への違和感

【本村真理教】英雄・本村洋様を称えるスレ【開祖】


など気持ちの悪いスレが多い。 内容を見てみると、ほとんど(7割)がアンチ本村氏であった。 彼らの主張


・メディアの露出大杉

・やっぱり日本人はメディアに踊らされている(←2ch共通認識)

・自分が司法だと考えてる。

・前例からいって死刑はあり得ない(法学的立場だが、学術的でもない)

・どうして、殺された妻はぬけぬけと玄関のドアを開けたのか?

・妻の性格悪すぎ、ブサイク

・印税(天国からのラブレター)で儲けている・

・殺されて当然


など見るにも絶えない罵詈雑言である。 本当に気持ちが悪い。特に根拠もないのに妻の性格が悪いなどとどうして言えるのだろうか? 


また死刑にしてほしいという感情は遺族として当然ではないか? 人間は誰しも身近な人を殺されて、心の底から赦せるというような聖人ではない。


2chの住民(一概には言えないが)には「反論の余地もないような絶対的悪」に対するシンパシーみたいなものがある。(特にヒトラーなどに多い)

たとえば、 


・ヒトラーは1939年までは絶対的に正しかった。 あのままユダヤ人を虐殺してればよかった。現に今世界はユダヤ資本に牛耳られているではないか?


・日本が真珠湾攻撃をしたのは、ルーズヴェルトにはめられたのだ。


・911テロはアメリカの陰謀だ!! ユダヤ資本の匂いがする。


など、根拠のない陰謀論を振り回して、悪を正当化する。(たいてい謎の?ユダヤ資本が登場する)

まぁ自分が陰謀論を語ると長くなるので また今度の機会に話したいと思う。


話がそれてきたので元に戻すが、 これまでこういった彼らの妄言をたびたび聞いてきたが、今回は本当に吐き気がした。 


これに関して似たような事件に、スマイリー菊池の事件がある。 事件がひと段落した後に自分で調べてみたのだが、


・スマイリーが「1988~1990年ごろOO区で不良をやっていた」と公言していたとネットで広まる。

                     ↓

・80年代後半のOO区といえば コンクリ事件※2 が起きている。当時不良をやっていたのならば知らないはずはない というデマが起こる。

                     ↓

・刑務所から出所した犯人の中にスマイリーの本名らしき名前がある。

                     ↓

・奴はコンクリ事件に関与したに違いない!!!! → 祭り状態

                     ↓

・スマイリー氏名誉毀損で提訴


という具合だ。 これを見て今回の事件もおんなじような末路をたどるのではないか。 いやむしろたどってほしい。 根拠もなく人を不当に貶めることがどれくらいの罪なのかを教えるために。


本来、ネット上での非難全般は法に触れない限り、自主規制でされるべきである。 なぜなら誰にも物を非難する権利はあるからだ。 だからそれが不当なものかどうかは自分で判断すべきである。 


ネットには表現の自由がある。 だからこそ自分は吐き気を催した。





※ 光市母子殺害事件 wikipedia  案の定荒れている模様

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%B8%82%E6%AF%8D%E5%AD%90%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6  



※2 女子高生コンクリート詰め殺人事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%94%9F%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E8%A9%B0%E3%82%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

前回は自分の宗教観についてだらだらと書いてしまったわけだが、今回は「21世紀における宗教のあり方」を考えてみたいと思う。


しかし、これは欧米と日本とで場合分けをしないといけない。 なぜなら、前回の冒頭で言ったように「一般的に日本人にとって宗教とは特別な意味を持っていない」からである。


まずは日本について考えてみる。日本人で宗教を信仰している人の、信仰動機を考えてみた。


①親が宗教を信じている。

②親族以外の勧誘

③個人的興味

④精神的に弱った時の駆け込み寺


一般的に日本人は露骨に宗教色の強いものを敬遠する(イベント的なものを除く)。 国民自体が軽い宗教アレルギーのようなものだ。 だから宗教に帰依するにはやはり特別な理由がある。


①だが、これはもっともな理由だろう。自分は熱血な信者ではなくても、幼いころからの環境でエスカレーター式に「二世、三世信者」となっていく。


②について言うと、これは非常にタイムリーな理由である。 なぜなら、フレッシュマンが新しい生活を始める4~5月には非常に宗教の勧誘が多い。(うちも4~5月で三回ほどあった) これの問題点は、勧誘に来る宗教団体が新興宗教のみの点であろう。

・統一教会系(大学での勧誘が多いらしい、自分はない)

・キリスト教OO派(戸別訪問して、聖書を読みませんかと勧誘に来る)

・創価系(親しい友人を装い、喫茶店などに呼び出し勧誘。自分はない)


③は自発的理由からだが、これはどちらかというとおもに欧米人が多いと思う。これについては欧米の考察で詳しく語る。


④だが、これは現代人の帰依動機としてもっとも合理的のように思われる。 つまり、普段は特定の宗教を信じていなくても、精神的に追い詰められたような時、人間は簡単に宗教にのめりこんでしまう。だから「駆け込み寺」なのである。 これは決して悪い意味で言っているのではない。

このパターンの駆け込み寺は何も仏教だけを指すのではなく、すべての既存の宗教を指す。(旧来、新興)

一般的なイメージで言えば、お寺の経営する社会更生施設や、キリスト教系のホスピスだろう。

これについて、最近の経験がある。


自分は最近、親戚が末期のがんということでキリスト教系のホスピスに行ってきた。散在している農地を見下ろす高台にある病院は、一般診療のほかに他では受け入れを拒否されるような末期患者のホスピス病棟がある。

ホスピス病棟は「病棟」とはいっても隔離されているわけではない。 病院の印象として気がついたのは、いたるところにあるキリストの絵である。しかも一般的な宗教画と違い、キリストが入院している患者と触れ合ったり、癒している「人間として具現化されたキリスト」である。 

ホスピス病棟は、内装が木目で統一されており、温かい印象を受けた。設備としても一流であり個室には、バリアフリーのシャワートイレが完備されている。 部屋には聖書やキリスト系の医療雑誌が置かれていた。

ときどきお茶とお菓子の差し入れがあるが、それを担当しているのはボランティアだそうだ。

このホスピス病棟を見学して感じたのは、「人間としての隣人愛」と「空気と化しているキリスト教」である。つまり、あらゆるところにキリスト教のモチーフはあるが、あくまで背景であり患者自身が別の宗教をもっていても、無理にキリスト教的価値観を押し付けられることはない。また、沖縄は米軍基地がおかれていることで有名だが、キリスト教系ということや英語が話せる医師がいるということで米軍兵士も多く利用しているということである。


自分がこの病院を見学し一番に感じたのは「受動的であり受容的な宗教としてのキリスト教のあり方」である。一般的にキリスト教は排他的といわれる(歴史的にも)が、そういったものはこの日本では受けない。またそこまでキリスト教が一般的でない以上、あくまでその他もろもろの宗教のひとつにすぎない。


しかし、今回キリスト教の掲げる「隣人愛」がいかに現代にも通じるものがあり(いやむしろ現代のほうが)、そういったものが新たな宗教のあり方を示しているのだと感じる。

つまり、普段必要としていなくても常にそこに「存在」し、必要としたときに「受容」といった駆け込み寺は、宗教的価値観の薄い日本だからこそ必要とされている「施設」なのだろう。(仏教などの既存宗教にも同じことが言える)


今度は欧米について考えてみよう。これまで述べてきたように欧米ではキリスト教を土台とした社会はすでに出来上がっており(宗派にかかわらず)、むしろ現実世界と割り切っている感がある。欧米の宗教のイメージとして


・圧倒的多数派のキリスト教

・移民による異宗教との軋轢

・宗教依存度の個人差

・聖と俗を分けて考える合理的信仰


やはり欧米といえばキリスト教を中心とした世界である。成立過程からいって欧米史からキリスト教は切っても切り離せない。それでも21世紀の今ではやはりこれまでと信仰のあり方は変容してきているのではないか。たとえば、「宗教依存度の個人差」だが、人によっては定期的に教会に足を運ぶのが日常なのに対し、もう一方ではキリスト教に属している「自覚」はあるが、教会に行くような熱意はないといった人もいる。


先ほど述べた個人的興味からの宗教への帰依だが、これは欧米人に当てはまるのが多いのではないか(推測だが)、たとえば欧米人が何かのきっかけで東洋哲学にはまることは多い(ビートルズなど)。そういったのは、

既存のキリスト教に対する矛盾がありありと見えるからではないか。もともとの彼らの文化がまったくの無宗教であったのならばほかの宗教に興味を持つようなことはなかったのではないかと思う。


また「聖と俗を分けて考える合理的信仰」とは何かというと、欧米人は神様という存在をどうも自分の都合のいいように考えているものらしく、自分の世俗的生き方と何ら矛盾しないと考えているのだ。

たとえば、昔の戦争の例をあげると同じキリスト教徒が戦争をしていると、互いに「我こそが真のキリスト教徒です。敵は悪しき異端者です。どうかわが軍のこそ神の御加護を・・・」などとたがいが同じ神に祈っている姿が普通に見られる。


これは現代の欧米社会にも言えることで、現代の大富豪のように、若いころ権謀術数を駆使して他人を蹴落としながら成功した人がキリスト教会に多額の寄付をしたり、他人のために奉仕活動をする姿が見られる。

これこそが「政教分離」ならぬ「聖俗分離」である。 つまり、片方の手で現世の成功をつかみながら。もう一方の手では、恵まれぬ人への奉仕や寄付などを欠かさない。(これはハリウッドスターなどにも言える。)



この二つの文化圏の宗教観の相違(ほんとなら中東も考えないといけないが)から、21世紀における新しい宗教観が見えてくる。 それは個人主義をベースにした「プラグマティズム的宗教観」である。


つまり、「宗教というものは個人が幸せを追求するためにあるのであり、その個人が幸福であるのなら他人に害を及ぼさない範囲で自由に信仰する」といった発想だ。 ようは「その人が幸せならそれでいいじゃない」という至極自由放任的で、しかも道具主義的である。つまり宗教というのは道具にすぎないというわけだ。



これには現在存在しているカルトや、過激な原理主義の問題もあり一概に言えないが、新旧を含めた多数の宗教が共存するにはこれぐらいの寛容な精神が求められるべきではないか。(もちろん自分のような無宗教の人たちも許容される)


国際社会を生きる我々には、こういった「宗教というもの」を客観的に見てみることも非常に重要である。