「いのち知らず」感想追記 - 理解しあいたいと願う気持ちは、もはや時代遅れなのか | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

最後に僕がこれほど熱く、本気になって相手とぶつかりあったのは、一体、いつのことだっただろうか。

 

前回の「いのち知らず」、追記である。

 

一晩眠ると、頭の中で絡み合っていたことが自然とほぐれ、あらためて、ハッとさせられることがある。

もし、それが自分的に「ハズレ」の作品だったら…もう、翌日には、思い出すことすらないだろう。観た記憶さえ、残らない。

 

「いのち知らず」「劇評」の2ワードでネット検索をしてみたのは、どなたかが、シドの語る「ふたりの目標・目指す夢が同じなら、道を違えたとしても、最終地でまた、巡り合うことができるはず」というニュアンスの台詞を、僕以上に正確に記憶し、書き留めておられないだろうか、と考えたからだ。

だが、残念ながら、それを探し出すことはできなかった。

 

そして、一日をおいて、なぜ僕に、シドのこの言葉が突き刺さったのかが、わかったような気がした。

これまでにそれなりの経験を積み、見通す力も得た僕には、あの時、すでにわかっていたのだ。

寄り添った二本の直線の片方に、わずかでも、いったん角度がついてしまえば、それらの直線がその後、愚直に真っ直ぐ進めば進むほど、二本は離れていき、二度と寄り添うことはないのだ、ということを。

互いに抱くのは「同じ夢」だと信じていたが、それはすでに、ずれ始めていたのだ。少しずつ。

彼らが成長して賢くなり、そして狡くなっていくのに従って。

その現実が突きつける「切なさ」が、あのとき、僕を鋭く刺し貫いたのだ。

 

それにしても、最後に僕がこれほど熱く、ロクとシドのように、本気になって相手とぶつかりあったのは、一体、いつのことだっただろうか。

 

両親とは、何度も激しくやり合った。

学生の頃、部活でも、熱くぶつかった。

社会人となって、労働組合・青年部活動を行う中でも、相棒ともいうべき大切な友人と、終わることのない議論を戦わした。

周囲の人たちが引いてしまうほど、熱く、激しく、そして本気になって。

泣かされもしたし、泣かしもした。

自分自身を理解してほしかった。そして認めてほしかった。肯定してほしかった。

相手を理解したかった。ほんとうに深いところで、繋がりあいたかった。

そんな気持ちが、いつだって、はかりしれない熱量を生み出していた。

論破したかったわけではない。優位に立ちたかったわけでもない。

ただ、相手と目線を合わせ、ともに同じ景色を見る。そんな関係を築きたかった。

 

しかし、いつの間にかそんなこともなくなっていた。

「みんなが楽しく・笑顔で・気持ちよく」がいつの間にか僕の中でのスタンダードとなり、すっかり「おとな」となり、賢くなった僕は、自分が折れることと、相手を立てることがすごく上手くなっていった。

 

だが、それは角が取れて丸くなったとか、相手を思いやることができるようになったとか、そういうことではない。

ただ、面倒になっただけなのだ。深い繋がりを求めなくなっただけなのだ。

これを成長というのだろうか。退化ではなくて。

 

一方で、僕はネットに掲載された劇評を流し見しながら、「難しい」「よくわからない」といった書き込みに交じって、主人公たちのやりとりを「マウンティングの応酬」「不毛なやりとり」「ただ怒鳴り合ってるだけ」と感じられた方がおられたことに、ある意味、衝撃を受けた。

書き込んだ方々がどれくらいの年齢層なのかはわからないが、時代は今や、議論することを・相手にわかってほしいと熱くぶつかることを、「マウンティング」「不毛」「怒鳴り合い」など、ネガティヴに捉える傾向にあるのだろうか。「押し付け」と感じるのだろうか。

「嫌われたくない」という恐れが先に立ち、「とりあえず」相手にあわせる。自分の本心を隠し、オブラートに包み込み、無難を目指す。

ネット社会を、不快な思いをせずに生き抜くために、それは必須の術かもしれない。

だが、そこから真の信頼関係は生まれるのだろうか。本当の繋がりは生まれるのだろうか。

 

コロナ禍の中、リモート授業など、学ぶ世代の人たちに対する、学習の遅れを取り戻す工夫があれこれなされてはいるが、リモートでは「議論する」「自分をわかってもらうために必死に相手と対峙する」ということは叶わない。

そのことは、僕には、何かおおきなものを置き忘れてしまうことに繋がるような気がしてならないのだが。

 

仕事にせよ、学びにせよ、コロナから派生した新たな「自宅」「家族」を中心とした生活スタイルは、僕たち自身が、これまで当たり前とされてきた生き方の中で、人間関係・付き合いというものに、いかに疲弊していたかを気付かせてくれた。

その一方で、ベクトルが自分の内側に向けば向くほど、他者との深い繋がりを求めるようになることも、皮肉な事実ではないだろうか。

大切なのは、うまく「議論する」技術・「喧嘩する」技術。そしてそれを「受けとめる」技術。

そこが未熟だから、SNSを契機とした、悲しい事件も起こってしまうのかもしれない。

 

ま、これは「いのち知らず」のテーマとは、あまり関係のないことだろうが。

でも、本題以外の部分に、あれこれ自分自身の考えが広がっていくことも、「演劇を観る」おおきな楽しみのひとつなのだ。