前回は自分の宗教観についてだらだらと書いてしまったわけだが、今回は「21世紀における宗教のあり方」を考えてみたいと思う。
しかし、これは欧米と日本とで場合分けをしないといけない。 なぜなら、前回の冒頭で言ったように「一般的に日本人にとって宗教とは特別な意味を持っていない」からである。
まずは日本について考えてみる。日本人で宗教を信仰している人の、信仰動機を考えてみた。
①親が宗教を信じている。
②親族以外の勧誘
③個人的興味
④精神的に弱った時の駆け込み寺
一般的に日本人は露骨に宗教色の強いものを敬遠する(イベント的なものを除く)。 国民自体が軽い宗教アレルギーのようなものだ。 だから宗教に帰依するにはやはり特別な理由がある。
①だが、これはもっともな理由だろう。自分は熱血な信者ではなくても、幼いころからの環境でエスカレーター式に「二世、三世信者」となっていく。
②について言うと、これは非常にタイムリーな理由である。 なぜなら、フレッシュマンが新しい生活を始める4~5月には非常に宗教の勧誘が多い。(うちも4~5月で三回ほどあった) これの問題点は、勧誘に来る宗教団体が新興宗教のみの点であろう。
・統一教会系(大学での勧誘が多いらしい、自分はない)
・キリスト教OO派(戸別訪問して、聖書を読みませんかと勧誘に来る)
・創価系(親しい友人を装い、喫茶店などに呼び出し勧誘。自分はない)
③は自発的理由からだが、これはどちらかというとおもに欧米人が多いと思う。これについては欧米の考察で詳しく語る。
④だが、これは現代人の帰依動機としてもっとも合理的のように思われる。 つまり、普段は特定の宗教を信じていなくても、精神的に追い詰められたような時、人間は簡単に宗教にのめりこんでしまう。だから「駆け込み寺」なのである。 これは決して悪い意味で言っているのではない。
このパターンの駆け込み寺は何も仏教だけを指すのではなく、すべての既存の宗教を指す。(旧来、新興)
一般的なイメージで言えば、お寺の経営する社会更生施設や、キリスト教系のホスピスだろう。
これについて、最近の経験がある。
自分は最近、親戚が末期のがんということでキリスト教系のホスピスに行ってきた。散在している農地を見下ろす高台にある病院は、一般診療のほかに他では受け入れを拒否されるような末期患者のホスピス病棟がある。
ホスピス病棟は「病棟」とはいっても隔離されているわけではない。 病院の印象として気がついたのは、いたるところにあるキリストの絵である。しかも一般的な宗教画と違い、キリストが入院している患者と触れ合ったり、癒している「人間として具現化されたキリスト」である。
ホスピス病棟は、内装が木目で統一されており、温かい印象を受けた。設備としても一流であり個室には、バリアフリーのシャワートイレが完備されている。 部屋には聖書やキリスト系の医療雑誌が置かれていた。
ときどきお茶とお菓子の差し入れがあるが、それを担当しているのはボランティアだそうだ。
このホスピス病棟を見学して感じたのは、「人間としての隣人愛」と「空気と化しているキリスト教」である。つまり、あらゆるところにキリスト教のモチーフはあるが、あくまで背景であり患者自身が別の宗教をもっていても、無理にキリスト教的価値観を押し付けられることはない。また、沖縄は米軍基地がおかれていることで有名だが、キリスト教系ということや英語が話せる医師がいるということで米軍兵士も多く利用しているということである。
自分がこの病院を見学し一番に感じたのは「受動的であり受容的な宗教としてのキリスト教のあり方」である。一般的にキリスト教は排他的といわれる(歴史的にも)が、そういったものはこの日本では受けない。またそこまでキリスト教が一般的でない以上、あくまでその他もろもろの宗教のひとつにすぎない。
しかし、今回キリスト教の掲げる「隣人愛」がいかに現代にも通じるものがあり(いやむしろ現代のほうが)、そういったものが新たな宗教のあり方を示しているのだと感じる。
つまり、普段必要としていなくても常にそこに「存在」し、必要としたときに「受容」といった駆け込み寺は、宗教的価値観の薄い日本だからこそ必要とされている「施設」なのだろう。(仏教などの既存宗教にも同じことが言える)
今度は欧米について考えてみよう。これまで述べてきたように欧米ではキリスト教を土台とした社会はすでに出来上がっており(宗派にかかわらず)、むしろ現実世界と割り切っている感がある。欧米の宗教のイメージとして
・圧倒的多数派のキリスト教
・移民による異宗教との軋轢
・宗教依存度の個人差
・聖と俗を分けて考える合理的信仰
やはり欧米といえばキリスト教を中心とした世界である。成立過程からいって欧米史からキリスト教は切っても切り離せない。それでも21世紀の今ではやはりこれまでと信仰のあり方は変容してきているのではないか。たとえば、「宗教依存度の個人差」だが、人によっては定期的に教会に足を運ぶのが日常なのに対し、もう一方ではキリスト教に属している「自覚」はあるが、教会に行くような熱意はないといった人もいる。
先ほど述べた個人的興味からの宗教への帰依だが、これは欧米人に当てはまるのが多いのではないか(推測だが)、たとえば欧米人が何かのきっかけで東洋哲学にはまることは多い(ビートルズなど)。そういったのは、
既存のキリスト教に対する矛盾がありありと見えるからではないか。もともとの彼らの文化がまったくの無宗教であったのならばほかの宗教に興味を持つようなことはなかったのではないかと思う。
また「聖と俗を分けて考える合理的信仰」とは何かというと、欧米人は神様という存在をどうも自分の都合のいいように考えているものらしく、自分の世俗的生き方と何ら矛盾しないと考えているのだ。
たとえば、昔の戦争の例をあげると同じキリスト教徒が戦争をしていると、互いに「我こそが真のキリスト教徒です。敵は悪しき異端者です。どうかわが軍のこそ神の御加護を・・・」などとたがいが同じ神に祈っている姿が普通に見られる。
これは現代の欧米社会にも言えることで、現代の大富豪のように、若いころ権謀術数を駆使して他人を蹴落としながら成功した人がキリスト教会に多額の寄付をしたり、他人のために奉仕活動をする姿が見られる。
これこそが「政教分離」ならぬ「聖俗分離」である。 つまり、片方の手で現世の成功をつかみながら。もう一方の手では、恵まれぬ人への奉仕や寄付などを欠かさない。(これはハリウッドスターなどにも言える。)
この二つの文化圏の宗教観の相違(ほんとなら中東も考えないといけないが)から、21世紀における新しい宗教観が見えてくる。 それは個人主義をベースにした「プラグマティズム的宗教観」である。
つまり、「宗教というものは個人が幸せを追求するためにあるのであり、その個人が幸福であるのなら他人に害を及ぼさない範囲で自由に信仰する」といった発想だ。 ようは「その人が幸せならそれでいいじゃない」という至極自由放任的で、しかも道具主義的である。つまり宗教というのは道具にすぎないというわけだ。
これには現在存在しているカルトや、過激な原理主義の問題もあり一概に言えないが、新旧を含めた多数の宗教が共存するにはこれぐらいの寛容な精神が求められるべきではないか。(もちろん自分のような無宗教の人たちも許容される)
国際社会を生きる我々には、こういった「宗教というもの」を客観的に見てみることも非常に重要である。