★★★1-10

   
 

ストラスフォード劇団は春の公演『ハムレット』が始まったばかりだ。
数年前から断続的に演じてきた役名は、今やテリュース・グレアムの代名詞となっていた。
これほどのロングランを誰が予想しただろう。
作品賞、演出賞、主演男優賞―。ある年の演劇界で最も栄誉ある賞の三冠に輝いた『ハムレット』の人気はいまだとどまる所を知らず、観客を動員し続けている。
ブロードウェー関係者数百人の投票で決まるこの賞の栄冠を手にする事は、演技が認められたことに他ならないが、それにあぐらをかくつもりはない。
毎回違う観客が来ていると思うと、常に全身全霊をかけて役に向かう。
これだけ長い間演じていれば全米中の人が既に観たように錯覚しそうになるが、そうでもないらしい。
そもそも、自分にとって一番肝心な人物がまだ来ていない。

「・・ま、『ハムレット』に始まったことじゃないか」
本番前のリハーサルの合間、テリュースの口からつい本音が漏れた。
最初は『リア王』。舞台照明用のはしごに座って少しだけ観たと言っていた。
二回目は『ロミオとジュリエット』。用意した特等席に座った姿は見ていない。
三回目は―酒に酔った状態のひどい演技だったので、作品名さえ覚えていない。
もっとも、三回目は幻だったのかもしれない。うら悲しく涙を流す姿が今も深く脳裏に刻まれている。


・・俺がこんな惨めな状態じゃ、キャンディを不幸にするだけなのか・・

――やさぐれている場合か、自分で決断した事だ。現実を受け入れろテリュース!
キャンディもスザナも、これ以上不幸にさせちゃいけない、絶対に復活してやるっ!

それが唯一、いまの自分がキャンディの為にできること――。


夢か現実か判らない出来事ではあったが、荒んだ自分を奮起させるには十分だった。
がむしゃらに努力した日々は決して楽ではなかったが、一年半もすると元いた場所、舞台の中央で演技をする事が叶った。

主役のハムレット役を勝ち取ったのだ。

あれから7年――。
未来永劫演じたかった、と言うつもりはない。終止符を打つことを決めたのは自分なのだから。
ハムレット役は、来月四月末をもって交代することになっている。

自分の退団はもう決まった。

 

 


「お疲れのところ、僕の為にご指導ありがとうございました、先輩!」
「うぬぼれるな、明日が休演日だからだよ。しっかり引き継いでもらわなきゃ、困るのは劇団だしな」
「しかし、いいんですかね~、こんなだまし討ちのような真似。テリュース・グレアムの引退公演だって伝えた方がいい気がしますけど・・」
「――で、その反動で後期公演が閑古鳥か?ごめんだね。俺のせいにされても困る。それに、引退じゃない」

稽古場から外へ出てきたテリュースは、どこかに潜んでいるかもしれない記者を警戒するように辺りを見回した。

「そうそう、移籍!引退じゃないですねっ!」
後輩役者の不用心な一言に、思わずシッ、と口の前に指を立てる。
後輩役者は慌てて音量を絞ると、注意深く辺りの建物を伺い再び会話を続けた。
「・・RSCの待遇ってどうなんです?ロバート先生が言うには、年俸は下がるはずだって聞きましたが」
「誰もが金の為に芝居をしているわけじゃないだろ。君は何だ?なんで芝居をする」
「そりゃ有名になりたいからですよ~。五月から僕がハムレットをやるって言ったら、母さんも彼女も大喜びで!近所中に言いふらしています」
「なら分かるだろ。金は二の次、そういうことだ」

この日普段より劇場を出るのが遅くなったのは、公演のあと、後輩に演技をつけて欲しいと頼まれたからだ。車で三十分の距離にある自宅に帰るのは面倒に感じたので、劇場近くの自分のアパートに泊まろうかとも思ったが、手紙の事が頭をよぎり、疲れた体に鞭を打つことにした。

「・・月が出てない―」
運転しながら、暗い夜空に予感めいたものを感じ、テリュースはふと遠い記憶を呼び覚ました。



それはもう何年も前、フロリダ公演に出向いた時の事だ。
ニューヨークの寒さが堪えると、珍しくスザナも巡業についていくと言い出した。
現地のホテルに着くと、運悪く客用エレベーターが故障していた。
抱えて部屋まで連れて行くと言う俺と、恥ずかしいと言うスザナとの会話を聞いていた支配人は、明日オープンするという同じ系列のホテルを案内してくれた。お詫びにスウィートルームを用意すると。
主演俳優が階段を踏み外し怪我でもしたら大変という配慮だったのだろう。

マイアミ・リゾートイン・X ―
Xとホテル名が伏せられていることを奇異に感じ尋ねると、今夜正式名称の発表があるとの事だった。
さぞ機密事項なのかと思いきや、フロントチーフの男性はあっさり教えてくれた。
レイモンドホテル。創業者の名前らしい。
劇場を含めたこの辺りのレジャー施設の殆どがその系列で、今夜はホテルのオープン式典とパーティがあり、多くの関係者が滞在している事も小耳に挟んだ。
広いスウィートルームとは言え、スザナとマーロウ夫人と四六時中同じ空間にいるのは息が詰まったが、最上階は人の出入りする音がひっきりなし廊下から響き、うかつに動き回るわけにもいかなかった。
タバコを吸いにバルコニーへ出ると、外は月のない新月。
海の潮の香りと静かな波の音以外は何もない。南国のしなる木も、その夜は体を休めていた。

 

 

illustration by Romijuri

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そんな時だった。ふと二つ先のバルコニーにネグリジェ姿の女性の人影が目に入ったのは。
こちらを見ている。
見ているのは分かるが、顔は見えない。ブロンドの髪、ウエーブのかかった長い髪。
漏れる部屋の灯りで、かろうじてそれだけは分かる。
次の瞬間、何故そう思ったのか、キャンディのような気がしてきた。
続く沈黙が更に確信を深めていく。
しばらくすると女性の部屋から長身の男性が出てきた。
女性の顔の角度が変わり、男性は無言で女性の肩を抱いた。
今夜空に月がないことを恨むべきなのか、それとも感謝するべきなのか。
そんなことを考えていると
――ダーリン・・、まだお休みにならないの?

部屋の中からスザナの声がした。
聞かれたくなかった。
俺は返事をせずに、そのまま部屋の中に戻った。

あの男は誰だ―・・?
いや、誰かなんてわかり切っている。
この時間あの部屋にいることを許され、肩を抱かれても拒否されない男だ。
今何をしているだろう、二つ隣の部屋で。想像するだけで頭が変になりそうだった。
・・・いや、キャンディのはずがない。こんな所にいるはずがない。
体型が少し違う、あんな大人の女性じゃない。
――いや、キャンディを見間違えるわけがない。
体型など変わって当然だ、何年経ったと思っている。
一晩中頭の中でシーソーゲームをするように、結局一睡もできずに夜が明けた。

朝になると、女性がいた部屋は既にハウスキーパーが入っていた。
昨日の親切なフロントチーフに尋ねると、オープン前夜だった昨日、ホテルに泊まっていたのは創業者の一族だけだったと教えてくれた。
創業者の名はレイモンド・ラガン。アードレー家の一族、ニール・ラガンの父親だと知った。
やはりあの人影はキャンディだった。するとあの男性はステアかアーチーだったのか。
あんなに上背があっただろうか。・・二人以外にも親族はいるだろう。
けれど、それが何の気休めになる。孤児のキャンディには、そもそも親族などいないのだから。

「昨日は何も言ってなかったのに、ポニーの家で何かあったのかな・・」

フロントチーフが近くにいた年配の女性に話しかけていた。

俺は咄嗟に胸の名札をチェックした。

「ミスター・スチュワート。その女性に次に会ったら伝えてください。昨夜はお騒がせしましたと。そして―・・今度ぜひ、僕の芝居を観に来てくださいと」
「承知しました。ですが、私も彼女に会ったのは五年ぶりでして、次に会うのはいつになることか」
「五年後でも十年後でも構いません」

キャンディとはもう別れている。
会いに来て欲しいと言っているわけじゃない。呼び出そうとしているわけじゃない。
素直に、ただ、芝居を観て欲しいだけだ。
俺からキャンディに招待券を贈ることはない。スザナを裏切るような真似はできない。
キャンディも俺の芝居を観に来ることはないだろう。・・そういう奴だと分かっている。
けれど役者と観客として、舞台の上から一瞬目を合わせるぐらい――

・・ダメなのか?
キャンディ、君にとってはそれもダメなのか?
町で偶然すれ違うことも・・・

広いアメリカの大地で、あんな偶然は二度と起こらなかった。
だからこそ思う、どうしてあの夜は満月じゃなかったんだと。

このブロードウェーで演じるのもあと四十日。
イギリス、ロイヤル・シェークスピア劇団への移籍はもう決まった。
――願わくば、一度でいいから俺の芝居を観て欲しい。例え隣に愛する夫と子供がいたとしても。
「・・その時は、ボックス席を用意しなきゃな」
笑う口元には、そんな現実を受けとめる余裕など、本当は無いに等しいのに。

 

 

 

  1-10 ニアミス

 

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ワンポイントアドバイス

 

ロミジュリさんのイラストのタイトルは「未来に賭ける思い」です。

このイラストは、小説をアップした2021年5月には無く、ロミジュリさんが創作に復帰された2021年8月に、復帰第1作目としてこの回に合せてサプライズ的に描いてくださいました。

テリィの背中には部屋の灯り、眼差しの先は暗闇という、テリィの心の明暗を表しています。

 

 

レイモンド・ラガン

ニールの父の名前です。ファイナル下巻198にそのように紹介されています。

 

テリィが受賞した賞について

演劇界の最高栄誉であるトニー賞を意識して書いていますが、テリィの時代にはまだありませんでした。

その前身のような賞、と仮定しています。

選考方法や作品賞、演出賞、などの各賞も、実際のトニー賞を参考にしています。

 

 

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