藍色 | 恣意的なblog.

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僕は歩く。

sakana

関東で地震があった時、子供に覆いかぶさりながら、後で記事に書こうとしていたことをふいに思い出しました。また好きなアーティストの話しなので、軽く読み飛ばして下さい。

溯ること、3月11日、某アーティストのツアーとして、Zepp Tokyoに行ってきました。そうです、奇しくも三年前に東日本大震災のあった日でした。彼らは特別な日ととらえ、何かを残すのだろうか?ただ、原発の繊細な問題があり、個人的にアーティストがそれに関わること、発信することは極力控えて欲しいと思っているので、期待もあり不安もありという気持ちでした。根拠と思索、展望を示さないただの願望や心情だけを簡単に吐露するようなアーティストにはなって欲しくないのです。

「今日は3月11日です、僕らの中で「再生」という意味を込めた曲をやります」
コメントはこれだけ。そして最後に演奏してくれたのが、「目が明く藍色」という曲でした。

その時がきたら いつか いつか
君の声を聴かせてよ ずっと
君の声を聴かせてよ ずっと
君の声を きくいき をすって すって
君の声を聴かせて

亡き人が、曲の最後に迎えるこの叫びを聞いたらどう思うのだろう?そう考えると聞き入りながら悲しくなり、久しぶりにちょっとした涙がこぼれました。音楽で深い感情の変化を覚えたのは久しぶりです。ああ、人に影響を与えるというのはこういうことをいうんだな。今でも気を抜くと疼きだす想い。気持ちの高ぶりというのは裏を返せば、人の弱さに付け入る行為の結果ではないのだろうか?卑しくもそんな風に感じました。

当たり前だけど、表現というのはとても大切ですよね。このブログの場では言葉という形になり、それが僕や君の声になる。だから前にある方に、「キミの声を聞かせて」と言われ、少しでも影響を与えられていると実感できたのが、とても嬉しかったことを憶えています。内容はなんでもいいんですよね。思ったこと、吐き出したいこと、共感を求めること、願うこと、それを誰かに伝えたい気持ち。もしくは伝え方がわからなくたっていい、わからないという実際を表現すればいい。目的は単純なことなのかもしれません。それによって一つ物事を整理でき、次に進むための活力が生まれる。

話しは変わり、ノーマン・マクリーンの小説にあった、「文章に節度を持たせなさい」という言葉に深い感銘を受けたことがあります。文章を書くということは、言いたいこと全てを詰め込むのではなく、要点を纏め、必要最低限の文章にまで切り詰める倹約的な人間性を高める作業であり、無駄を省いた文章は品位のあるものになる、そう解釈しています。

うん、俺には無理だなあ。
だから、一郎さんのような才能に恵まれた方に触れると嫉妬しちゃうんですよね。一つの言葉に十の意味を持たせることができる、そういう才能を兼ね備えた方だと思うし、皆に倣ってはいけない、自分のスタイルで抗いなさい、そう諭されているようにも感じます。

書くという行為は、自分の考えを纏め記憶するのにとても便利であり、だから今でも心が澱んでしまわぬように足掻きながら、ここで声を出し続けているんだと思います。
「たまにはキミの声を聞かせて」か。

ずいぶん前の記事で書いたとおり

嫌いじゃないです、ありがとう。笑