※この記事の実際の投稿日は2024年8月15日です
もし、私の考察ページに「あのひとはAさんだと思う」というコメントが入ったら
どう感じますか?
①この場には不適切と不快になる?
②大人げないと悲しくなる?
③T派への攻撃だと腹が立つ?
④勇気のある人だと感心する?
⑤ファン同士の語らいに好意を持つ?
私のコメント欄は開いていて、承認制ではありません。
つまり、どんな感想でも受け付けますよ、というスタンスのブログです。
※意見はいらね~、というページはそもそもコメント欄を閉じています(笑)
様々な意見を紹介し、その中で各々読者が取捨選択してもらえればいいなぁ、と考えています。
2023年12月、ある人が考察ページに感想を寄せてくれました。
私がとても信頼している人、このブログに一番多くのコメントを寄せている人です。
外国人とは思えないほど日本語が堪能で、私はその人から多くのインスピレーションをもらい、いくつかの記事も書いていました。
彼女はテリィエンドを望んでいるにもかかわらず、“あのひと” はアルバートに読めるという人でした。
センサーに引っ掛かったのは、どの部分なんだろう?
数カ国語に翻訳されているファイナルストーリー(FS)は、その国の常識や文化で読むと、どんな物語に映るのだろう?
彼女が持っている日本人とは違う視点に興味がありました。
彼女は日本語版FSの単語の意味を辞書で拾いながら、2年半に渡り丁寧に読み込み、空白の物語を想像し、数日掛けて下書きしてくれたようでした。
今まで断片的に聞いていた彼女の考察を聞ける機会とあって、私は「ついに徹頭徹尾聞けるぞ~」という感じでした。
寄せられたコメントを読んで、想像力が無限であることを感じました。
「すごいな、この発想。負けてられないな」と思いながら一生懸命答えました。
ところが、全てのコメントのやり取りが終わった直後、コメントの全削除を依頼されたんです。
「迷惑を掛けました。ごめんなさい。今までありがとうございました」
と謝罪の言葉が添えられていました。
はい・・?迷惑って??
彼女の話では、自分の発言に失礼があった、それを数人に指摘され、反省している、との事でした。
私からすると、失言(?)など大したことじゃなかった。
だって2年半以上のお付き合いですから。
日本語で上手く表現出来ていないだけで、言わんとしている事は違うのかな、とも思っていました。
あ、私はね、どなたがどんな助言をしてくださったのか知らないのですが、私の為に言ってくださったと思っています。
だから、失言(と思われる言葉)を消すことには納得しています。
ただ、その他の会話まで消すのは、、、
だって、彼女はFSを読んだ感想を寄せただけで、悪意なんかミリもない。
「私はブルーベルさんとお話をしたかっただけなんです」と言っていました。
そもそも、削除が彼女の本意だったのかも疑問符がつきます。
それにね、彼女の結論が私と違うからと削除していたら、私は裸の王様じゃないですか?
多様性のこの時代に、違う意見を切り捨てるみたいで、そういうの、嫌なんです。
・・そう思う私が変なのかな?
でも、これは私のブログなので、望むようにさせてください
(彼女に連絡する術が無いので、私の判断です)
私も彼女も、TだAだという前に同じキャンディキャンディのファン。
仲の良いファン同士の議論を、ここに再編集することをお許しくださいね
👩🦰対談相手
🔷🔔ブログ主
対談形式ですが、インタビュアー無しです
※文章が分かり難い部分は、若干補足や手直しが入っています
アルバートの『君の幸せがどこにあるのか見極めたい』という言葉をどう思いますか?
👩🦰
『見極めたい』という言葉には、恋心は含まれず、どちらかとういうと保護者目線。
但し、養女という言葉を多用することで自分の気持ちを抑制していると思います。
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同感です。
テリィの『ぼくは何も変わっていない』という手紙はどうでしょう?
👩🦰
この手紙と、その後の空白の1頁に名木田先生が託した思いは、アルバートファンも理解すべきだと思います。(テリィの恋心が読み取れる)
🔷🔔
同感です。
キャンディについてはどうでしょう?
👩🦰
アルバートが養女という言葉を多用するように、大おじさまという言葉を多用しています。
往復書簡内の『早く記憶が戻ってほしいと願いながら、このまま兄と妹として暮らすのも悪くないか な、と思ったり・・・・・・今は、養女だもの! ほんとは父上さまってお呼びしなくてはいけないかも?! (略) あなたの美しき養女より』(下巻309) の部分には引っかかりを感じます。
辞書によると、『今は』という表現は “ある状態や段階に至ることが現在の状況では難しいことを示す表現” となっていました。
前後の文章をふまえると、アルバートが記憶を取り戻し、兄と妹という関係性から養女にもどったという意味合いなのでしょうが、言い換えると、“現時点では” とか、“今はまだ” とかにあたるのかと感じました。
もし、名木田先生が上記の意味合いで書いたとすると、30代のキャンディとアルバートに繋がるような気もしま した。
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私には “元は他人、その後兄と妹、今は養女” という流れの普通の文に見えます。
「現時点では養女」という含みを持つ言葉ではないと思います。
キャンディの所在地はどこだと思いますか?
👩🦰
RSCのメイン劇場は1926年に火災で焼け、1932年に新たに建て直されました。
推定でキャンディは34才です。テリュースとの別れが1915年として、10年を加算し1925年。
過去にはイギリス公演も成功し、足枷スザナが死んで、一歩踏み出そうとした時に移籍を決めてキャンディに手紙を書いたとします。
そうなると、テリュースは限りなく”あのひと” に近い存在になります。 理想的な妄想王道ルートですが、残念なことに作中にはRSCは出てきません。
FSに出てこない事は全て無効を大原則とするならば、水仙、エイボン川、海を越えた場所。
これらの名詞で場所を絞り込んでいくと、イギリスとスコットランドになると思います。
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RSCは関係ないと思います。『エイボン川・水仙・シェークスピア全集』という本文のヒントから シェークスピアの故郷ストラスフォードが優勢かな、と思います。
地名としては出てきませんが、ストラスフォードという劇団名は登場しています。
テリィの職業は俳優に限らず、戯曲の執筆など (スザナの影響で) シェークスピアの町で見聞を広めている姿が想像できます。
逆にアルバートさんは、スコットランドで何をしているのだろう? 私には羊飼い (牧場) しか思い浮かびません。
『(アードレー家の) 仕事がおもしろくてたまらない。ぼくにはやはり父ウィリアムの血が流れているのだと思う』(下巻311) と語った人はどこに行ったの?
書斎の本(シェークスピア全集)はどう思いますか?
👩🦰
ポーランド人がショパンを愛しているように、イギリス人はシェークスピアが大好きです。
ですが、全集を持っている人は相当のフリークか、コレクター。
事実、私のイギリス人の夫は一冊ももっていません。(笑)
本棚にアメリカ文学が無いのは、イギリスやフランスに比べて歴史が浅く、単純に集めるほどの名作が無か ったからだと思いますし、アメリカ人だからってアメリカ文学が好きだとは限らないと思います。
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文脈から「あのひとは文学好き」と読めるのに、何故アメリカ (故郷) を匂わせる本が無いのか?という意味で書きました。
日本人でも村上春樹の著書が本棚に並んでいるわけではありません。
要するに “あのひと”は「シェークスピアが好きな人」です。
テリィはシェークスピア俳優であり、テリィの別荘には全集がある、と作者はFSで書いています。
アルバートも 五月祭の際、「ロミオとジュリエットの衣装」をキャンディに送っているので、シェークスピアを愛読しているかもしれません。
さらに “あのひと” は「フランス文学が好きな人」です。
学院の授業でルネッサンス期の作家ルイーズ・ラベの詩が登場するので、仏文学が学院のカリキュラムに入っているのは確認できます。
一方アルバートも、当時の学習カリキュラムとしてフランス・ラテン語を習ってはいるでしょうが、FSには『経営学から法律まで』(下巻298)としか書かれていないので、「仏文学に慣れ親しんだ」と想像できる要素はありません。
幸せになり器を直せる可能性がある人は?
👩🦰
ステアはテリュースに会いに行く直前で“幸せになり器”をキャンディに渡しました。
これは志願兵として、これから戦地に赴くため、キャンディの幸せを見届けることができないかもしれないという、ステアの覚悟と取りました。
ステアはキャンディに幸せになって欲しいと願っていましたが、テリュースと共に幸せになってほしいとは言っていませんし(間違いなくそう思っていたはずですが)、FSには書いてありません。
“幸せになり器” のくだりで気になったのは、『壊れてステアとの繋がりが切れたような気がして、打ちひしがれていたが、それを後日あのひとは意図も簡単に修理してくれた』(下巻238) という一文です。
私のイメージですが、壊れた時と修理した時の間に、さほど時を感じませんでした。
(直したのは、キャンディの近くにいた人では?)
🔷🔔
ステアは「テリィに会いにNYに旅立つ日を選んで」プラットホームで幸せを願って渡しています。 違う日なら、「広義な意味の幸せ」とも解釈できると思います。
出兵直前にテリィの元へ旅立つキャンディに贈るということは、『キャンディに対する気持ちへのけじめ、テリィにキャンディを託す』 という意味合いを含むと思います。ステアは学院でもテリィの存在を認める発言をしていました。
幸せになり器はキャンディがテリィと幸せになることを願って作ったものと解釈しています。
『修理した』 (下巻238) を読んだ時、私もアルバートさんが直したっぽい、と思いました。
理由は👩🦰さんと同じで、壊れた時と修理した時に、さほど時を感じなかったからですが、ある時気付きました。FSには壊れた時期は書かれていません。
アニメではすぐ壊れていますが、漫画では壊れていません。FSでも、少なくとも最後のキャンディの手紙 (21才頃?)の時も壊れていないようです。 (それまでの手紙で「壊れた」という記述が無いから)
「壊れた」と語ったのは30代大人のキャンディの振り返り。 極端に言うと、30代で壊れた説もアリです。そう思ってその部分を読んでみるとFSにこう書かれています。
『その後も、つらいことがあるたびに繰り返し、この幸せになり器を鳴らし続けたので、ある日とうとう〜』(下巻238)
テリィとの別れ、ステアの死後も「度々辛いことがあった」と分かります。
FSのアルバートとの往復書簡などには「辛い様子」は感じませんが、キャンディにはまだ辛いことが目白押しだったようです。
“あのひと” がアルバートなら、養女だからどうしようとか、結婚を反対されたとか、そのような辛さが想像できま す。
“あのひと” がテリィなら、テリィの婚約とか、スザナの死も辛い事でしょう。キャンディが『涙が止まらなかった』(下巻281)と言っていますから。
想像力を広げると、その後テリィの恋人として現れたキャンディが猛バッシングを受けるなどの辛さも想定できます。
どちらが直したにせよ、そのような時に“幸せになり器” が壊れ、「後日」直したのではと思います。
冒険談を聞いてきつく抱きしめたのは誰だと思いますか?
👩🦰
テリュースもアルバートもすると思いました。 但し、記憶を取り戻したアルバートですが。
きっと、アルバートが記憶を失っていたときもキャンディは冒険話をしていたと思いますが、記憶を取り戻してから改めて聞くのとでは、自分の立場も理解しているでしょうから、ある意味混乱したかもしれません。
アフリカに行くのをもう少し遅くしていれば、とか色々考えてしまったかもしれません。それなので、私の中ではどちらも有りです。
🔷🔔
私には、記憶を失っている間に何度も密航の話を楽し気にしているキャンディの姿が思い浮かびます。記憶を取り戻して改めて聞いた時に「きつく抱きしめる」は過剰表現だと思います。
でも、テリィがそれをするのは過剰ではなく自然 (当たり前)なんです。
初めて聞いて、無茶をさせた原因は自分だったわけですから。
エイボン川とラッパ水仙についてはどうですか?
👩🦰
「エイボン川が流れ、水仙の咲く場所」、この二つだけで見ると結構な数が候補になると思います。そもそもエイボンとは “川” という意味なので、支流の名前としてアメリカでも結構使われていました。
また、水仙は猛毒の花です。見た目は可憐ですが、切り花にするときも気を遣う花です。毒性の強い草花はどこにでも成長しますし、他の植物の養分を吸い取って自然の厳しさをめのともせず、たくましく育ちます
余談ですが、私の持っている小説にラッパ水仙の花言葉が載っているのですが、「Unrequited love (報われぬ 愛)」となっていました。(笑)
🔷🔔
水仙の花言葉はナルシスで、「うぬぼれ」「自己愛」「報われぬ愛」などが一般的です。
花言葉は色によって違うので「黄色いラッパ水仙」で調べた方がいいです。
わざわざ黄色を強調している名木田先生には、何らかの意図があると思うからです。
花言葉は国際的に共通なのか、時代と共に変化していないか、懐疑的です。
名木田先生は日本人なので、FS発行時までの日本の著書 (花言葉の)を参考にするのがベストだと思います。
キャンディのばら園についてはどう思いますか?
👩🦰
エイボン川のほとりにある家の庭には、ばらと水仙はあるけどスウィート・キャンディはありません。🔷🔔さんは以前の考察で『アメリカでは育てていたのに、今は自分が手入れをしているばら園に植えない、ってよほどの事ですよ。自分 の名前が付いた品種のばらですよ。植えますよね、普通は』 と書いていましたが、テリュースはそんなに心の狭い人だとは思いません。
ジェラシーで育てられない、ではなく "スウィート・キャンディ” はキャンディの分身ともいえるので、ポ ニーの家で先生たちが、育て愛でてキャンディを思い出せばいいし、アンソニーと過ごした思い出のレイクウッ ドにあればいい、と読み解きました。
庭には水仙(テリュース)と、ばら (アンソニー) と思った時、キャンディの隣りにいる人は……。
🔷🔔
私はキャンディの分身が “スィートキャンディ” なのではなく【アンソニー=スウィートキャンディ】 だと思っています。 キャンディにとってあのバラは、アンソニーを思い出すものだと思います。
テリィは「心が狭い」「アンソニーに嫉妬している」わけではないと思います。テリィは許すと思います。FSには若き日のテリィがアンソニーに嫉妬している様子が描かれています。
そのような経緯から、キャンディが「勝手に配慮」している、と想像できます。
もっとポジティブに考えるなら、今のキャンディには、アンソニー (=スウィートキャンディ)を傍に置く必要はない、という意味もあると思います。(故郷にあればいい)
でも水仙は満開ですよね?学院時代つぼみだった水仙は、今は満開なんです。『つぼみ』とわざわざ書いたところに、名木田先生のテクニックを感じます。
👩🦰
確かに “スウィート・キャンディ” はキャンディにとってはアンソニーを思い出すものですが、アンソニーはキャンディの名前をつけて、キャンディに捧げたのです。
これは、“プリンセスドゥ モナコ” と同じで、名前の持 ち主のものになります。
🔷🔔
“プリンセスドゥ モナコ” とは、グレース・ケリーの薔薇ですね。日本でも皇室の方々の名前が付いたバラは多数ありますが、皇居でも植えていると思います。
「キャンディの分身」なら、自分の庭にも植えるのではないでしょうか?苗は株分けできますし、実際株分けしているシーンも2か所あります。(上巻202、下巻207)
"プリンセスドゥ モナコ” と “スィートキャンディ” の違いは「誰が作ったか」だと思います。
例えば、見知らぬ園芸の専門家から贈られたなら、「私のもの」になり、専門家の顔を夜な夜な想像するようなことは無いと思います。でも “スウィートキャンディ” は恋人が作ったのです。 しかもその後直ぐ亡くなりました。もはや形見です。
象嵌細工の宝石箱についてはどう思いますか?
👩🦰
これはグランチェスター家が一歩リードのような気がします。(笑)ただ、由緒正しくなくても、成金でも、アードレー家にもご先祖さまはいるわけで、たとえ、大恐慌で財産を失 ったとしても、これだけは! っていうものは手放さないかなって思います。
🔷🔔
宝石箱そのものは、両家に有っても不思議ではないと思います。
宝石箱に入れた物についてはどう思いますか?
👩🦰
宝石箱に入れるものは宝物です。テリュースの切り抜きは間違いなくキャンディにとってかけがえのないモノですから、入れるのは当然だと思います。
今は宝石箱の中に収まっていますが、言い換えれば今でも宝物という意味のはずです。 嫌いで別れたわけではないし、長い間持ち歩いていたのは、別に変ではないと思います。 だって、『熟れた杏で、かすかな風で地に落ちて、呼吸もできなくなってしまうキャンディ』(=テリィへの愛を感じる文)ですから。(下巻274)
🔷🔔
昔の恋人の手紙をワザワザ「新居」に移動させ、 ダーリンから貰った宝石箱に入れ、今それを眺めて涙する―― というのは、過去の恋人に対する表現としては全体的に「過剰 (やりすぎ)」だと思います。
常に切り抜きを持ち歩くほどキャンディはテリィが好きだった、ということは👩🦰さんは認めてくださっています。だからこそ、あのひとはテリィじゃないとキャンディは可哀想なのです。
FSは「希望をもって前向きに生きる」が作品のテーマのはずです。 あのひと=アルバートを目指して名木田先生が書くなら 「長い間どこへ行こうと切り抜きを持ち歩いていた」という文は、テリィへの未練を感じる文章なので、要らな いと思います。
『いつも近くにいて欲しいとの望む人』についてはどう思いますか?
👩🦰
“あのひと” はキャンディと同様、自分の家族が欲しかったのだと思います。キャラクターの性格を考えた時に、これはテリュースかな、と思いました。
アルバートなら「ポニー先生のところに行っておいで」と言うと推測します。
一方、テリュースだって、ポニー先生がキャンディにとってどんなに大切な人なのか理解していると思いますし、もう一緒に暮らしてるんだし、行き先だって明確だし、嫉妬でどうこうなんてことはないと思います。
ただ、何度か読み返した後に、ポニー先生のところに駆けつけない理由はキャンディ自身に要因があると思いました。
個人的には妊娠がいちばんフィットすると思っています。30代の妊娠、出産は現代では当たり前ですが、この時代ではかなリスキーだと思います。
『わたしが近くにいることを望んでいるあのひとのそばをわたしも離れたくない』は、"あのひと” の仕事などの事情ではなく、キャンディの都合と捉えました。
🔷🔔
海を渡らない理由は本に書いてあります。『なにより、あのひとのそばから離れたくない』です。私はそれだけで十分納得できます🙂
スリムの絵と額についてはどうでしょう?
👩🦰
ちょっと引っかかったのは、額のくだりです。
ロンドンの蚤の市は、絵画もたくさん売っていますが、10号以上の絵画はほとんど額無しです。絵から外して額として売ります。
“手製の額” となると、かなり高度な技術だと思いますが、(小説版では) アルバートが器用である部分が削除され (ているにも関わらず)、この言葉(手製の額)があえて出てきたのは、オルゴールを直した “あのひと” が作ったと思わせるための名木田先生のサービスかなと思いました。
🔷🔔
私はスリムのお手製だと思っています。 私には、“あのひと” が作る理由が全く見えてこないんです😓
「オルゴールを直せる+額を作れる=手先が器用」 を2回もアピールする必要はありません。 (そもそもオルゴールは、直せるかどうかがポイントではありません。)
一方、『スリムは鍛冶屋に貰われていった』と2回も出ています。作る可能性があるのは3人の中でスリムが一番高いのではないでしょうか?
手製だと分かるほどの粗末な額だから、蚤の市でも「額だけで売る」こともしなかったのでは、という見方も出来ませんか?
『手製の額で飾られた10号の油絵。あのひとはどこからでも見えるように飾ってくれた』(上巻7)『手製の額で飾られた』です。
仮に私が作家で、“あのひと” が作った事が大前提なら「手製の額で飾った」と書きます。 わずかなニュアンスの違いですが、「飾った」の方が主導的になります。
蚤の市で偶然見つけて、喜び勇んで妻に報告し、一番いい所に真っ先に飾る “あのひと”。
それだけで、十分ではないのでしょうか?
ポニーの家を見抜けるかについてはどうですか?
👩🦰
これはどちらも可能だと思います。
アルバートは何度もポニーの家に来ているでしょうが、ポニーの家を建て直してしまいましたよね。しかもあの可愛らしい佇まいを、面影がないほどに。凄く残念に思いました。今となっては、新しく建て直したほうが、アルバートにとってはポニーの家です。
一方、テリュースは、たった1度しかポニーの家に行っていませんが、きっと忘れないように目に焼き付けたに違いありません。
蚤の市でスリムの絵を見つけた時に、彼の心の中にあるポニーの家とリンクしたとしたら、それはとてもドラマティックに思えました。
🔷🔔
同感です。
”あのひと”という書き方についてはどうですか?
👩🦰
アンソニーに使われた“あのひと”は、私は誤植、もしくは校閲ミスなのではと思っています。
『三人の少年たちに囲まれて、キャンディはしばらくの間、ぼんやりとしていた』(上巻101) そう思うのは、この文でキャンディと少年たちの距離を余り感じなかったことが理由です。
「この人がアンソニー」が、妥当だと思いました。
キャンディが馬車で港に向かう時の “あのひと” についても、ちょっと疑問符がついています。ここでいう “あのひと" がテリュースだったとした場合、曖昧ではなくなってしまうからです。
🔷🔔
他のキャラは「あの人」と漢字混じりですが、キャンディが使う時は “あのひと” と漢字を使いません。
これは、カーソンさんの手紙、アンソニーへの手紙でも 「そのひと」と漢字を使っていないので、作者の意図だと思います。
仮に誤植や校閲ミスなら、後に修正されるでしょう。 私が持っているFSは「第2刷発行」です。 これは「初版の2回目の印刷」と意味らしいので初版と内容は同じです。 要するに修正は入っていません。
”あのひと”というキーワードの部分で、作者が間違えるとは思えません。
重要なのは最後のシーン (下巻138) だけが、ほかの”あのひと”とは形式が違う、ということです。
あの文は「テリィ」が代用出来きるので、「テリィ」と書くべきだと思います。(他の文は出来ません)
しかし敢えてテリィに対して"あのひと”と用いたことに、作者の密かな主張を感じます。
『どうしたんだい』という言い回しについてどう思いますか?
👩🦰
マンガは絵があるので印象に残りやすいはずなのに、ほとんど記憶にないです。
これはもう、アルバートならそう言いそうと、イメージでしかありません(笑)
🔷🔔
イメージは人によって違います。だから確認が必要なんですよね。
「どうしたんだい?」 はテリィの口癖です。
その後、👩🦰さんが私に伝えてきた言葉
私のコメントはイメージ論で感想。考察ではありません。
考察に考察で対抗していれば、このようなかたちにはならなかったかもしれませんが、そんなの私の日本語能力ではムリですし。(笑)
だから、本当に納得してるんです。
(๑'ᴗ'๑)
それに、削除したからと言って彼女たちが受けたキズは消えませんから。本当に申し訳ないと思っています。
※原文まま
テリィファンのみなさんへ
私たちの議論をどのように感じましたか?
この場にふさわしくないですか?
最後に載せた彼女の言葉は
精一杯のやせ我慢だったと感じています
彼女を心配してくださった2名の方
お名前は存じませんが
嬉しかったです
私は
率直で飾らない彼女の人柄と意見が大好きです
たくさんのコメントを
本当にありがとう
彼女が撮ってくれた写真です
SONNET1章②を連想されたのかな