アンデルセン童話、そして「レ・ミゼラブル」が僕に教えてくれたこと | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

なぜ、心の救済について書いたとき、自然と「信仰」という言葉が、自分の中から出てきたのだろう、と考えていた。

幼いころから、家には神棚があり、朝と夜には手を合わせてきた。

進学した高校は仏教系の私学で、たしかに公立に通っていた友人たちと比べると、そういったことに触れる機会は多かったのかもしれない。

でも、格別、自分が信心深い、と思ったことはないのだ。

特定の信仰を持っているわけでもない。

 

そうか、あれか、と、ふと思った。

小さなころから大好きだった、アンデルセンの童話だ。

あの頃、いつかアンデルセンの童話をすべて読破したい、と思っていた。

僕がとりわけ好きだったのは、「人魚姫」と「氷姫」、「沼の王の娘」「イブと小さなクリスティーネ」そして「旅の道連れ」だったかな。

あ、あと、「青銅のイノシシ」の話も大好きだった。

こどものころは、当然ながら、アンデルセン童話と信仰とを結び付けて考えることはなかったけれど、おとなになってから読み返すと、たしかにどのお話にも、その根底には、深い信仰の心が流れている。

 

そして、そう、あれだ。

ミュージカル「レ・ミゼラブル」。

「レ・ミゼラブル」は僕に、「人はいかに生きるべきか」、いや、「人はいかに生き、そして死ぬべきか」を示してくれた作品なのだ。

 

原作を最初に読んだのは、たしか小学校低学年のときで、それはいわゆる抄訳本だった。

僕にとっては、「漢字にルビがふられていない初めての本」で、何回も、忙しい母に「これって、なんて読むの?」と訊いて、うるさがられた記憶がある。

「とりあえず、読み方がわからなくても、自分で想像しながら読みなさい」と母に言われたことの名残のひとつが「所謂」。

正しい読み方は「いわゆる」だが、僕はこれを「しょせん」と読むのだと想像した。

「しょせん」はそう、正しくは「所詮」と書く。

でも、僕はずいぶんと長い間、「所謂」を「しょせん」と読んでいたのだ。

今でも僕は、「所謂」という文字を目にすると、「しょせん、じゃなくて、いわゆる やったな」と思い、母を、そして忙しくしていた母を邪魔していた、幼いころの自分を思い出す。

 

脱線してしまった。話をもとに戻そう。

 

実の娘のように慈しみながら育ててきたコゼット。

そんな彼女に、信頼できる青年・マリウスが現れたことを見届け、前科のあるジャンはふたりの前から姿を消す。

自らの生きるべき方向性を変えるきっかけとなった、銀の燭台だけを持って。

その燭台が値打ち物だからではない。

彼の原点となった品だからだ。

 

何もない質素な部屋の中、彼は燭台の蝋燭に火をともし、静かに祈りを捧げながら死を迎えようとする。

しがみつき、すがりつき、ジタバタとした人の生き様、いや、死に様をいくつも目にしてきた僕は、そんな彼の「死に方」を観て、胸が震えた。

身寄りというものを持たない僕も、物欲に縛られず、これからの人生の後半は、そう、まさに「清貧」という言葉にあらわされるような生き方を心がけなくてはならないな、と感じたのだ。

 

「レ・ミゼラブル」も全編を通じて、信仰と愛と希望、この3つこそが、人の根幹なのだと、感じさせてくれる。

 

信仰、そして信念。

そう、あまり難しいことはわからないけれど、人を人たらしめ、揺るぎない生き方をさせ、そして最後に人の心を救済するのは、やはり「信仰」「信念」「信じるべきものを持つこと」だと、僕は思うのだ。