★★★7-12
キャンディは移動中も気遣いは忘れなかった。
「あなたが窓側に行くべきよ!通路側じゃ顔を見られちゃうわ」
「レディが窓側に行くべきだ。通路側じゃ誰かに襲われた時、守れない」
「想像力が飛躍し過ぎよ。襲われたりしないわっ」
「よく言うよ、イギリスへ着いた途端暴漢に襲われただろ?ジャスティンから聞いたぞ」
「襲われたのはジャスティンの方!私は暴漢を襲った方よ」
事実を聞いたテリィは呆気にとられ、思わず額に手をあてた。
「・・君が襲うのは、俺だけにしてほしいな・・」
結局座席の譲り合いは、キャンディの主張が優先された。
どちらがより高確率かを考えたら、明白だったからだ。
紳士は渋々窓側の席に座ったものの、レディの背中に腕をまわし、自分の方に抱き寄せている。
(この車両、誰もいないのに・・・。そんな姿勢で本なんか読んで、苦しくないのかしら?)
プフプフと口元を抑えるキャンディに、テリィは読んでいた本をパタンと閉じた。
「・・どうしたの?もう読まないの?」
「集中力が削がれてページが全く進まない」
「進まないのはフランス語だからじゃないの?この本、面白くない?」
「フランス文学の大河だ。面白くないはずがない」
「・・へえ・・、何て本?」
Les Miserables(レ・ミゼラブル)・・“悲惨な男たち”」
「・・・愉快な本、ではなさそうね」
「タイトルが本質を表しているかどうかは、中まで確認しないとわからないさ。もっとも君が『先生』から貰った本は、タイトルの意味さえ分からないけど」
「確かに・・」
どこの言語かさえ未だに分からない。
タイトルにルビが振ってあったが、それも親切とは言い難い。
「BOTCHAN
、ボッチャン・・?ボッチャン―??テリィが川に落ちる音?」
「しかし世の中広いようで狭いよな、あの先生とアルバートさんが、今は一緒に仕事をしているなんて」
「ほんとね。動物好きに悪い人はいないって意気投合して、ニューヨークでの事業計画もスムーズに進んでいるらしいわ。アルバートさん、アフリカで動物の写真ばかり撮っていたみたいで―・・そういえば、さっきの新聞の写真、・・他にもっといい写真がなかったのかしら?ふふっ」
「――アルバートさんは、あれが一番いいと判断したんだろうさ」
テリィは少しふて腐れた。
「あの写真が?・・私は後ろ姿だったわよ?」
「レディの顔を黒で塗られるよりはましだ。覆面ギャングじゃないんだからっ」
「う~ん、そっか。でもテリィだってカメラの方を見て無かったわよ?大きな口を開けてバカ笑いして」
「・・だからさ。芝居のポスターのような澄ました写真なんか載せる意味がないんだろ。論より証拠さ」
そう、カメラではなくキャンディの方を見ていた。
笑い声が聞こえてきそうなほど顔を崩して―
写真では見たことがない自分の顔。キャンディだけに見せている顔なのか。
片時も離れたくないと言っているかのようにピッタリと寄り添い、キャンディの額を指でつついていた。
はっきり言って色んな感情が駄々漏れしている、世の中に一番出してほしくなかった超オフショットだ。
(・・・勘弁してくれよ)
アルバートのチョイスの鋭さにテリィが苦笑していると、キャンディは独り言のようにつぶやいた。
「・・・論より証拠・・・婚約式・・かぁ・・・」
テリィは違和感を覚えた。あれは披露宴の写真であって、婚約式ではないからだ。
次の瞬間ピンときた。今キャンディが頭の中で見ているのは、例の写真だと。

列車の低い天井をぼんやり見詰めているキャンディに、こっちを向けとばかりに力強い声でテリィは言った。
「この際ハッキリ言っておく。俺はスザナと婚約式などしていない。あれはただのパーティだった。抱き上げたのはスザナの足のせいだ。君だって看護婦なら分かるだろ?それを婚約式だのと写真を悪用されただけだ。ゴシップ記事なんて殆ど捏造だと前にも言ったはずだ」
「――婚約がゴシップや単なる偽装だと言うなら、お父様に結婚の書類を依頼する必要がある?」
「―!!そ、、れは・・・」
テリィは一瞬言葉に詰まったが、直ぐに毅然と言い返した。
「結婚という形で責任をとるべきだと思った時期があると言っただろ?実家に連絡したのもその時期だ。だけど、しょせん無理があったのさ。義務だけの結婚なんて」
テリィはおざなりの返事をした。
「あなたは一度決めた事を途中で投げ出すような、そんないい加減な人じゃないわっ」
テリィは驚いた。結婚しなかったことを責めているようなキャンディの口調――
「結婚しなかった理由を聞いているのか?・・だから、俺は君が――」
「私を理由にすれば納得するとでも思っているの?婚約の記事が出たのは別れてから四年以上経った頃よ?一度決めた結婚を突然やめる理由になんかならないわ」
「だからそれは・・、父さんに反対されたからさ。煩雑な貴族の結婚を、親の同意もなしに進めるのは無理なことぐらい、――それこそ、駆け落ちでもしない限り」
「そうよ!あなたは居ながらにしてスザナと駆け落ちできたのよ。家名を捨てたも同然だった当時のあなたなら、躊躇など無かったはずだわ!そのままマーロウ家の籍に入れば済む事よ!」
「、、、父さんが病に倒れ、弟が、跡取り男子が亡くなったと知ったら、いくら俺だって身の振り方を考えるさ」
テリィの言葉が少し乱れた。
「・・嘘よ、どうして私に嘘をつくの?あなたが実家の事情を知ったのは、最初のイギリス公演の時だったはずだわ。実家を訪ねて、執事のテイラーさんから聞いたって」
「そうだよ、俺は嘘なんか―」
「――だけど、テリィがスザナとの結婚の意思を固めたのは、その三年も前だわ!ハムレット役に抜擢された頃よ!!」
診療所の倉庫の雑誌を整理している内に、キャンディはその矛盾に気付いてしまった。
あやふやだった過去の出来事の時系列がはっきりしたことで深まった謎―

――実家を捨てていた当時のテリィには、公爵家の事なんて、端から結婚の障害にはならない。
「あなたには結婚する意志も、手段も、時間もあったのよ!なのに、途中でやめたのは何故!?いったい何があったの!?スザナはそれで納得したの!?指輪まで贈っておいて、ひどいわ!」
「――指・・輪・・?」
どうしてそんなことをキャンディが知っているのか。
テリィはにわかに悟った。もうこれ以上言い訳は出来ない―
行き詰ってしまったようなテリィの顔を見て、キャンディの胸は急速に萎む風船のようだった。
アルバートさんにあれほど言われたのに、テリィに不信感をあらわにしている。
スザナとテリィ、どちらの肩を持っているのか分からない。
「君は、俺に・・是が非でもスザナと結婚してほしかったのか・・?」
「・・・あ、・・・私―・・ちがう、ちがうわ」
何故こんなことをテリィへ言ってしまったのか・・。今まで呑み込んできたのに―

最初はテリィの言葉の違和感から始まった。


 ――いまわの際に言ったって遅すぎるさ、スザナ
全てが美しい記憶とは限らないさ・・醜い部分はより鮮明に残るものだ―


スザナはテリィの気持ちを根底から覆す何かをしたのではないか。
テリィの心がスザナから離れる決定的な何かがあったのではないか。
でなければテリィがあんな冷たい事を言うはずがない。

 

  ――スザナは罰を受けるべきだって、テリィは言っていたよ。

「・・何があったかって?――何があっても、俺はスザナの傍から離れることなど出来なかった。入籍してもしなくても、俺たちの関係は何も変わらないさ」
それはキャンディにとって、あまりに現実的で悲しい一言だった。
「・・ごめん、責めているんじゃないの。ただ、スザナがかわいそうだと、・・あんなにあなたを想っていたのに、私達の披露宴でも新聞記事でも有った事を無かったことにされて、・・もし私がスザナだったら」
この言葉がテリィの感情を激しく揺さぶった。
「かわいそう―!?かわいそうなのは君だろ!有ったことを無かったことにされたのはっ・・!!スザナに同情なんかしなくていい!」
いきなり激高したテリィにキャンディは戸惑った。
「・・テリィ?」
テリィはハッと我に返り

「・・・すまない。何でもない・・」

ハンチング帽のつばを下げ、車窓にもたれるように目を閉じた。
テリィの腕はもうキャンディに触れてはいなかった。
腕を組み、冥想でもしているかのように沈黙している。
二人はしばらくの間、列車の振動だけをひたすら感じていた。

墓地でスザナに語り掛けていたテリィの穏やかな顔に偽りはなかった。
その反面、今のような冷淡な言葉を発するテリィもまた偽りではないのだろう。
時折現れる、冷たい表情、冷たい言葉―・・
スザナに対して二つの顔が存在しているのだと、キャンディは今朝ハッキリと悟ったのだ。
神話に出てくるヤヌス神―・・前と後ろ二つの顔を持つ神のように―




 

鶏の鳴き声で始まるポニーの家の朝は早い。
ここを離れて数か月たつというのに、
Cock-a-doodle-doo の甲高い声に、キャンディは条件反射で目が覚めてしまった。
狭いベッドには、秘密の遊戯の跡を残すように、キャンディの肩を抱いたままテリィが眠っていた。
(先生たちが起き出す前にゲストルームに戻ってもらった方がいいわよね・・)
いつ声を掛けようかと、しばらく顔を眺めていた。
相変わらず整った眉、通った鼻筋。つい悪戯したくなり、鼻をつまもうと手を伸ばした時
「・・止めろ・・」
最初はテリィが目を覚ましたのかと思った。
(・・寝言か・・)
何故かホッと胸をなでおろす。
「・・・ス・・ナ―・・」
その声にキャンディの顔は一瞬で凍り付いた。
スザナの夢―・・テリィはいまスザナの夢を見ている。
次の瞬間、
「・・あいし・・て・・る」
テリィの口元が確かにそう言った。
(――いや、聞きたくない・・!)
咄嗟に背を向け、耳を塞ごうとした時、
「―・・キャン・・・ディ・・・」
呼ぶような声。
「――テリィ・・、起きてるの・・?」
振り向いてみたが、テリィの瞼は閉じている。
(今のは・・どっち・・?愛してるの言葉は、誰に言ったの・・?)
閉じた瞳に訴えても、返事は来ない。
熟れすぎた果実のように今にも崩れてしまいそうな心臓をグッと押さえる。
すると半分枕に埋まったテリィの目から、一筋の涙がスー・・と零れ落ちた。
「・・・――ゆる・・・し・・・」
涙と同時に漏れてきた声に、キャンディの心は一気にざわめき立った。
やはりこの夢に自分は無関係ではないのだ。
覚悟を決めたキャンディが、自分の肩に掛ったテリィの手に触れようとした時
「・・・―・ゆる・・―・・―・・ザナ・・」
再び漏れた声に、思わず体がビクッと反応した。
(・・え、今なんて言った・・?)
するとキャンディの微妙な体の動きに気付いたのか、テリィが不意に目を覚ました。
「・・ん?あ・・おはよう。ここはキャンディの部屋か・・?―・・いま、何か・・」
少し混乱しているのか、テリィは髪をかき上げながらしばらく考えていたが、おもむろに立ち上がり、ガウンに腕を通し始めた。
「あ、・・あの・・、テリィ―」
「・・もう一眠りしても大丈夫だよな?」
眠たそうにあくびをしながら、テリィはゲストルームに戻って行った。

『許さない、スザナ』
その言葉を残して――

 

 

 

7-12 二つの顔

 

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ワンポイントアドバイス

 

作中に出てきた「BOTCHAN」は、言わずと知れた夏目漱石の「坊ちゃん」です。

フォロワーのhappiさんの調べによると、アメリカで英訳され出版されたのは、1918年 19年、56年、72年。(※SONNETの物語世界は、今、1926年1月です)

これは1918年に出版された本です。(国会図書館より画像をお借りしました)

happiさん、本当にありがとうございます♡

 

ちなみにフォロワーのひーちゃんのひーおじーちゃんは、この本に登場する「赤シャツ」だそうです。

 

 

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