信仰と信念 | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

「あなた、信仰はお持ち?」

玄関の呼び鈴の音に、ドアを開けた僕に対して、その人はいきなり、そう言ったのだ。

知らない人ではない。

小・中学校の同級生だったKちゃんのお母さんだ。

それは母が救急車で運ばれ、入院してから、しばらく経った頃のことだった。

 

悪い人ではない。

母とは、PTA活動を通じて、よく話すようになったのだと思う。

母がまだ、病名の判定がつかずに自宅で過ごしている頃、この人は時折、滑らないように底にゴムが縫い付けられた靴下だとか、健康食品だとか、そういうものを持って我が家を訪れ、励ましの言葉をかけていってくださったのだ。

だが、父は「あれは出しゃばりのオバハンや」と、この人をひどく毛嫌いしていた。

もしかすると、この人は、父にも「信仰」の話をしたのだろうか。

 

母の病気のことを知って、いろんな方が来られた。

宗教の勧誘も多かった。

中には父に「奥さんに足りないのは気合や」とおっしゃった方がいて、父はその人のことを、最期まで許さなかった。

ただ、どなたもが、その行動・言動の裏に、親切の気持ちがあったのだと思う。

「なんとか力になりたい」「助けになりたい」という思いがあったのだと思う。

それがわかっていたからこそ、そうした方々の言葉は、なおさら、父や僕を追い込み、疲弊させたのだ。

 

「あなた、信仰はお持ち?」

この言葉に、僕は「まいったな…」と思った。

宗教のことは正直、よくわからない。

だが、親切心で来られたこの方を、どう失礼なく、お帰りいただいたらいいだろうか。

とりあえず、持ってこられたパンフレットなどをお預かりし、「病院へ行く時間が迫っているので」と、なんとか話を切り上げて、帰っていただいた。

 

前回のブログ記事の中で、僕は「信仰」という言葉を使った。

でも、それはむしろ、「信念」という言葉のほうが、ニュアンス的には近いのかもしれない。

 

母と共に病院を転々とするなかで、いろんな患者さんを目にした。

闘う気概に溢れている人もいれば、闘うことを諦めてしまった人もいた。

もちろん、その人たちの本当の気持ちというものは、第三者にはわからないのだけれど。

 

ただ、病気になってもなお、「食べることに関心がある人」と、それから「揺るぎない信念を持った人」、こうした方々は、本当に強かった。強かったのだ。

 

「信仰」というものを、その対象を宗教に限らず、広く解釈するならば、信仰を持つ人には、決して折れない何かがその中心を貫いていて、ブレない、揺るがない、そういう強さがある。

 

これは闘病に限らず、仕事でも、そして日々の生活においても、同じことなのだ。

 

今のこの国の脆さは、そのリーダーたる者が、「信じるべきもの」を明瞭に私たちに示すことができない、そういう弱さに起因しているのではないだろうか。

提示すべきもの、求められているものは、どこか捉えどころのない、ふわふわした「夢」ではなく、確固とした「信じるべきもの」、信念なのだ。

 

「あなた、信仰はお持ち?」

今の僕なら、こう答えるだろう。

「はい、信仰ではないですけれど、信念なら持っています。だから大丈夫です。ありがとう。」