『【未完】言葉と祈りと愛について 19』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。

 

【アダムとイヴの考察】

旧約聖書の『創世記』に登場する『アダムとイヴの物語』では、エデンの園には『生命の樹』『知恵の樹』があったとされています。
そして『主なる神』は「善悪の知識の実だけは食べてはならない」とアダムとイヴに禁じていたようです。

しかし『蛇』に騙されて『善悪の知識の木の実』を食べてしまったイヴは、『アダム』にも食べることを勧め、2人とも木の実を食べてしまいます。
その結果、2人はエデンの園から追放されたことになっています。

有名な物語のため、人生で一度ぐらいは耳にしたことがあるのではないかと思います。

ちなみに『イヴ(エヴァ)』と名付けられたのは、木の実を食べた後のことのようです。

アダムから『イヴ』という名前を名付けられるまでは、物語上では『女』という表現になっています。

おそらくですが多くの人は「アダムとイヴという男女の人間が、蛇に騙されて善悪の知識の木の実を食べてしまい、エデンの園を追放された物語」と思っているのではないかと思います。

ただし、物語に『登場する存在』に対して、『解釈』を変えますと、とても重要なことを伝えている内容になります。

あくまでも僕の解釈になりますが、アダムとは『人』でありながら、「肉体を持った人間ではない」と思います。


表現を変えるならば、人間の肉体の内側にいる『内なる神(内在神)』だと思います。
そのため、『霊魂』や『霊体』のような状態だと思います。

アダムの『パートナー』となるイヴが『人間の肉体』の側です。

物語に登場する『女(イヴ)』の存在は、エデンの園で『アダムの妻』として作られたとされています。
神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と決意して、イヴを創造したようです。

「神はアダムを深く眠らせ、アダムは眠った。神は彼の肋骨を1本取り、そこを肉で塞いだ。そして神はアダムから取った肋骨で女性を作り、彼女をアダムの元に遣わせた」

この一文が『イヴの創造』になるようですが、注目するべき部分は「彼の肋骨を1本取り、そこを肉で塞いだ」という内容です。

人間の『肋骨』の役割は、心臓や、胸部を守るための骨です。
そして「肉で塞いだ」ということは、「肋骨を肉体で覆った」ことになります。

それはどういう意味かといいますと、『アダム(人の魂)』に、『人間の肉体(イヴ)』を与えたということになります。
つまり「肋骨で守られた肉体の内側にアダムが存在している」という意味になるわけです。

つまり『アダム(内在神)』と『イヴ(人間の肉体)』は、『一体』の状態になっているということです。

もしかしたら『男性性』と『女性性』を「人間は内在している」という意味もあるのかもしれませんが、「アダムの魂を内在したイヴという人間がいるだけ」です。

そのため『アダムという男性の人間』と、『イヴという女性の人間』が別々に存在していたわけでありません。

人間の視点では『夫婦』とは『人間同士の男女のペア』というイメージだと思いますが、『霊魂(主体)』と『肉体(従者)』の関係で考えますと、物語で伝えている内容が全く変わります。

この点が多くの人が勘違いする『盲点』だと思います。

「なぜアダムとイヴの物語に霊魂の繋がりを登場させるのか?」と僕の解釈に疑問に持たれるかもしれません。

ちなみにキリスト教では『三位一体』のことを教えているようです。
三位一体には様々な説があるようですが、キリスト教では『父』、『子』、『霊(聖霊)』の三つが『一体』の関係と伝えていると思います。

つまり「三位一体の関係を伝えているのに、アダムとイヴの物語に関しては霊は一切無関係なのか?」と疑問に持たない方が、むしろ僕は疑問です。
ですから、僕が霊魂の話を突然持ち出したのではなく、物語を読み解く際には「霊との繋がりにも注目するべき」だと思うのです。

神は「彼に合う助ける者を造ろう」と『女(イヴ)の創造』を決意したようですが、『アダム』は『物質的な人間の肉体』を持っていなかったからこそ、『物質としての人間の肉体』の『イヴ』を用意したのだと思います。

ちなみに「アダムから肋骨を1本取ったのであれば、アダムは肉体を持っていたのでは?」と思うかもしれません。
その問題に関しては「神はアダムを深く眠らせ、アダムは眠った」の部分にヒントあります。

「アダムは眠った」ということは、意識が眠っているわけですから『精神の世界(霊的な世界)』という意味になると思います。
もしくは『想念』での出来事だと思います。

『想念』が現象化したのが『現象世界(物質世界)』であり、物質的に存在する『地球』です。

そのため、地球の地上で活動する『アダムの役割』を助けるための存在として、『人間の肉体(イヴ)』が与えられたのだと思います。
なぜならば「アダムだけであれば、物質的な肉体が無い状態のため、地上で活動できない」からです。

そのように考えますと、全ての人間は『イヴ』の存在であり、全ての人間は『アダム』を内在しているのだと思います。

僕はアダムを内在している『イヴ』であり、人間として地球上で活動しています。
あなたもアダムを内在している『イヴ』であり、人間として地球上で活動しています。

ですから、創世記は太古の昔話ではなく、『現代の人間』まで続くメッセージです。
つまり『他人事』の物語ではなく、地球上で活動する『全ての人(自分自身)』に該当する物語だと思います。

ちなみにアダムとイヴの物語の中には『蛇』が登場します。
蛇は『悪魔』という説もありますが、おそらく人間が持っている『欲望』の意味になるのではないかと思います。

つまり『人間(イヴ)』は欲望に誘われて、食べてはいけない『善悪の知識の実』に手を出してしまったのだと思います。
そしてアダムはイヴと『一体』になっていますので、強制的に『連帯責任』のような状態で、エデンの園を追放されることになったのだと思います。

問題はエデンの園にあった『生命の樹』と『知恵の樹』の存在です。

『生命の樹』とは、生命であり、永続的な繁栄の意味になると思いますので『愛』のことだと思います。

『知恵の樹』には『善悪の知識の実』があるようですから、『善悪の判断』であり、『知識』のことだと思います。

「なぜ神は善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令したのか?」ですが、人間は知識を得ることで、『思考の判断』で様々な選択をするようになる性質を持っています。

 

人間は「善か?悪か?」という『善悪二元論』で判断していることが多いと思います。

しかし「善と悪」は立場や状況によって、簡単に性質が変化する不確かな状態です。

 

たとえば『正義のヒーロー』と『悪の組織』の対立の場合ですが、悪の組織の側にしてみれば、『正義のヒーローと名乗る悪』と戦うような状態です。

つまり、『視点』を変えれば、善と悪は表裏一体の状態であり、「善は悪となり、悪は善となる」わけです。

 

さらに『知識』で善悪などの判断をするようになった場合、人間は『思考』や『知識』を優先にした判断になっていく可能性が高いです。

その結果、自分の内側に存在する『心』や『愛』の判断ではなく、『思考』の判断を重視するようになります。
そして心や愛を大切にしなくなり、「心や愛から離れがちになる」かもしれません。

つまり「愛を基準にした判断ではなく、人間独自の判断になる」ということです。

だからこそ『善悪の知識の実』を食べた人間は、『エデンの園』から追放されてしまったのだと思います。

ちなみにエデンの園とは『愛の世界』のことだと思います。
また、エデンの園の表現を変えますと『地上天国』『神の王国』になると思いますが、僕は『愛の王国』と呼んでいます。

「それではどうやったら人間はエデンの園に戻れるのか?」ですが、人間は『知識』を優先するのではなく、愛を大切にして「愛の存在に戻りましょう」ということです。

ちなみに『人』と『人間』の違いは何かとなりますと、人になるまでの間があるからこそ『人間』だと僕は思っています。

『人間』として一体になっている『アダム(内在神)』と『イブ(人間の肉体)』の状態から、アダムを『主体』として地球上で活動するようになった時に『愛の子供(神の子供)』として、人間は地球上で活動する『人(アダム)』になれるのではないかと思います。

しかし『蛇(欲望)』を重視した状態のままであれば、『人間』はもはや人間ではなく『地上の獣』と化していくはずです。
そして残念ながら地上には『人間』という名の獣が増え続けているため、もはや地上は『獣の王国』になっています。

「人間は獣ではない」という意見もあると思いますし、当然ですが全ての人間が獣ではありません。

しかしながら「人間社会は競争社会となっており、弱肉強食の状態になっている」ということに対して、強く否定ができない状態になっているのも事実ではないかと思います。
そのため「人間の姿をした獣だらけ」だと僕は感じます。

創世記を含め、様々な神話や、様々な伝説、そして様々な宗教や信仰が『神の存在』を伝えています。
「神への信仰を大切にしましょう」という状態ですが、本来であれば『神の存在』の宣伝が目的ではなく、『人類への警告』が目的だと思います。
だからこそ太古から世界各地で伝承されているのだと思いますが、「神を信仰しないと、終末の時に人間は罰を与えられる」という間違った認識の人が多いかもしれません。

そのため『どこかにいる神様』を大切にして、罰を与えられないように信仰している人が多い気がします。
しかし神は人間に罰など与えません。
人間は自分自身で、愛から離れ、エデンの園から立ち去っていくだけです。

おそらく太古の人は「人間は愛から離れると、愛のない世界に進むことになるので、愛から離れずに、愛に従いなさい」ということを伝えたかったのだと思います。

【イザナギとイザナミの考察】

日本神話に登場する夫婦神に『イザナギ(伊邪那岐・伊弉諾・伊耶那岐)』と、『イザナミ(伊邪那美、伊弉冉、伊耶那美、伊弉弥)』がいます。
神話上ではイザナギとイザナミの夫婦神が『日本の国土』を作ったとされています。

『国産み(国生み)』になるわけですが、日本の国土創世譚となる物語のため『国産み神話』とも呼ばれています。
国産みの話の後には『神産み(神生み)』の物語が続きます。

つまり日本神話における『国産みの物語』です。
「あくまでも物語」として楽しむのであれば面白いかもしれませんが、僕は全く信じていません。

『日本の歴史的な文献』としては重要な存在だと思いますが、そもそも本当にあった出来事ではなく「天地開闢からの流れを、日本をメインにした物語として表現しているだけ」だと思います。

僕は神社を巡っていることもあり『物語の内容』は少なからず知っていますが、むしろ「この内容を本気で信じている人がいるのだろうか?」という疑問しかありません。

たとえば、内容を一部要約しますが「二神(イザナギ・イザナミ)は男女として交わることになる。イザナギは左回りにイザナミは右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った」という部分があります。

物語を本気で信じている人は、イザナギが左回り、イザナミは右回りで天の御柱の周囲を巡り、二人が出会った感動の場面と思うかもしれません。
しかし、二人は天の御柱の周囲を歩いて巡ることで出会ったなどの『恋愛的な出会い』をイメージをしたのであれば大きな勘違いです。

恋愛の物語ではなく『左回転の螺旋(内側・精神世界)』の性質と、『右回転の螺旋(外側・物質世界)』の性質の繋がりのことを伝えているわけです。
 

ちなみに兵庫県の淡路島には伝説上の『天の御柱』と伝えられている場所がありますが、あくまでも『観光名所』だと思います。

そもそも人間の存在こそ、『天』と『地』を繋ぐ『柱』の役割です。

物語の中では「女性であるイザナミのほうから誘ったため、正しい交わりでなかった。そのためまともな子供が生まれなかった」という部分があります。

物語を本気で信じている人は「女性から男性を誘うのは正しい交わりではないため、まともな子供が生まれない」と思うかもしれません。
しかし「女性から男性を誘うのは正しい行いではない」などの『誘惑』をイメージしたのであれば大きな勘違いです。

誘惑が問題ではなく、『創造』の仕組みは『想念』が必ず先であり、想念が『現象化』します。
つまり、想念から先に創造しないと「純粋な状態では生まれない(現象化できない)」ということです。

イザナミの持つ性質は『右回転の螺旋(外側・物質世界)』です。
『人間』で例えますと、『脳(思考)』であり、『肉体側の欲望』が優先されます。
そのため、『物質世界(イザナミ)』の側から『創造』しようとした場合、『人間の欲望』からの創造になりがちだと思います。

だからこそ「内なる愛からの創造はできない(まともな子供が生まれない)」という意味になるのだと思います。

そして『神産みの物語』での出来事ですが、イザナミは『火の神(カグツチ)』を産んだ際に火傷を負って亡くなり、『黄泉国』に行ったとされています。
亡くなったイザナミへ会いに、イザナギは黄泉国に向かいましたが、身体が腐乱してしまっているイザナミの姿を見て、逃げ帰ってきたとされています。

注目するべき点はイザナミは『火の神(カグツチ)』を産んだことが原因で亡くなったとされていますが『神』とは『火水(カミ)』とも表現します。
 

つまり『火の性質』と『水の性質』が一体となって『神(火水)』になるわけですが、亡くなった原因は『火』です。
ちなみに『水の性質』に関しては、僕の経験上の判断になりますが『霊的な性質』を伝えている場合が多いと感じます。

そして火傷を負って亡くなったということは、『肉体』があったからこそだと思います。

名前に注目しますと『イザナギ(イザナキ)』、『イザナミ』の名前は、おそらく『いざなふ(いざなう)』という意味があるのではないかと思います。
『いざなふ』は古語になりますが、「誘う」や「導く」という意味があるようです。

「いざなふは、古語だとしても現代の日本語にすぎない」と思うかも知れませんし、その問題は否定できません。

なぜならば太古の時代に、古語を含めて現代のような『日本語』は存在しないからです。

たとえば『神日本磐余彦天皇』、『彦火火出見』、『狭野尊』、『神日本磐余彦火火出見尊』、『磐余彦火々出見尊』というのは『特定の人物』の別名とされていますが、他にも『別名』がいくつか存在しているようです。

「特定の人物とは誰のことなのか?」ですが、名前をわかりやすく伝えるならば初代天皇とされている『神武天皇』のことです。
「そもそも神武天皇が実在していた人物なのかは怪しい」という説も多いようですが、神武天皇の名前だけでも「数種類存在する」わけです。

そのため、『イザナギ』と『イザナミ』というシンプルな名前では無かったと思いますし、『国産み』や『神産み』の時代であれば、神武天皇の時代よりさらに太古の時代になります。
太古には『文字』を含めて『言語』すら存在していたのか怪しいため、歴史的な文献など残されていないはずですし、『明確な名前』が現代まで伝承させることは「まずありえない」と思います。
さらに「イザナギとイザナミが実在していた可能性は神武天皇より低い」と思います。

ただし、『チャネリング』などにより、霊的な存在の『神武天皇』、『イザナギ』、『イザナミ』には繋がることが可能だと思います。
そのため『霊的な存在』としては、神武天皇、イザナギ、イザナミに『該当する存在』が存在すると思います。
だからこそスピリチュアル系などには「イザナギやイザナミとチャネリングで交流している人が実際にいる」わけです。

しかし、おそらくですが「太古の地球上にイザナギやイザナミが人物のような状態で実在していたわけではない」と思います。

ちなみに日本の神々の名前は『神名』と呼ばれます。

いつの時代かはわかりませんが、日本人であり、人間が『様々な神の性質』に合わせて神名を用意しているはずです。
つまり、後の時代になって、人間がそれぞれの神名を用意しただけであり、人間が独自で『設定』したような状態だと思います。

そのため神名の『名前の響き』、『漢字の音』もしくは『漢語(和製漢語)』に必ず何らかの『意味』が秘められていると思います。

ちなみに『言霊』だと日本語の48音は、1音それぞれが神名とされています。
偶然かもしれませんが『48音』で『ヨハネ』と読めるのも興味深いです。

また、あくまでも一説ですが『仮名』とは『神名』のことであり、『カタカナ(象神名)』にも繋がっているという説もあるようです。
『カタカムナ』などの知識に詳しい人もいると思いますが、僕は詳しくないので『言霊』の話はここまでにしておきます。

とりあえず『神名』に関しては『昔』も『現代』も、言霊などの部分で繋がっていると思いますので名前に注目します。

『いざなふ』という性質を考慮して読み解くと『いざな気(イザナギ)』と『いざな身(イザナミ)』になると思います。
つまり『気(魂)』と『身(肉体)』で『一体』ということです。

夫婦神ですから、『夫の存在』と『妻の存在』として、「人間は2人いる」と勘違いしてしまいそうです。

しかし『アダムとイヴの関係』と同じであり、「イザナギの魂を内在したイザナミという人間がいる」ということになるのだと思います。

だからこそ人間の肉体を持ったイザナミ様には『肉体の死』が存在し、亡くなった後は腐乱していくのだと思います。

問題は、イザナギがイザナミがいる『黄泉国』に向かったという点です。
『黄泉国』とは「あの世(霊界)」のイメージだと思いますので、おそらく一般的には「イザナギはイザナミを連れ戻しに霊界に向かった」と信じているのではないかと思います。

『言葉』をそのまま解釈すれば、『黄泉国』は霊界かもしれません。
しかし『精神』が現象化したのが『現象界(物質世界・現実世界)』です。

イザナギが『気』の性質であれば、『精神』であり『精神世界』の存在です。
イザナミが『身(肉体)』の性質であれば、『現象』であり『現象世界(物質世界)』の存在です。

つまりイザナミが存在する『黄泉国』こそ、「この世(現実世界)」であり、人間が活動する地球上のことを伝えていると思います。

そしてイナザミは亡くなった後で腐乱してしまったようですが、イザナギと『分離』したからこそであり、「愛(生命)から離れた」という意味になるのではないかと思います。

おそらくですが『アダムとイヴ』の物語と、『イザナギとイザナミ』の物語は、登場人物などの設定や、内容は違っても「似たようなことを伝えている」のだと思います。
だからこそ、2つの物語は『創世記』という重要な部分として神話に残されているのだと思います。

ですから、『世界各地の神話』を読み解いていくと、何らかの『基本となる物語』が存在している可能性が高く、基本となる物語が各地でアレンジされた状態が『世界各地の神話』になっているのではないかと思います。

余談ですが「太古の時代に、ニビルと呼ばれる太陽系に属する惑星から来た種族のアヌンナキが、人類を遺伝学的に設計した」というような話もあります。

つまり「宇宙の関与が地球にあった」という説ですが、シュメール神話に関係があるようですし、もしかしたら『基本となる物語』に関係しているかもしれません。
なぜならば太古に存在していたとされる『シュメール』は、世界各地に大きな影響を及ぼしている可能性があるからです。
もし『アヌンナキ』や『ニビル』の存在に興味があれば『ゼカリア・シッチン』の書いた書物を読んでみると、何か参考になるかもしれません。
ただし、「ゼカリア・シッチンの解釈が正しい」という保証は一切ありませんので、あくまでもひとつの参考文献です。

ちなみに日本神話の場合であれば全ての人間は『スサノオ』の存在であり、全ての人間は『アマテラス』を内在しているのだと思います。

アマテラスは『岩戸隠れ』をしていたことで有名ですが、『世を照らす光』が人間の『内側』に隠れているという意味が、日本神話に登場する『岩戸隠れの物語』だと思います。

僕はアマテラスを内在している『スサノオ』であり、人間として地球上で活動しています。
あなたもアマテラスを内在している『スサノオ』であり、人間として地球上で活動しています。

そのため「隠れてしまったアマテラスはいつ世に姿を現すのか?」という状態は、自分自身の『内側』に意識を向けて、自分自身の内側にある『光の存在』に気づくことが大切です。
むしろ自分の『外側』を探し続ける限り、アマテラスは『岩戸(自分自身の内面)』に隠れたままとなってしまいます。

また、暴れ者で有名だったスサノオは『クシナダヒメ』と出会い、『愛』を知ることで改心して、世のために活動するようになったとされています。

『人間』も同じであり、愛を知らないままであれば暴れ者として活動するかも知れません。
しかし愛を知り、改心することで、愛を大切にして地球上で活動できる『人』になれるのではないかと思います。

あくまでも僕の解釈からの考察になってしまいますが、世界各地に残る様々な神話は「自分自身へのメッセージ」として考えてみると、何か大切なことに気づけるのではないかと思います。

また、『全ての人に該当するメッセージ』だからこそ、未来まで語り継がれて伝承できるように『神話としての物語』にされているのではないかと思います。

『【未完】言葉と祈りと愛について 21』につづきます。