中国の諺とおみくじの話 | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

中国には「一命二運三風水」という言葉があるそうだ。

古の中国流「幸せになるための法則」。

 

「命」とは「天命」のことを指し、その人が持って生まれた運、宿命を意味するらしい。

 

「運」には「自分自身の運気の流れ」と「社会・時代の流れ」の二種類があり、なかでも「自分自身の運気の流れ」は10年がひとつの周期となって、これを「大運」と呼ぶらしい。

 

「風水」とは「環境」。

天命を生かすことのできる住環境・職場環境を整えることが大切らしい。

 

適材適所という言葉がある。

たとえば「天命」として経営者の資質を持って生まれていても、その人が家庭にはいり、専業主婦におさまって、その生活に満足してしまったなら、その天命は活かされないまま終わってしまう。

あるいは金運をもって生まれたとしても、社会の流れを読み取れず、それを無視してしまえば、その人は失敗する。

 

つまりはそういうことらしい。

「自分自身が持つ運」と「時の運」が合致するタイミングを見極め、そのための環境を整えることが重要なのだ。

 

たとえば僕たちの世代は、高校で文系に進むか理系に進むかの選択をするとき、自分自身がどの分野を好きか・興味があるかではなく、単純に「英語の成績がいいか」「数学の成績がいいか」でそのどちらかを決めた。というか、振り分けられた。

進路指導でも「お前は成績がいいから医学部を目指せ」だとか「偏差値からして、お前はこの大学のこの学部にしろ」なんて先生から言われるのは当たり前のことだった。

たとえば継がなくてはならない家業があったり、余程の強い意志を持つ者以外の大半は、こうして自分自身の進路を決めたのだ。

 

でも、もちろんのことながら、成績がよいからといって、その教科が好きとは限らないし、興味を持ってもっと深く知りたい・学びたいという気持ちが生まれるわけでもない。

 

あの時代、多くの「命」が無視され、多くの可能性が埋もれてしまったのではないだろうか。

そしてそれ以前もそれ以降も、戦争や天災などによって、世の中を変えるべき「命」を持った方々が、それを果たすことのできないまま、去ってしまうということもあったかもしれない。

 

さて、それでは自分自身の「命」はどうやって知るのか。

それを教えてくれるのが命術だ。

命術。つまり四柱推命や九星気学、紫微斗数や算命学、数秘術などがその人の「命」を導き出すのだという。

 

「バカな。自分の運命を切り拓くのは自分自身でしょ。自分の人生は自分で決める。最初から定められたことなんて、この世には存在しない」。

 

「いえいえ」

この話を最初にセミナーでしてくださった風水の先生はおっしゃった。

「たしかに運命は自分で切り拓くものです。でも、運命と天命は違います。運命はあなたの生き方次第で大きく変わりますが、天命は避けられない、生まれながらの宿命です」。

 

 

僕は「おみくじ」というものをこれまでにほとんどひいたことがない。

たぶん、はじめてそれをひいたのは二十歳を越えてから、明治神宮でのことで、その次にひいたのは京都の赤山禅院だ。

明治神宮のおみくじには、たしか吉や凶ではなく、一首の和歌が記されていた。

赤山禅院のおみくじはかわいらしい木彫りの福禄寿さんの胎内におさめられている。

3回目は昨年の秋。勝尾寺のおみくじ。ここのおみくじは木彫りのダルマさんにおさめられていた。

 

一回目の明治神宮は「一度くらいおみくじというものをひいてみたい」と思ってのこと。

二回目の赤山禅院はたくさん並べられた福禄寿さんのひとつと目があってしまい、家に連れて帰ろうと思ったからだ。

昨年の勝尾寺のおみくじは「六十四卦」を基にしたもので、この六十四卦というのは最近僕が興味を持つ陰と陽の組み合わせからなるものなので、どんなものだか試したくなった。

 

それではなぜ、今までおみくじをひくことに関心がなかったかといえば、それは僕が「結局のところ、おみくじなんてお遊びの延長みたいなもんでしょ。でも、お遊びとはいいながら、一年の初めに凶なんかをひいてしまったら気分が悪いし、そこの神様のことを嫌いになっちゃって二度と足を向けなくなってしまうこともあるかもしれない」と思っていたからなのだ。

 

だが、以前にブログでも触れたオラクルカードのリーディング会で、ある方がおっしゃった言葉。

「一瞬で選んでも、あれこれ迷いながら選んでも、結果は同じです。あなたは引くべきカードしか引かないようにできているんです。すべては必然です」。

 

おみくじだって同じなのかもしれない。

おみくじをひこうがひくまいが、時の潮流の指し示す方向性やタイミングはすべてあらかじめ、定められている。

それを知ろうとするか、目を背けるか。

受け入れるか無視するか。

結局のところ、それだけの違いなのではないだろうか。

 

たとえば凶をひいたから、悪いことが起こるわけではない。

凶はそれに先駆けて注意を促し、誤った方向へ進んでしまわないように導くものなのだ。

大吉をひいたから、その一年がよいものになるのではない。

大吉は「今がそのタイミングですよ」と教えてくれているのだ。

 

今年は近所の氏神様のところでおみくじをひいた。

生まれてこの方、4回目のおみくじだ。

小吉だった。

 

「吉」とつくものの、前向きなことはまったく書かれていない。

願事:思うに任せませんじっくり待つべし

旅行:慎むのが吉

商売:利益が少なく損が出る場合がある

学問:困難です努力が必要です

恋愛:後悔をすることになります

病気:重くなる場合がある医者を選ぶこと

そして待人。おみくじでいうところの待人には「自分の人生に多大な影響を与える人」という意味があるらしい。

「来るが遅い」

 

遅くても、最終的には来てくれるというのならありがたい。

 

それに運勢というものには波がある。

ずっと大吉の人生なんて、プレッシャーが大きすぎるし、楽しいとも言い難い。

 

今年が大吉ではなかった、というのは、ある意味、僕にとってはありがたい。

「一命二運三風水」なのだとすれば、僕はまだ、大吉という時の運を充分に活かすことができるほどの環境を整えることができていないのだ。

おそらく来年あたり。

今年の小吉は、最終的に大吉という頂点に達するための、その上り坂の途中にある小吉なのだと思う。

 

さて、冒頭の「一命二運三風水」には続きがあり、四積陰徳、五読書、六名、七相、八敬神、九交貴人、十養生…その先もまだまだあるらしい。

四番目の積陰徳は「人に知られずに善い行いをせよ」、五番目の読書は「知識や経験を積め」、九番目の交貴人は「立派な心がけの人と付き合いなさい」と説いているのだという。

 

古の中国流「幸せになるための法則」。

なかなかに面白く、奥深い。