「息」=「自」+「心」なのだということ - シクソトロピー呼吸筋ストレッチ | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

「人の身体もまた、いろんな部品を集めて組み立てられているのだと考えることができます。

これらの部品の耐用年数がどれも同じで、同時に寿命を迎えるのであれば、なにも問題はないわけですが、残念ながらそうはいかない場合のほうが多い。

あなたのお母さんの場合は、小脳という部品の寿命だけが短く、しかもそれが現在の医学では修理も交換もできない部品だったのだ、と考えることができます。」

神経難病だった母の主治医から、そんな説明を受けた記憶がある。

 

たしかに脳はそうなのだろう。

交換のきかない「部品」。

あとはどんなものがあるだろうか。

そうだ、呼吸に関わる部分なんかはどうだろう。

人工呼吸器というものはたしかに存在し、多くの命を救いもするが、「交換可能な部品」「修理可能な部品」というニュアンスからはすこし外れたところにあるような気がする

 

父は肺がんと悪性リンパ腫を併発し、亡くなった。

最後の何日か、父はすでに意識はなかったが、呼吸はたいへん苦しそうで、僕は父の主治医から、人工呼吸器を装着するかどうかを訊かれた。

でも、父の全身はすでに癌に蝕まれている。

呼吸器装着による延命は、ただ、父の苦しみを長引かせるだけのことなのではないだろうか。

人工呼吸器を装着することによる延命の先に、「奇跡的な回復」という大逆転的ハッピーエンドは僕にはまったく見えない。

それに。

本人も、その身近にいる者も、「ゴール」が近づいてくると、それがなんとなくわかるものなのだ。不思議なことだけれど。

そしてそのことがわかると、自然と心は静謐さに満たされ、ジタバタしなくなる。

波立ちはおさまり、ただ、祈りにも似たような穏やかさだけがそこには生まれる。

この場合、「人工呼吸器」という異物は、ただ、その静けさを無遠慮に打ち破るだけのものなのだ。

 

「このような状況でも、人工呼吸器装着による延命を望まれるご家族っておられるんでしょうか」思わず尋ねてしまった。

 

「たとえば最期に会わせたい人がいるだとか、あとは患者さんの年金だとか手当の受給のタイミングの問題であとすこしの期間だけ延命を、と望まれるご家族の方は実際におられますね」

「でも、一度装着してしまうと、今度は外すことにいろんな問題が生じるんですよね」

「たしかにそれはそうです」。

父にとっては孫といってもいいくらいにまだ若い、研修医の先生だった。

 

母の場合は、数週間前から少しずつ、呼吸の状態が悪くなり、意識が曖昧になっていた。

「人工呼吸器を装着しますか?」このときも、そう訊かれた。

 

この問題については、以前から僕は何度も母と話し合い、その意思を確認してきた。

十数年に渡る、勝ち目のない、病との闘いだった。勝ち目はなかったけれど、逃げはしなかった。最期まで。だが…。

 

「人工呼吸器の装着は必要ありません。すべて“自然のまま”でお願いします」。

 

人工呼吸器を装着しないという選択は、すなわち、「死」の選択であるということは、よくわかっている。

 

後になって病院のスタッフさんからこの話を聞いた親族は、僕に対して「冷酷」「情がない」などの感情を抱き、「助かる命を見捨てた」と直接責めもしたが、僕はそんなことは構わない。

身近にいて、これまで僕は母の「闘い」を共有してきたのだし、選択した道は決して「負け」でも「逃げ」でもないのだ。

むしろ、ようやくその頑張りに対して与えられた、「赦し」のようなものではないだろうか。

そういう確信が僕にはあった。

 

苦しみもなく、眠るように、導かれるように母は逝った。

 

それ以来、そうだな、僕は明確に自覚することはなかったけれど、「呼吸」というものに関心を抱き続けていたのだ。

 

あることをきっかけに仲間入りさせていただいたオンライン上のコミュニティに「呼吸筋ストレッチ」を学んでいらっしゃる方がおられることを知ったのはまったくの偶然だった。

その方と新年を祝う食事会で初めてお会いし、さっそくに呼吸筋ストレッチのレクチャーを受けさせていただく機会を得たのだ。

偶然的か必然的か。

すくなくとも、なにかの力に導かれるようにして得た「ご縁」であることだけは間違いない。

 

正確には、それは「シクソトロピー呼吸筋ストレッチ」というらしい。

 

高校時代、僕の通う私学では、毎日の朝礼で般若心経をお唱えした。

そのときによく言われたのが「腹式呼吸」だ。

腹式呼吸は精神を安定させることにも役立つ。

 

社会人になってから始めたフルートでも、腹式呼吸のことをよく言われた。

ロングトーンもビブラートも、基本となるのは腹式呼吸だという。

 

数年前から友人に誘われ、参加するようになった能の謡のお稽古でも、やはり呼吸は腹式呼吸。

 

それほど僕とは「縁のある」腹式呼吸だが、実は僕は腹式呼吸のやりかたがよくわからないのだ。

「まずは鼻からゆっくり息を吸い込む」「へその下に空気を落とし込み、貯めていくイメージで腹をふくらませる」「次に口からゆっくり息を吐き出す」「そのとき、腹をへこませることを意識する」。

すべてはイメージだけの世界のように思える。

イメージするだけで、本当に腹式呼吸はできているのだろうか。

そんなモヤモヤとした、スッキリしない思いがいつも僕につきまとった。

 

だが、今回の「シクソトロピー呼吸筋ストレッチ」で重視するのは腹式呼吸ではなく「胸式呼吸」のほうなのだという。

この胸式呼吸で使う筋肉を鍛える。柔らかくする。

 

そして大切なのは酸素ではなく、二酸化炭素のほうだというのだ。

まずはこうした、これまであまり意識することのなかった呼吸に関する知識を学ぶ。

 

「息」は「自らの」「心」と書く。

呼吸と感情は表裏一体なのだ。

呼吸が安定すれば感情も安定する。

 

そして呼吸の衰えは老化にも繋がる。

 

実際の呼吸筋ストレッチは非常に簡単な「吸う筋肉」を鍛える8つの動作と、「吐く筋肉」を鍛える3つの動作から成り立つ。

そしてこれらは立位ではもちろんのこと、座位でも、つまり車椅子やベッドの上でも行うことができるのだ。

 

いろいろなことを教えていただいて、もっと詳しく学びたいな、と思った。

そして僕がずっと勉強したいと思いながらも手をつけることのできずにいた、たとえばアロマなんかとこのストレッチを結び付けるのもおもしろいかもしれない。

こちらのほうの勉強も、そろそろ始めなくてはならないな。

 

ある友人が「死ぬこと」に対する恐怖を僕に語ったことがある。

でも、僕は「死」というものを「怖い」とはあまり感じないのだ。

むしろ「赦し」だとか「解放」だとか、そんなイメージと大きく重なる。

もちろんそれは、与えられた「生」を最期まで生き抜くということが大前提なのだけれど。

いずれにせよ、この年齢になれば、すこしずつ自分自身の慣れ親しんだものは、「この世」より「あの世」のほうに多くなっていくものなのだ。

 

ただ、僕が怖れるとすれば、それはその道の途上にあるかもしれない病だとか痛みだとか苦しみだとか、あるいは周囲の人たちにかけてしまうかもしれない迷惑だとか、そういう「不愉快なこと」「面倒なこと」のほうなのだ。

願わくば、そうした不愉快なことを抜きにして、最期を迎えたい。

そのためにも、この「シクソトロピー呼吸筋ストレッチ」のことをもうすこし深く学びたいと思った。

 

幸せに生きることは難しいけれど、幸せに最期を迎えることはもっと難しい。

それをなんとかするために何かをしたい、と、ずっと思っていた。

もしかするとこれこそが、その第一歩になるもの、ここからなにかが始まるのかもしれない。