★★★8-12


 

ブロードウェーから四ブロック入ったウエストサイド地区。
狭い道路の頭上には蜘蛛が巣をはるように洗濯物が干されている。お世辞にも高級住宅街とは言えない。
「寒くないか?角部屋で窓が多いから、隙間風が入ってくるんだ。この部屋、冬は最悪で、」
「大丈夫よ。部屋が狭いから暖かくなるのも早いわ。ストーブの薪がいいのかしら?」
キャンディは部屋をゆっくり見回した。
きれいに掃除されているとはいえ、テーブルの横はすぐベッド。一流の役者に似合う部屋とも思えない。
「・・引っ越そうとは思わなかったの?」
「・・保証人もいない家出少年に、部屋を貸してくれたのはナナおばさんだけだった。名前が売れてからも、俺のために隣の部屋をずっと空き部屋にしてくれたり、記者連中を閉め出したりもしてくれて。・・ブロードウェーは建物が密集してるから、太陽がどこにあるのか、いつ沈んだのかも分からないまま一日が終わるんだ。でもこの部屋には、奇跡的に朝陽が入ってきた。寝坊せずにすんだよ」
「――その割には、あなたのこの仕打ちはなに?この壁修理しなくていいの?」
凹んだ壁を触っているキャンディの眉は八の字を描いている。
「退居する時に直す約束になってる。このアパート、壁が薄いのにそこだけ頑丈でさ、突き破れなかった。隣の部屋から同じ力で叩けば、きっと元に戻る」
テリィは邪道な方法で修理するつもりらしい。
「おばさん、私の事も知っていたみたいだったわ。恋愛相談でもしていたの?」
「ハハ、郵便物の管理と部屋の掃除を任されれば、私生活なんて丸見えなんだろう。そのポスターの落書き一つとっても、『キャンディ』が誰かは明白らしい。おばさんは鋭いな」
キャンディは凹みの横のロミオとジュリエットのポスターに目を移した。
「ふ~ん・・、丸見えね・・」
ふと思い出した、管理人さんの話。
「・・――ねえ、さっきの話。・・裸の女性・・、あなた・・どうしたの?」
「そんな事、妻に話すわけないだろ」
クスクスとからかい半分で返したものの、疑惑の瞳を向けるキャンディを見て、直ぐに言い直す。
「ハニートラップだよ。記者がネタ作りの為に送り込んだ刺客さ。テリュースは女に見境ないって記事をでっち上げたいんだろ。その子には直ぐに出てってもらった。この部屋に入っていいレディは君だけだ」
「・・すんなり帰ったとは思えないけど―」
「娼婦に服を着せたのはナナおばさんだから、疑うなら訊けば?」
本当に娼婦だったのか。テリィの素行の危うさを知っているだけに邪推もしてしまう。
「俺には好きな子がいるから無理だって断って、君は十分チャーミングだから、こんな所じゃなく、劇場に会いに来て欲しいなってチケットを渡したら、帰ってくれた。まだ納得できない?」
髪をかき上げながら説明しているテリィに、キャンディの疑惑の目はますます鋭くなる。
そんな自分のしぐさにハッと気付いたテリィは、参ったな、と観念するように言った。
「お金に困っていたみたいで、愛人にしてくれって言われた。週一回でいいからって。ま、応じてもよかったけど、週一回少しばかりの金を手にしたところで、その子の生活が変わるとも思えなくて」
「――それで?週二回にした、なんて言わないでしょうねっ」
キャンディの鼻息は荒くなる。
「バカっ、違うよ。魚を与えたところで、食ったら無くなる。釣り方を教えた方がいいと思ったんだ」
「・・?魚釣りに行ったの?釣り竿でも買ってあげたの??」
「買ったのはドレスさ。おばさんを呼んでドレスを買ってきてもらって、芝居のチケットを渡した。芝居を観て何かを感じたら、入団テストを受けてみないかって」
「・・素人がいきなり受けて、受かるもの?」
「安息日の翌日が休演日だから・・少し指導を・・」
キャンディの眉がひくっと動いた。
「随分おやさしいこと!あなたの好みのグラマー美人だったのかしら!?」
「俺はレディになら誰にだって優しいさ。――その子、金髪でそばかすがあったんだ。身寄りがないって言ってた。嘘かもしれないけど、放っておけなくて。・・何回目かの入団テストで受かったんだ。努力してオフィーリア役まで手にしたのに」
「・・・もしかして、その子―」
世間の強烈なバッシングを受けて行方をくらましたオフィーリア役の後輩女優。
テリィの寂しげな瞳が、その子であることを物語っている。
単なる後輩だと言っていたが、その子の方はもしかしたらテリィを好きだったのかもしれない。
記事はでっち上げだったとしても、時に写真は正直に現実を映し出す。
キスする五秒前―・・いや、キスされる五秒前、とキャンディがタイトルをつけたくなったあの写真。
「――別に俺は口説いたりしてないから」
同じことを考えていたのか、テリィは言い訳でもするようにキャンディに言った。
「世の中には、目で女性を殺せる人もいるのよっ、あなたは明日からサングラスをかけた方がいいわ」
「ハハハ・・!ギリシャ神話にそういう怪獣がいたな。メデゥーサだっけ?」
茶化すテリィの声を無視するように、キャンディはポスターをじっと見詰めた。
ジュリエット役はスザナではない。代役のカレン・クライス―・・昔、彼女とも恋の噂が立ったテリィ。
「もうっ、いやになっちゃっう!・・私、世界中の女性を敵に回したんじゃないかしら」
「いまごろ気付くなよ、ハハっ!」
きっとテリィは、金髪でそばかすが無くても同じことをしたに違いない。根っからの紳士なのだ。
そうやってテリィは自分でも気付かぬ内に、どれだけの恋の種を落としていったのか。
時として罪深いテリィの優しさは、諸刃の剣にもなってしまう―


「――テリィ・・、出来るだけ・・・結婚指輪は外さないで・・。例えあなたがイギリス人でも」
キャンディが何を考えているか、テリィには分かった。
「・・・これからは既婚者の役を受けることにするよ。・・もうロミオはやらない。約束する」
ポスターを見つめたままのキャンディの肩に、テリィはそっと手を置いた。
「・・・・」
役者の妻失格だわ、と思いながらも、キャンディにはどうしても否定の言葉を口にすることが出来なかった。

「・・そのポスター、もう外すよ。アパートも今日で引き払う」
ふいにテリィは言った。
「・・え・・?」
キャンディの心は何故かざわついた。何か忘れ物をしたような感覚―
「・・なにも今日じゃなくても―、明日じゃダメなの?」
自然に言葉が出ていた。
「どっちでも同じだよ。今いるんだから、今日の方がいい」
荷造りでも始める様に机の上の郵便物を整理し始めたテリィに、キャンディは作業の邪魔をするように言った。
「あと一日、この部屋で過ごしちゃダメ?」
「ここに泊まりたいのか・・?」
「・・だって、叶ってないもの。私、ここで朝食を作ってない。・・私も昔、テリィと暮らす夢を見たことがあったの。その夢はもう叶ったわ。だから今度は私が―」
キャンディの言葉が嬉しくないわけではないが、記者連中にとっくに周知されているこのアパートに、記事が出た直後に泊まるのは、危険な気がした。
「食べ物もないし、こんな狭いベッドに二人で寝るのは無理だ。ソファもないし、今日は予定通り―」
「十年前と何が違うの?私を抱きしめながら眠りたかった、って言ったじゃない」
「あれは言葉のあやだ。実際にそれをやったら、一晩中抱っこする羽目になっちまう」
「それでいいわ」
「よくないっ!君ね、自分の体重知ってるか?俺を潰す気か?」
「言ったわねっ、それなら私があなたを抱くわよっ」
キャンディが鼻息を荒くして答えると、
「君が俺を・・・?」
言葉通りに受け取ったテリィは、緩んでいく自分の口元をサッと抑えた。
そんな意味で言ったのではないと分かっていても、ザワザワと血が騒ぎ出す。
「――寝床はともかく・・食材がない、ダメだっ」
「夕飯は外で済ませればいいじゃない。それに角にパン屋があったわ。手紙のようにイギリスへ持って帰る事も出来ないなら、せめてあと一日、ここに居たいの・・!」
「ここは危険だ、在宅がバレたら―」
「灯りをつけなければバレないわよ。月明かりで十分だわ」
「それじゃ、何もできないだろ」
「一晩ぐらい本を読めなくてもいいじゃない。寝るだけなら灯りはいらないでしょ!?」
そこを突かれると身も蓋もないが、追い打ちをかけるようなキャンディの迷言には、さすがに参る。
頭を悩ませ始めたテリィをよそに、キャンディは切羽詰ったように言った。
「あなたにとって私はここの住人だったかもしれないけど、実際の私は一時間もいなかったのよ!?このアパートの記憶なんて殆んど無いわ。落書きだって忘れてた・・。コーヒーをこぼしただけの私なんて嫌よ、・・せめて一晩だけでも思い出がほしいの!」
度重なる悩殺フレーズの連呼に、さすがのテリィも妻の真意を確認したくなる。
「・・一晩なに・・?俺にどうしろと?」
テリィにそう言われ、キャンディは一気に顔を赤らめた。
「・・言わせないで・・」
何もできなかった自分が、テリィのささやかなかつての夢を叶えることが出来るなら―
「この部屋、夜になると更に寒くなるぜ・・?」
「・・一瞬で熱くなるの、・・知ってるくせに」
つぶやくキャンディの言葉は、言い得て妙だ。
「壁が薄いってさっき言っただろ?音だってダダ漏れだ」
「・・声を出さなければいいんでしょ。それ、この前ポニーの家で、、練習したわ・・」
「――あれは練習じゃなくて、本番だろ」
自分は何を言ったのか。テリィの頭はぐちゃぐちゃになってきた。
「テリィ・・いやなの?」
答えを渋るテリィに、キャンディはすがる様な目を向ける。
そんな瞳で迫られて、拒絶できる男がいるのだろうか。
テリィは額に手をあて(・・目で殺せるのは・・君だろ)と、根負けしたように苦笑した。

 

 

8-12 アパート

 

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