句読点から読み取る

 

論より証拠。下巻174~175の2ページをご覧ください。

 

 

これはアメリカに戻ってきたキャンディが、テリィを想って書いた手紙です。

テリィに恋をしている頃ですね。

「テリィ……」の表現は4回です。

 

では、テリィと別れてから書いた『出さなかった手紙』に出てくる「テリィ……」はどうかというと、

下巻274~277の4ページで4回です。

テリィに対して、依然として切ない恋心を抱いたまま、と感じます。

 

それを対比されるような使い方が「アルバートさん」です。

「アルバートさん……」という表現は、ファイナル上下巻で一回もありません真顔たぶん

見つけた人は、ご申告くださいあせる

 

ではアルバートさんにはどんな句読点が使われているのか!?

 

 

 

びっくりマーク」ビックリマークです!!

このページだけでなく、アルバートさんと話す時のキャンディは元気ハツラツ花火

感謝の言葉をもれなく添えて、という印象です。

 

 

  思い出を糧として生きていく 

 

22才以降に書いた(と思われる)アンソニーへの手紙の中に、この頃のキャンディの気持ちが登場します。

 

生きていれば希望を抱ける――(中略)哀しいこと、うれしいこと、すべての思い出を糧として、わたしはわたしらしく、生きて生きますね。真っ白な明日には何が待っているのでしょう。どんなことでもなぜか楽しみです 下巻328

 

これが20代のキャンディの最後の言葉です。キャンディらしい言葉ですね。おねがい

ここで注目したいのは『思い出を糧として生きる』という部分です。

明るく希望に満ちながらも、どこか未亡人のようなニュアンスが含まれています。

仮に新しい恋が始まっていたら、このような言葉にはならないと感じます。

 

 

  アルバートへの気持ち

 

キャンディが、アルバートさんに対してどのような言葉を発しているか見ていきます。

 

初恋の人は丘の上の王子さま、じゃない

 

「キャンディの初恋は丘の上の王子さま」と、DNAに組み込まれている読者が多いのですが、「初恋」発言は漫画のみです。

 

 

「初恋は・・六つのときかな。丘の上の王子さまに」

「初恋は六つときねぇ・・おませなキャンディだな」

 

シカゴでのエピは、元々小説版には登場しないのですが、そもそも小説版には全編を通して「初恋の相手は王子さま」に該当する文章、匂わせる文章は発見できません。

つまり、丘の上の王子さまは『6才の時にポニーの丘で会った、バッジを落としたお兄さん』で、名木田先生が描くキャンディの初恋の相手は『胸の奥で赤い実がはじけた上巻121 相手のアンソニーです

 

これを踏まえた上で、ファイナルのキャンディの気持ちを検証します。

 

・・これがですね、恋心とも読めるのですよ。チュー

何て絶妙な表現をチョイスするんだ、とテリィファンでも思いますから、アルバートファンがアルバートエンドを想像するのは、至極当然のように思えます。
 
そこで、キャンディの匂わせ発言をピックアップしてみます。笑
 

16才頃の気持ち 下巻239~241

★わたしは行方不明になったアルバートさんをあてのないまま必死で探した。
★胸がおしつぶされそうだった毎日――。
★アルバートさんとは、何でも分かち合おう、と約束したのだ。つらいことも、うれしいことも
★わたしは、なんでもアルバートさんに話せた。
★わたしがどんなに不安で眠れぬ夜を過ごしたかーーー。
★アルバートさんはわたしを煙に巻くのが、ほんとうにうまい。
 
ゥぬぬ・・

キャンディ、アルバートさんを好きですね 真顔

 

ただし、これは行方不明になったアルバートさんを探している時の描写で、キャンディが16才の頃です。つまり、前ページで紹介した『熟れた杏のようなテリィへの恋心』の方が、後にくるわけです。

それを踏まえると、アルバートさんへの特別感は出ていますが、まだ恋のような表現ではない、と考えます。

 

往復書簡に現れた気持ち

★丘の上の王子さまのことは、忘れたことはありません。下巻287

★大おじさまがいつもと違って見えた――下巻293

★私の涙はなかなか止まらなかったけど、あれは幸せの涙でした。下巻293

★今日の手紙はこれでおしまい。だって、会って話したいから。下巻316

★アルバートさんが歌ってくれたスコットランドの民謡。うっとりしてしまいました。下巻318

★そのおかげで(両親が捨ててくれた)アルバートさんと出会うことができたんですもの。下巻321

★そう、アルバートさん、今がわたしの幸せです。下巻322

 

 

30代のキャンディが振り返りで語った気持ち

★いや、家族とは少し違っていたかもしれない。下巻241
★心のどこかで、アルバートさんは特別な存在なのだ、と分かっていた。下巻241
★ほんとうに、もう、憎らしいったらない。下巻241

★アルバートさんが、存在しているだけで不思議な安心感に包まれた。今ならその見えない糸に繋がれた絆の意味が分かる。下巻197

 

キャンディはアルバートさんが好きだと思います。

一緒にいると、幸せを感じられる特別な存在だと分かります。

ただ、これらの言葉を読む限りは、ファイナル下巻の帯に書かれてるような「30代になったキャンディが回想する切なくも愛おしい日々」の「切なさ」は1ミリも漂っていません。

 

「切ない日々」は、切ないまま終わったのではなく、そのかつての切なさも、今では愛おしいという意味だと思います。

・・・とフォロワーのこっこさんが言っていました

ファイナルで書かれている「切なさ」の大半は、ほぼテリィへの恋心で占められています。

 

 

  テリィと再会した?

 

20代前半の頃に書かれたアンソニーへの手紙の中の言葉をお読みください。

★そして――今は・・・。生きていても会うことがかなわない運命があること知ったのです 下巻327

 

よく読むと、20代の発言には「」という助詞が使われています。

つまり、20代の発言には以下の両方の意味が含まれていると思います。

 

①生きていれば会うことは叶う→アメリカでのテリィとの再会。シカゴでのアルバートさんとの再会。

②生きていても会うことが叶わない→テリィとは二度と会えない。

 

それを踏まえた上で、30代のキャンディの回顧録の言葉をチェックします。

 

★今までつらい別れはいくつもあった。けれど、生きていれさえいればまた巡り会うことが出来るのだ。だから、わたしはもう別れを怖れない 上巻232

 

30代のキャンディは、②の概念が無くなり、①を断定しています。

つまり、テリィとは再会したのでしょう。(単なる同窓会かもしれませんが)

 

 

  キャンディは結婚していない?

 

愛しい「あのひと」と暮らしているキャンディ。

普通なら結婚していると書かれていてもよさそうですが、なぜか作中に結婚、結婚式、結婚指輪などの言葉は出てきません。

では同棲なのか?今は婚約中なのか?

いえいえ、キャンディがこの家に何年も住んでいることは文脈から読み取れます。

 

数年前、ロンドンの蚤の市でその油絵を見つけてくれたのは、あのひとだ。上巻7

 

では、なぜ結婚しているとハッキリ書いてくれなかったのか?

実はここ、ブログ主は最初の消化不良ポイントでした。なんだか「愛の物語らしくない」汗って。

考えたらすぐに分かりました電球

そう、結婚していると書いてしまえば、それは自ずと「あのひとはテリィ」になってしまいます。

あのひとがアルバートさんの場合、結婚という形をとることはできません

日本や欧米では、養父母と養子の関係にあった者は、その関係を解いた後も結婚できないという法律があり、事実婚が限界です。

100年前は容認されていた可能性もありますが、「道徳的に不適切で非難される」出来事でした。

・・と、チャットGPTが答えています

 

ファイナルでは「あのひとが誰かを曖昧にしないといけない」ので、結婚という表現は使えなかったのかな、と思います。

裏を返せば、原作者は「養父と養女は結婚できない」という事情を分かった上で、ファイナルを執筆した、ということかもしれません。

 

 

  今が私の幸せです

 

アルバートさんとの往復書簡の最後に放たれる、この意味深フレーズ。22才前後の発言と思われます。

 

(私を捨てた両親に感謝します)そのおかげでアルバートさんと出会うことが出来たんですもの

感謝し尽せないのはわたしのほうです。そう、アルバートさん、今がわたしの幸せです。下巻322

 

この文だけに注目すると、あのひとはアルバートさんかなぁ、と読める気がします。Aファンなら、この言葉をアドバンテージにするのも良いと思いますがにっこりテリィ系のブログなので、深追いしたいと思います。

 

まずキャンディは、身近な事に幸せを感じるキャラであることが大前提です。

テリィと別れた時でさえ、「(テリィにめぐり会えたから)幸せ」という言葉を使っています。

エルロイ大おばさまにアーチーとアニーの婚約を認めて欲しいと、説得の手紙を書いた時も

(捨て子という不幸な生まれでも)わたし自身は今、信じられないくらい幸せです」下巻262
と言っています。
また、亡きステアへ書いた手紙の中にも「わたしは幸せかって?もちろん!だって、わたし、”キャンディが幸せになり器”を持っているんだもの」下巻266 と書いています。

漫画のラストでもアニー、パティ、アーチーがポニーの家にいるのを見て「幸せすぎて」と涙を流していますね。

 

一方、ファイナルのラストシーン「あのひとの腕の中に飛び込んでいくキャンディ」は、「最後に女性としての幸せを掴んだ」という意味だと思います。原作者もそのように語っています。

ということは、物語の構成を考えても20代の道半ばのキャンディの幸せ発言は「恋の成就の意味ではない」と捉えられると思います。

 

広い視野で物語を読めば、実はこの頃のキャンディにはそう言いたくなる出来事が目白押しなのです。

 

①アニーとアーチーが婚約した

②パティも教師の道へ邁進中

③アンソニーへの懺悔の気持ちもようやく昇華

④テリィはハムレットで復帰し、大成功

⑤スザナとテリィは婚約して幸せそう

 

⑤は、キャンディにとって不幸な出来事のように思うかもしれませんが、二人の幸せを願って身を引いたキャンディですから、やはり「吉報」に分類されると思います。

更に、アードレー家の事業も順調で、アルバートさんが仕事にやりがいを見出し活き活きしている様子が描かれています。

アルバートさんがいてくれて、村での看護婦生活も充実している。

そんな中で「今がわたしの幸せです」の発言が出るわけです。キャンディらしいニコニコ

 

 

  見えない糸に繋がれた絆

 

おそらくテリィファンにとって、一番「ん??汗」となるのは、この文章だと思います。

 

アルバートさんが、存在しているだけで不思議な安心感に包まれた。(30代の)今ならその見えない糸に繋がれた絆の意味が分かる。下巻197

 

これって運命の赤い糸?・・とも受け取れます。

そこで、「糸」と「絆」に触れている文章を紹介します。

 

キャンディとは見えない糸で繋がっている。上巻161

 

アンソニーとばら園で会っていた。約束したわけではない。糸に引かれるように、お互いの居場所が分かる気がする。上巻212

 

これは、アンソニーとキャンディのシーンで登場する「糸」というワード。2か所出てきます。

キャンディと糸で繋がっているのは、アルバートさんだけではないようです。

※フォロワーのりりかさんが発見してくださいましたにっこり

 

この世は、本当にきらめくようなで結ばれている――

わたしが看護婦になりたいと思ったきっかけは、旅の途中でお世話になったカーソンさんの~~

(中略)

…そう、すべてがセントポール学院を出てから出会った人々だ。

人との巡り会いは大きな樹木のようだ。一つの出会いの枝からまた別の枝に繋がっていく。

そして、更に他の枝に――

わたしはそうしてカーソンさんからジャスキンさん、クッキーとニーブン船長、と巡り会いの枝を伸ばしていった。下巻152

 

キャンディは、アルバートさんに限らず、全ての出会いを「絆」と考えているようです。

見えない糸に繋がれた絆下巻197 という言葉は、(愛する人との)運命の赤い糸ではなく、人と人との巡りあわせに対するご縁や絆――だと考えます。

 

 

  テリィとキャンディの魂は同じ

 

ファイナルには、このような文章が登場します。

 

(テリィとわたし・・どこか似ているのかもしれない)
名門貴族の息子のテリィと、親は誰かもわからない捨て子だったキャンディー。
人は生まれや育ちとは関係なく、魂の故郷が同じことがあるのかもしれない
上巻331

 

旧小説までは「あなたとわたし、どこか似ている・・・どこか・・」復刻版282

までで、その先の「魂の故郷~」という表現はありません。

つまり、原作者は「二人がソウルメイト」だと、わざわざ追加したわけです。


漫画には無い「テリィとキャンディの魂の故郷が同じ」という言葉。

テリィファンとしては嬉しいですねおねがい

 

 

  原作者は言った

 

既に何度か触れたように、漫画は原作者の意向が100%反映されたものではありませんでした。

特に終盤、アルバートさんと暮らし始めた頃に担当の編集者が変わり「率直に言って、とたん、作品の質感が落ちました」とか「ゲラになった作品を見て、原作と違う!仰天することが続きました」

と語っています。※名木田先生関連サイトでの発言です。

 

その中で注目すべき発言はこれです⤵

 

アルバートさんとキャンディのシーンも・・・(安易)と思わずつぶやいたシーンがいくつかありました。テリィと別れたキャンディの心がそう簡単に、他の誰かに移るはずがありません

(また、簡単にアンソニーの面影を忘れ去ることなどもできません)

『キャンディを軽々しい女の子にだけはしないで』と言った事を覚えています

 

 

  キャンディの恋を主観で語る

 

基本的にブログ主は、キャンディのアルバートさんに対する気持ちが恋であろうと、家族愛であろうと、煮るなり焼くなり個人の好きにして焼肉鍋という感じです。

・・とはいえ

テリィと別れ、ようやく立ち直った頃にアルバートさんの「僕が丘の上の王子さまだよ~」のカムアウトを経て

「まじ~ラブすき~」

ってなキャンディってどうです?真顔

アンソニーからテリィへの変わり身の早さは、まだ記憶に新しいわけですよ。

 

ブログ主なら・・・

「そんな節操がない女はやめろ、アルバートさん物申す」って言うと思います。

実際キャンディというキャラは、女性に人気があるとは言えません汗

原作者も、「節操の無さ」という部分においては多少なりとも頭をかすめたのではないでしょうか。

ファイナルは、アンソニー&テリィに回帰しているような傾向を感じます。

 

「変わらない心」という花言葉を持つブルーベルの花も、『アンソニーが亡くなった森』下巻319と『学院の森』下巻25にしか咲いていません。

アンソニーとテリィへの「変わらない気持ち」を暗示している情景描写だと感じます。

というのも、「ブルーベルの森」は、イギリスの春の代名詞。

イギリスを連想させるこの花が、逆に何故アメリカのレイクウッドの情景描写に用いられたのか?

個人的には、違和感を覚えました。

花言葉を知った時に、謎が解けた気がしました。

 

 

レイクウッド=アルバートさんと読んでもいいのでしょうが、やはりレイクウッド=アンソニーであり、アルバートさんはポニーの丘かな、と個人的には思います。

 

そして30代のキャンディは、レイクウッドにもポニーの丘にもいません。

その場所を巣立ち、遠く海を隔てた、黄色い水仙の咲く土地で暮らしているのですハート

 

 

次の考察はこちら右矢印「考察⑧テリィとスザナ」

 

 

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