生まれて初めて、入院生活なるものを経験したのは、二年前のちょうど今頃だった。
病名は大腸憩室出血。
そしてこの時、僕は「身寄りのない人間」が入院するということが、いかに困難であるかを思い知ることになる。
その時に、書き留めていた文章が、これだ。
外来受診から心電図、胸部レントゲン、腹部CT、内視鏡による処置と、病院の低層階をあちこち巡るのと並行して、入院手続きの説明を受ける。
誰か、保証人を立てなくてはならないのだ。
何度か病院で働いたことのある僕にはわかる。
未払いの入院費用の回収は、とても困難な作業なのだ。
それに。説明する看護師さんが言いにくそうなので、代わりに口に出してみる。「万一、そのまま死んだときの遺体の引き取りとか?」
若い女性の看護師さんはホッとしたように続ける。「あと、このまま出血がとまらず、輸血が必要な時に、ご本人の意思確認ができなければ、代わりに判断していただく、ということもありますし」。
だったらなおのこと、母の葬儀以来、会ったこともない兄の名前を挙げることは憚られる。
こういう類の「迷惑」こそ、彼が最も厭うものだ。おそらく今でも。
そういえば、再就職のときもそうだった。保証人=身元引受人を立てることが必要だったのだ。
50歳を超えた男に、今更、身元を引き受ける第三者が必要だとは(呆)、と思うが、これが今の日本社会の現実なのだ。
そして、これから先も、あらゆる局面で、身寄りなく一人で暮らす人間は、こうした問題に直面するのだろう。
結局、ひとりだけでは、なにも認めてもらえない・許してもらえない社会。
そして、こんなことも書き留めている。
外来受診から検査、処置と、一連の流れの後に、ようやく病室(四人部屋)へ来る。
受診の時、入院の可能性をまったく考えなかったわけではない。
むしろ、今の自分の状況を考えれば、外来での処置と投薬だけで帰され、そのまま一週間後の再診予約、なんて流れになるほうが、すこし怖すぎる。
内視鏡検査の前に大腸内をきれいに洗浄する必要がある、ということで、渡された2リットルの水薬をゆっくり飲みながら、病室で待機する中、「これから必要なもの・しなくてはならないこと」をあれこれ頭の中でリストアップしているうちに、カーテンを閉め切った斜め向こうの(おそらく)年配の男性のボソボソした独り言が、どうやら僕に向けられたものらしいと、気付いた。
要約すると、「この病棟に入院している人はほとんどが消化器癌の患者で、自分も最初はもっと軽い病名を言われ、すぐに退院できると信じていたが、結局、人工肛門をつけ、今なお退院の目途もたたない。みんな最初は一週間ほどで退院できると信じて入院するが、そんな思いはすぐに裏切られるのだ」という話。
そして僕は、まったく同じようなことが昔にもあったよな、と、デジャヴ的に思い出す。
そう、あれは陽のささない、空気のよどんだ、薄暗い父の病室でのことだ。
しばらく前から胸の痛みで眠れない夜を重ねていた父は、近所の開業医の先生からは「肋間神経痛だ」と言われていたが、結局、当時母が入院していた国立病院の外来を受診し、そのまま検査入院となってしまったのだ。
四人部屋の片隅でカーテンをひき、病衣に着替えた父と小声で話していると、別の片隅から大きな声が響いた。
「ここが肺癌病棟やということも知らん人間がおるんやなぁ。めでたい事や」。
「あの人は最初からああやから気にするな。気の毒に、癌の再発で入院して、いろいろ気が立ったはるみたいや。聞き流してたらええ」父はあの時、僕にそう囁いたのだ。
ヘビースモーカーだった父は、母の入院を機に、煙草を絶った。
それが父なりのある種の願掛けだったのか、あるいはこれから長く続くであろう母の介護を続けていくためのひとつの意志表示だったのかはわからない。
ただ、もちろん僕は父の絶えることない胸の痛みが、なにかそういう、「悪いもの」である可能性を考えたことがなかったわけではないのだけれど、ほんの数か月前の市の肺がん検診の結果が「異状なし」だったことから、「それは考え過ぎだ」と自分に言い聞かせていたのだ。
いくらなんでも、これ以上の不幸の連鎖は困る。身がもたない。
それから一週間後、僕は父の主治医に呼び出され、父が末期の肺癌(と悪性リンパ腫)であることを告げられる。
あれから後、時折、僕はあの、言葉の凶器をふりかざした人のことを考えたものだ。
痩せ細り、ギョロギョロとした目玉だけが鋭く目立つその人は、おそらく僕とは10歳も違わない、当時まだ40代後半から50歳くらいの男性だった。
彼は完治したのだろうか。あるいは荒んだ心のまま、恨み・つらみといった毒に満たされて逝ってしまったのか。
父と、そして母とともに、病と闘いながら、たびたび僕は信仰というもののことを思った。
心というものの救済を思った。
医療は発達しても、人の心のケアは、まだまだこの国では、低いレベルに留まっている気がする。
自分自身でも、なにかできることはないのだろうか。
病室のカーテンで四角く切り取られた白い天井を見上げながら、今、僕は思うのだ。
入院時の保証人には、友人がなってくれた。
同室の年配の男性は、僕が退院する時にも、まだ退院の目途は立っておられないようだったが、いつもベッドの周りのカーテンを閉め切っておられ、最後まで、そのお姿を拝見することはなかった。
人の心を最終的に救済するのは、家族の存在だろうか。
あるいは信仰心?
「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものに変わる」。マザー・テレサの言葉だそうだ。
そして、この「最期の1%」を誰しもが幸せに・穏やかな気持ちで過ごせるようにするために、この国には、まだまだ変えていかなくてはならないことがある。
僕たちがやらなくてはならないことが、たくさんある。
荒んだ心のままで逝くことがあるとするのならば、それはなんと悲しいことなのだろうか。