★★★1-2

翌日は朝から空が重く、午後になるとぽつぽつと降りだした雨が地面をぬらし始めた。
「はあ~・・、降ってきたの」
「・・ぬかるんだ地面に足をとられない様に・・気を付けて行って来てください・・」
マーチン先生は、覇気がないキャンディの様子が気になっていた。
今日のキャンディは包帯を巻く部位を間違えたり、診療代をもらい忘れたりと、集中力に欠けていた。
(・・地に足がついていないのは、キャンディじゃろ)
マーチン先生は一抹の不安を覚えつつも、往診に行く準備を終えた。
「新患が来たら待たせておいてくれ。包帯の取り換えや常備薬の処方だけならキャンディに任せるよ」
このベテラン看護婦に午後の診療所の留守を任せ、老医師は出かけて行った。

激しくなってきた雨のせいか、患者は一人も来なかった。
屋根に落ちるザーザーとした雨音だけが、静まりかえった診察室に鈍く響いている。
「片づけでもしよう・・」
キャンディは軽く息を吐くと待合室に向かった。

キャンディの思考は相変わらず停止したままだった。
何かを考えなくてはいけない気はするものの、それが何だったのか思い出せない。
患者のいないがらんとした待合室をぼんやり見回す。
ちらかったおもちゃや絵本を片付けていると、カウチに置かれたままの新聞広告に目が留まった。


テリュース・グレアム主演 「ハムレット」  2回目イギリス公演・大成功を収める!!
春のニューヨーク公演スタート! 前期チケット完売御礼! 後期チケット近日発売


探しているわけではないのに、テリィの記事は不思議といつも見つけてしまう。
「ニューヨーク公演、また始まったのね・・」
新聞を手にしながら、どこか他人事のようにつぶやく。
この反応はいつものキャンディだった。
無関心というわけではない。
二人を隔てた膨大な時間と距離を考えれば、自然の成り行きだった。
かつてのように記事を切り抜いてコレクションする熱量など、もうない。
かと言って無造作に捨てるのは、テリィを傷物にしてしまうようで、それもできない。
診療所の物置の隅に重ねられた雑誌や新聞は埃をかぶり、読み返されることもなく高さばかりが増している。
会うことも、声を聞くことも、手に触れることもできなくなってもう十年。
遠くからテリィの幸せを祈るしかできない日々の中で、それ以外の感情を持つことなど、もう何の意味もなかった。
(・・そう言えば、ハムレットの記事を最初に見つけたのも、この待合室だったな・・)
キャンディは過去の記憶を急激にさかのぼっていった。

 

 

 


 

落ちてきた舞台照明からテリィを庇い、肢体の一部を切断する大けがを負った女優スザナ・マーロウ。
テリィ主演の『ロミオとジュリエット』の観劇で訪れた冬のニューヨークで知った現実は、ロンギヌスの槍のように私の心を貫いた。
――怪我を盾にスザナがテリィに結婚を迫っている
劇場でそんな噂を耳にし、いてもたってもいられずスザナの入院先へ向かった。
そこで目にしたのは、吹雪の屋上から身を投げようとしているスザナだった。
片足を失くし人生に絶望した――そんな理由だったなら、ありったけの励ましの言葉をかけたに違いない。
けれどそうではなかった。・・テリィを愛しているから。愛しているから死にたいと言ったのだ。
自分が生きていてはテリィを苦しめる、きっとあなた達の邪魔をしてしまうと。
テリィの為に命さえ捨てようとするほどのスザナの激しい恋心を知った時、全てを悟った。


『生きていて、スザナ――!』

そう叫んだ私の言葉には、あまりに多くの意味が派生していた。
冷え切ったスザナを抱き上げたテリィ。無言で私の前を通り過ぎた時の苦悶に満ちた表情。
きっとテリィも悟ったのだ。
スザナを置き去りにして、二人で幸せになることなどできないと・・―。

立ち去るしかなかった。一刻も早く。テリィはきっと、別れを切り出せない。
ぐずぐずしていては私が一番テリィを苦しめる。


『スザナを、大切にしてあげてね・・さようなら』

あの時用意できた、精一杯の別れの言葉。私から明るくさよならを。
全てを振り切るように病院の階段を駆け下りる私を、追い掛けてきたテリィは後ろから強く抱きしめた。
お互いの心臓の鼓動も、心の叫びさえも聞こえてきそうなほど強く・・。

  時が止まればいいのに・・!・・このまま永遠に――

言葉にしたことは無くても、私たちは確かに同じ未来を夢見ていた。
けれどお互い、気持ちを必死に偽った。
・・私の首筋をなぞった一筋の冷たい涙が、テリィの答えだった。
――テリィはスザナを選んだ。選ぶしかなかったのだ。
ゆっくりと手を解き、幸せになれよ・・と、淋しげに微笑したテリィ。
二人の道がこの先決して交わることがなくなったのだと悟った瞬間だった。

もうすべてが無理だった――

 


©いがらしゆみこ/水木杏子/画像お借りしました


そんな私の決断をアニーは認めなかった。
『簡単にテリィをあきらめないで、キャンディ!!』
スザナは間違っていると、アニーは何度も私を説得したが、私の決心は変わらなかった。
諦めた事を後悔なんかしていない。ただ、忘れられないだけ・・。
悲しくて、会いたくて、枯れることを知らない涙に暮れていた頃、スザナから突然手紙が届いた。
なぜスザナが私の住所を知っているのか――・・いや、知っていて当然なのだ。
スザナは私の手紙がテリィに渡らないようポストから抜き取り、何度も隠してしまったのだから。
そう思うと、スザナから真っ直ぐ私のアパートへ届いた手紙を、複雑な気持ちで手にしたのを覚えている。
私への謝罪と感謝を伝えるような文面だったが、さながらテリィへのラブレターのようにも見えたのは、私の目が嫉妬でよどんでいたからだろうか。


テリィをあなたの分まで愛し続けることだけです。
テリィはわたしの命なのです。
『ぼくはずっと君のそばにいる・・これからも』そう言ってくれました。
テリィのやさしさに報いるために、わたしはこれからどう生きていけばいいのでしょうか・・。


一読しただけで文面を覚えてしまうほど、胸が締めつけられた。
どう生きていけばいいのか、教えて欲しいのは私の方だった。
テリィがいない未来――・・夢が断ち切れた私が受け取るには、あまりにも届くのが早すぎた。

・・スザナの手紙は、あれ以来一度も読み返してはいない――

テリィを忘れようと必死に看護婦の仕事に打ち込み、友人たちに支えられ、無我夢中で過ごした日々。
同居しながら記憶喪失のアルバートさんのお世話をしていたつもりも、実際は私の方が助けられていた。
そんな折、ふと目にしたテリィの記事はあまりに受け入れがたいものだった。

 
演技には情熱のかけらもなく  ロミオとジュリエット打ち切り! 
 恋人スザナの怪我が原因   テリュース、劇団をやめて失踪 行方不明・・!


テリィが苦しんでいることは手に取る様に分かったが、どうすることもできなかった。
時の流れに任せるしかなかった。
しかし朗報は訪れぬまま季節が一巡し、まだ寒さの残る春先、思わぬ形でテリィと再会した。
書置きを残し姿を消してしまったアルバートさんを探しに、ロックスタウンという町を訪れた時のことだ。
場末の荒れた芝居小屋。
一年数か月ぶりにみたテリィは、使い古された雑巾のようなボロボロの姿で舞台に立っていた。
お酒に酔ったふらふらの足元、呂律の回っていない声。
一流の劇場で堂々と芝居をしていた頃とはあまりにかけ離れたうらぶれた姿に、ただただ涙がこぼれた。
手を差し伸べたかった。声を掛けたかった。
おもいっきり胸を叩いて、大声で怒鳴りたかった。


こんなところで何をしているの!夢を忘れてしまったの!?・・立ち直って、お願いっ、テリィー!!
 

願いが通じたとは思えない。しかしテリィの演技は途中から命が宿ったように激変した。
 ――テリィなら大丈夫・・きっと立ち直る・・!
祈りにも似た確信を拠り所に立ち去った時、一人の女性に声を掛けられた。
たまたま居合わせたテリィの母、女優のエレノア・ベーカーだった。
映画の仕事のスケジュールを調整し、数日前からこの町に滞在していたのだという。
胸が潰れる思いで毎日テリィのお芝居を見守っていたミス・ベーカーは、涙ながらに言った。


『あなたが見てくださったおかげで・・・あの子はもう立ち直ります・・。あの子には分かったはずです。あの子があなたを愛していたなら―』

あの薄暗い芝居小屋の中で私の姿が見えたとは思えなかったが、ミス・ベーカーの言葉通り、その後ブロードウェーに戻ったテリィは徐々に汚名を返上していった。
明るい記事が増えるにつれ失恋の痛手も癒されていき、テリィとの思い出は遥か遠い日の出来事のようになっていった。

そして新たな目標を見つけた。故郷の村に診療所を開きたい。
シカゴで開業していたマーチン先生を説き伏せ、アードレー家から支援を貰い、村に診療所を開設したあの頃は希望に満ち溢れていた。
記憶が戻り、自分がアードレー家の総長であることを思い出したアルバートさんは、献身的な看護のお礼と称し、折に触れ私を援助してくれた。
アーチーとアニー、ポニー先生やレイン先生、ポニーの家の子供たち、村の人たち。
多くの人に囲まれた平穏で充実した日々。
診療所とポニーの家の業務という二足のわらじをはいた生活は、毎日嵐の様に過ぎて行き、過去を思い返す余裕を与えなかった。
だからと言って、テリィへの想いがすっかりなくなったかというと、それも違った。
普段は忘れていても、テリィの記事を目にする度に、まるで寄せては返す波の様に想いが溢れてきた。
潮のしょっぱさを感じるほど白波が立つ日もあれば、静かな凪の日もあった。
けれど私は知っていたような気がする。
どんなに穏やかな海でも、波打ち際はとどまることを知らない。


雪の日の別れから三年が経とうとしていた頃、テリィが主役のハムレット役に抜擢されたという記事を見つけた。ロックスタウンでの密かな再会から一年半後の起死回生ともいえる見事な復活劇に、この待合室の床が抜けてしまいそうなほど、何度も跳び上がって喜んだ。

 
テリュース・グレアム主演 「ハムレット」  秋の公演決定!
 テリュースの復帰を支えたスザナの愛 


――復帰を支えたのは自分ではなくテリィの側にいるスザナ。痛いほど分かっていた。
新聞には二人は既に生活を共にしていると書かれていた。テリィはスザナを愛し始めたのだ。
(・・・そう、それを望んだのは確かに私――)
テリィのニュースは、なるべく知らないでいたい・・・
喜びの影にある自分の複雑な感情を初めて自覚したのがこの時だった。

公演が始まる頃、ミス・ベーカーから突然一通の封筒が届いた。
ほのかに甘い香りがするローズピンクの封筒の中には『ハムレット』の招待券が入っていた。
どのくらいの時間、いいえ何日間、その券を見つめていただろう。
(・・観たい、舞台の中央でスポットライトを浴びるテリィを・・!会いたい、テリィ・・!)
けれど諦めるより他なかった。
テリィとはもう会わないとスザナと約束したのだ。あの時、あの病室で。
愛を色で表したようなローズピンクの封筒が、徐々に色あせ灰色に変わっていくようだった。
ミス・ベーカーには感謝の気持ちを添えて謝りの手紙を送った。


テリィの舞台は観たい・・でも観たくないのです。
観ればきっと、会いたくなります。会って、一言でも話したくなります。
それに、スザナ・マーロウとの約束もあります。もう、会わないと約束しました。
ごめんなさい、ミス・ベーカー。
この招待状を見つめているだけで、わたしにはテリィの舞台が観え、歓声と鳴りやまぬ拍手が聞こえてくるような気がします。この招待状は私の宝物として大切にします。


役目を果たすことのなかった招待券は、私の宝箱の中に納められ、静かに眠りについた。

その年のクリスマスからだったと思う。
ポニーの家にキャンディやチョコレート、クッキーの入った大きなバスケットが毎年届くようになった。
子供たちは大はしゃぎで、誰が何を食べてしまっただのと争奪戦を繰り広げながら、お菓子が届くのを心待ちにするようになった。
差し出し人の名はいつも無かったが、察しはついた。
どれもニューヨークの有名なお菓子だったことと、クリスマスカードの入ったローズピンクの香り高い封筒には見覚えがあったからだ。
ミス・ベーカーがなぜ気に掛けてくれるのかは分からなかったが、せめてものお礼にと、スウィートキャンディの花束を何度か自宅へ贈った。もちろん私の名は伏せて。
配達役はアードレー家の秘書ジョルジュ。
ジョルジュの出張のタイミングが合う時だけだったので毎年ではない。
熱狂的なファンのアーチーから、ミス・ベーカーの誕生日が六月初旬だと聞いたからだ。


                             

 1-2  ハムレットの招待券

 

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ワンポイントアドバイス

 

漫画・ファイナルストーリーをご存知ない方の為に。

今回のお話(心情も含め)は、ほぼ原作に沿っています。

作中に出てきたセリフや手紙の文面(茶色・斜体の字)は原作からの抜粋です。

ファイナルのキャンディは「テリィとはもう会わない」という約束をスザナとしています。

 

スザナは「テリィ宛てのキャンディの手紙を隠した」とファイナルに書かれていますが、「ポストから抜き取った」という表現はありません。(当二次小説の設定です)

 

テリィとスザナは、「リア王」で夫婦役を演じ、「ロミオとジュリエット」でも恋人役で共演することになっていました。

 

 

エレノアがキャンディに出した手紙について

エレノアがキャンディの居場所を知り得た過程は、ファイナルでは書かれていません。

様々な見解があると思いますが、当小説では(私の考え)シンプルに興信所などのプロを使って、キャンディの現在の居場所を突き止めた、と想定しています。
 
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