「いのち知らず」を観劇する | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

M&Oplaysプロデュースと銘打たれた演劇作品の数々は、いつだって僕にはどうにも難解で、観終わった後になんともモヤモヤした気持ちを引き摺ることが多いのだが…不思議と中毒性があるのだ。

結末を明確には提示せず、観客それぞれの解釈、想像に委ねる。

その、余白を残すやり方が、なんとももどかしく、それでいて心地よく、泣きたいような・切ないような余韻が、時間とともに、消えるどころか、自分自身のなかにあるなにかと共鳴しだす、そんな感じ。

 

ロク(勝地涼)とシド(仲野太賀)は親友同士。

いつか二人でガソリンスタンドを経営する。その夢を実現するための資金を蓄えようと、山奥にある施設の門番として働いている。

施設は、精神を病む人たちの更生施設だという触れ込みだったが、先輩格の門番モオリ(光石研)は、実はこの施設では、死んだ人間を生き返らせる研究が行われているのだ、と二人に教える。

施設に入所したまま連絡がつかなくなった双子の兄を探しに来た、というトンビ(新名基浩)の出現。

施設長の直属の部下・安西(岩松了)の存在。

モオリの言うことは真実なのか。

周囲の言動に翻弄される、ロクとシドの関係に、すこしずつ亀裂が入っていく。

 

とにかく、役者さんたちの熱量が半端ない。

特に勝地涼クンと仲野太賀クン。

ふたりの激しいやり取り。互いの本心が伝わらず、誤解が誤解を生んでいく様に、胸が痛くなる。

互いが互いを思いあっているのに、それが伝わらず、話せば話すほど亀裂が深まっていく。人というのは、なんとかなしく、不器用な生き物なのか。

 

ロクは施設側の人間に不信感を募らせ、一方のシドは「そんなバカなことはあり得ない」と考え、まるで施設側に取り込まれてしまったかのような言動が目立ち始める。

 

ロクはシドとの根本的な部分の違い、志・目線の変化を感じ、苛立つ。「なんで俺たちは、言葉の裏を探らなくちゃならないようなことになってしまったんだ」(そんなニュアンスの台詞)。

 

シドはモオリに語る(確か…)。ふたりの目標・目指す夢が同じなら、違う道を辿ることになっても、その到達点で、互いに再び巡り合うことができるはずだ(正確ではないけれど、そういったニュアンスの台詞)。

 

結末は…単純に解釈してもよいのだろうか。

僕が連想したのは、そう、雨月物語の「菊花の約」なのだが…。

 

確か、二年ほど前に観た、同じくM&Oplaysプロデュースの「二度目の夏」も、今回のようにラスト、太賀クンにすごく切ない気持ちにさせられたまま、帰途に就いた記憶がある。

 

今回のチケットは、失業する前に購入した、最後の1枚だった。

コロナ禍以前、僕は月に数回は劇場に足を運んでいたのだが、失業中の今はそうはいかない。また、働きだして、生活が安定しだしたら、と思っていた。

 

でも、やっぱりいいなぁ。

生の舞台は、まさに一期一会でもある。

 

新型コロナによる緊急事態宣言で、多くの舞台が中止となり、僕もチケットの払い戻しに奔走した。

最初の頃は、こうした公演中止によるチケットの払い戻しのシステムが、劇場でも確立しておらず、指定期間中に直接劇場へ行って手続きしなくてはならない、など、結構煩雑だったのだ。

最近になって、あの時に中止となった作品のうち、いくつかの再上演が発表されたけれど、中には「幻の作品」となってしまい、二度と観ることがかなわない作品もある。三浦春馬クンが主演するはずだったミュージカル作品も、そのひとつだ。

 

今回、こうして久しぶりに生の舞台に接し、特にこの世界には「また、次の機会に」なんてことはないのだから、「今、この機会」ひとつひとつを大切にしなくては、と思った。

そのためにも、僕は早く仕事を見つけなくてはならないな。