寛容な世界の実現に向けて - シクソトロピー呼吸筋ストレッチ 2 | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

行政薬剤師として働くなかで、いろんな仕事を経験したけれど、やはり一番たいへんだったのは苦情応対業務だろうか。

 

たとえば飲食店で食事をしたあとで体調を崩したとき。

スーパーで買ったお惣菜に髪の毛が入っていたとき。

お土産にもらったお饅頭にカビのようなものが生えていたとき。

美容院でパーマをかけたあと頭皮がかぶれてしまったとき。

お隣で飼っている犬がやたら吠えてうるさいとき。

近所の工場から嫌な臭いがしょっちゅう漂ってくるとき。

ハトにエサやりする人がいて糞害がひどいとき。

 

そうだ、役所に相談しよう。

そう思って電話したあなたのお話を聞き、状況を整理・判断し、解決に向けて動くのが行政薬剤師や行政獣医師だったりする。

 

ただ、難しいのは、こうした人たちの多くは電話をする、あるいは役所の窓口に出向く、その時点ですでに「すごく怒っている」状態にある、ということなのだ。

相手方と揉めに揉め、納得のいかないところまで行きつき、事態は二次クレーム化していたりなんかもする。

 

しかも電話口や窓口で大声を出す、怒鳴る、そんなことをされても、応対している行政薬剤師はその苦情元、当事者ではない。

すでに揉めに揉めているような案件では、相手側にもそれなりの言い分があったりして、どちらの側からも怒りの矛先を向けられるようなことが起こったりもする。

 

転職して、調剤薬局で働くようになってからも、多くの「怒れる人」たちに遭遇してきた。

診察までの長い待ち時間に対するイライラが、「一番最後」の薬局で爆発するのだろうか。

 

そんな経験から、「アンガーマネジメント」というものに僕は興味を持つようになった。

だが…すこし違うのだ。

「他者軸」ではなくあくまでも「自分軸」というか。

こうした「怒れる人々」が自分自身で「最近、怒りっぽいな。なんとかしなくてはならないな」と考えていたというのなら、アンガーマネジメントを学ぶことは有効なのだろう。

でも、僕の遭遇してきた「怒れる人々」は若干それとは違う。

この人たちは怒ることでストレスを発散しているのだ。

罪悪感などまったくなく。

ある意味、怒ることで心の平衡を保っているともいえる。

怒りの矛先を向けられた側は、ただ、災難というしかないのだけれど。

 

そういえば「息巻く」なんて言葉が日本語にはあるではないか。

そうだ。「呼吸を整える」ということは、心を平静に保つことに繋がるのだろう。

シクソトロピー呼吸筋ストレッチを教えていただいて、そう強く感じた。

 

怒りという感情は不安や焦りといった感情の裏返しでもある。

では、その不安や焦りはどこから生まれてくるのだろうか。

 

小学生の頃、父と一緒に行った市立図書館でネズビットの「砂の妖精」という本と出会った。

たしか引っ越してきた家の近くの砂利取り場で、こどもたちが砂の妖精だと名乗る不思議な生き物に遭遇するんじゃなかったっけ。

この「砂の妖精」サミアドは1日にひとつだけ、願いごとを叶えてくれるのだという。

こどもたちの最初の願いは「絵のように綺麗になること」だった。

そして、そんな願いを叶えてもらったこどもたちだったのだけれど、誰もその「綺麗な容姿のこども」がこどもたち自身であるとは気づかず、彼らは散々な目にあう。家にも帰れない。

やがて疲れ切ったこどもたちは思い出す。

砂の妖精サミアドは言っていたのだ。

砂利取り場で長い眠りにつく前、人々の願いを1日にひとつ叶えていたサミアド。

そのころ、人々が願ったのは野生動物の肉だとかの食べ物だった。

そして魔法で出されたその肉は、日没とともに石に変わったのだ。

じゃあ、「綺麗になる」という願いは?

もしかして、日没とともに石になってしまうのは私たち自身なのかもしれない。

こどもたちはパニックに陥るけれど、日没とともに起こったのは、ただ、元の姿に戻る、それだけだった。

翌日、そのわけを尋ねたこどもたちにサミアドは答える。

昔、人々が願ったのは「もの」だった。

「もの」は簡単に石に変わる。

でも、今の時代の人間が求めるのは「形のないもの」ばかり。

そんな形のないものを、どうやって石に変えることができる?

 

ふと、思った。

これと同じようなことなのではないだろうか。

かつて、人の不安や焦りの気持ちはすべて「具体的ななにか」に起因していた。

だが、ものに溢れた現在、人は形のない不確かな「なにか」に対して漠然とした不安や焦りを覚えている。

そしてそれが余裕のなさやイライラ、怒りの感情を生み出している。

でも、それは自分でも「不確か」なものだから、解消のしようがない。

 

だったら、どうだろう。

呼吸を変えるだけで、実は意外なほど簡単に、もっと寛容な世の中が実現するんじゃないだろうか。

自分のため、だけではない。

呼吸を整え、余裕を持ち、「なんとなく」の不安や焦燥感を払拭することで、優しい世界が生み出される。

 

もちろん、怒りという感情自体が悪ではない。

怒りは世の中をよりよくする原動力ともなり得る。

難しいのは「正しく怒る」「冷静に怒る」ということなのだ。

 

正しい呼吸は世界をも変え得る。

シクソトロピー呼吸筋ストレッチを教えていただきながら、僕はふと、そんな思いを抱いた。