『【未完】言葉と祈りと愛について 18』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。
 

【神の姿の考察】

重要な問題ですが『神』という言葉は、人間が作った『言葉』にすぎず、あくまでも『呼び名』にすぎません。
そのため『神と呼ばれる存在』には『正式な名前』は存在しないと思います。

そして『神』という存在は、人間が持つイメージでは「絶対的な存在」や「凄い存在」などに感じる傾向が高いと思います。
そもそも『謎の存在』ですが、「驚異的なパワーを持っている」と昔から伝え続けられているような状態ですから、イメージだけが巨大化しているかもしれません。

むしろ『正体不明の謎の存在』だからこそ、その人それぞれで様々なイメージを持っていると思います。

たとえば『幽霊』という存在の場合ですが、霊視ができる人にしてみれば「霊の姿が見える」程度で、あまり驚かないかもしれません。
しかし霊視ができない人にしてみれば、姿が見えない霊の存在は『恐怖の対象』に感じる可能性が高いです。

おそらく人間が持っている性質として「正体がわからない存在ほど恐怖を感じる」のではないかと思います。
また、大勢の人が「逆らってはいけない存在」などと伝えれば伝えるほど、『畏怖するべき存在』として崇めるようになるのではないかと思います。

そして「どこかに神と呼ばれる存在がいる」と考えた場合、もしかしたら『人間のような姿の存在』をイメージするかもしれません。

海外では『彫刻』などで神話に登場する神の姿が表現されていますが、基本的には『人間』や『動物』の姿の像だと思います。
日本の場合だと『人間の姿の仏像』として仏様が表現されています。

さらに『絵画』や『イラスト』などで描かる神の姿は、基本的に『擬人化』されている場合が多いため、「神は人間の姿をしている」というイメージが強い気がします。

ちなみに「神は自分の姿に似せて人間を作った」という説が有名かもしれませんが、おそらく情報の元になっているのは旧約聖書『創世記』だと思います。

創世記の中では、神が語った言葉として「我々のかたちに、我々にかたどって人をつくり……」という一文があるようです。

つまり「我々」と呼称している存在が『神』であるならば、「神は自分たちのかたちに似せて、人間を作った」ということになります。
だからこそ「神は自分の姿に似せて人間を作った」という説が有名になっているようです。

問題は「我々のかたち」という部分ですが、『人間の肉体の姿』とイメージした時点で、すでに『大きな勘違い』を起こしているのかもしれません。

人間の視点では『自分の姿』とは、「肉体を持って活動している人間の姿のこと」と思う可能性が高いです。
なぜならば、自分自身が『肉体を所持して活動している人間』ですから、「他の姿の人間など考えられないし、存在しない」と信じているからです。

しかし、『肉体』はあくまでも地球上で活動するために与えられた『物質的な存在』にすぎません。

人間は『自分自身の本質』を『現象界』に表現するために『肉体』を与えられているような状態になっており、人間の本体は『意識体』であり、『魂(霊魂)』だと思います。

ちなみに『魂(霊魂)』については、「僕も死んでみないと実際にどのような状態なのかは全くわからないですし、確かめようがない」という状態のため、詳しくは説明できません。
ただし、あくまでも僕の感覚ですが、胸の内側から『光を放つ存在』を感じます。
そのため、おそらくですが人間の本体は『光の存在』もしくは『光のような存在』だと思っています。

あくまでも僕の感覚での判断のため、人間はどのような『仕組み』、もしくは『状態』になっているのかは僕もわかりません。
しかし人間での活動中は、「人間として自分の人生を大切にして、地球上で活動することが最も大切」だと思います。

また、個人的な興味として『霊の存在』や『魂』について探るのは面白いかもしれませんが、「あまり意味がない」のも事実です。

僕自身、人間の生や死について興味があり、様々なことを探っていましたが、残念ながら「人間にはわからないことだらけ」です。

たとえば科学が進歩しても、人間は世界の『ごく一部』に触れる程度にすぎません。
また、自分の人生をかけて『ひとつの分野』を必死に極めようとしても、『寿命』によって必ず時間切れになってしまいます。


ですから、人間として生きている間は、人間としての活動を重視して、一度限りの『自分の人生』を最も大切にするべきだと思います。

話を戻しますが、「我々のかたち」とは、『人間の肉体の姿』ではなく、『神の性質』であり『神の本質』の部分のことを伝えているのではないかと思います。

「それでは神の性質であり、神の本質とは何か?」ですが、『愛』だと思います。
もし『光の存在』として考えるならば、神の本質は『愛の光』だと思います。

そして『愛』は世界の『全て』です。
世界の全てですから、人間の視点としては『空間』を含めて『宇宙全体』が愛そのものです。

ですから「我々」というのは『愛の存在そのもの』であり、「人間も愛の存在として作られた」のだと思います。
だからこそ人間は神の『子供』であり、神の『一部』であり、神の本質の『力』を持っているのだと思います。

ちなみに『力』とは、暴力的な力ではありません。
成長、繁栄、そして創造から新しい生命を産み出すことできる『愛』の力です。

そして『神』を『愛』として考えるならば、人間は『愛』の子供であり、『愛』の一部であり、本質として『愛』を持っていることになります。
つまり『神(愛)の存在』と同じく、人間も『愛の存在』ということです。

そのように考えますと「神は自分の姿に似せて人間を作った」という意味は、「愛は愛の存在を作った」ということとなり、「全ては愛」ということです。

ちなみに新約聖書では『アルファオメガ』という言葉が登場するようです。
そして新約聖書の『ヨハネの黙示録』には「私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。私は、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」という一文があるようです。

『最初(アルファ)』であり『最後(オメガ)』ということは『全て』という意味になると思います。
そして渇く者には無償で『いのちの水』を分け与えてくれるということですが、「求める者には生命となる愛を無償で与え続けてくれる」という意味になると思います。

つまり、「私は愛であり、愛を求めるものには、生命となる愛を与え続ける」ということを伝えているのが『アルファオメガ』という存在であり、「神は愛そのもの」という意味になるはずです。

ただし、そもそもの話ですが、旧約聖書や、新約聖書に書かれている内容が「嘘やデタラメではない」ということが『大前提』です。

なぜならば、人間が勝手に創作した内容であれば、『信憑性のある情報』として参考にできなくなるからです。
実際のところ、キリスト教に関しては聖書の一部が改ざんされている可能性もあると思いますし、『宗派』によって、文面の言葉の違いや、翻訳の違いがあるかもしれません。

また、僕自身はキリスト教の信者ではありませんので、あくまでも「聖書の言葉を引用しているだけ」にすぎません。
そのためキリスト教の熱心な信者の人からは「違う」と指摘されることもあるかもしれません。

しかし、僕は聖書研究には興味がありませんし、キリスト教の信者と『キリスト教の信仰』について討論する気は全くありません。

そもそも、信仰に対する『価値観』と『概念』が違いますので、会話にならないと思います。


ですから、「キリスト教のことを何も知らない素人が、自分勝手に戯れ言を伝えている」程度に思っていただければと思います。

ちなみにキリスト教は『神の愛』を物語として伝えている宗教だと僕は思っています。
 

そのため『神』について考察する際にとても参考になっています。
また、キリスト教は世界最大規模の宗教ですし、『アルファオメガ』という表現を含め、『神の姿』について考察する際にとても参考になっています。

【様々な信仰形態】

宗教には信仰する神の違いがあります。
基本的には『一神教』『多神教』『自然崇拝』『アニミズム(精霊信仰など)』『祖先崇拝(祖霊信仰)』のどれかに該当すると思います。

一部には『開祖(教祖)』を信仰する宗教も存在しますが、『特定の個人』を崇拝するような信仰は「問題外」ですから除外します。

ちなみに「開祖を神の存在として崇める」ような状態になれば問題ですが、開祖に対して『感謝』をすることに関しては問題ありません。
なぜならば『教え』となる教義を伝えてくれた存在は、『指導者』や『教師』の存在だからです。
ただし、『信仰の対象』にしてしまいますと、「開祖が持っている能力によって私のことを救ってくれる」などの歪んだ信仰になりますので、注意が必要だと思います。

僕は日本生まれの日本人ですが、日本に関しては『無神論者』の人が多いかもしれません。
お葬式などの際には一時的に『仏教』のお世話になることがあるかもしれませんが、それ以外では『無宗教』という人が大半だと思います。

そもそも僕自身が『無神論』のような状態でしたが、考えようによっては無神論という状態は『無神論という宗教』の信仰者なのかもしれません。
なぜならば「私は神の存在など信じません」と信じているわけですし、日本の人間社会では「宗教の活動している人とは関わらない方がよい」という風潮が強いと感じます。

つまり「無神論で無宗教が好ましい」というような洗脳になっているわけですから、ある意味「宗教の存在を否定する宗教」なのかもしれません。

ちなみに『スピリチュアル』に関しても、ひとつの宗教のような状態だと思います。

スピリチュアル業界で活動しているとあまり気にならないかもしれませんが、世間的には「怪しい活動」と思われたり、「変な宗教にハマっている人」という認識だと思います。
そのため「スピリチュアルは宗教などとは全く違う」と伝えたとしても、基本的に理解してもらえないと思います。

そもそも昔の僕は「スピリチュアルが苦手」でした。
一番の原因は、ある時期にスピリチュアルブームのような状態となり、友人たちの多くが「スピリチュアル」と突然言い出したからです。


また、性格的に流行に乗ることが苦手ですし、「スピリチュアルではなく、日本語で魂や霊と言えばいいのに」と思っていたからです。
特に当時の僕は『ハイヤーセルフ』や『ガーディアンスピリット』などの独特の表現に嫌悪感を感じていました。

ただし、『守護霊』や『魂』などの古典的な表現は「不気味」や「重苦しい」と感じるかもしれません。
だからこそ『スピリチュアル』というライトな表現にしたことで、イメージ的に受け入れやすくなったのだと思います。

スピリチュアルに嫌悪感を感じていた頃の僕は、精神世界系を独学で学びながらも、あえてスピリチュアル系には触れないようにしていた時期が長かったです。

ただし、知識を深めているうちに、精神世界系で伝えているよう内容と、スピリチュアルで伝えている内容は『言葉の表現』は多少違っても結局同じようなことを伝えていることを知りました。
つまり「基本的には一緒」と思ったからこそ現在は『スピリチュアル』という分野で活動しているわけですが、「人間社会ではスピリチュアル系に嫌悪感を感じる人が多い」ということも自覚しています。

そもそも現在のスピリチュアル業界は『商売重視』になっており、『特殊能力の開発』や『願望実現』などを重視している傾向が強いため、「本来のスピリチュアルとは方向性が狂っている」と思います。
ですから『スピリチュアル』という表現に関しては、現在もあまり好ましく思っていないのが正直なところです。

話を戻します。

日本国内には『世界各地の様々な宗教団体』が存在していますが、「信仰する宗教は個人の自由」という状態になっています。
そのため「様々な宗教が存在しながらも、無宗教の人が多い」というかなり特殊な状態かもしれません。

ちなみに無宗教だとしても、日本人に特に関わりが深いのは『神道』だと思います。
お正月の初詣、七五三、結婚式などの行事を含め、『氏神』『産土神』など、様々な場面でお世話になっているはずです。

 

また、地元の祭りなどは、『神社の祭事』としての祭りが多いと思います。
子供にしてみれば『様々な屋台が集まるイベント』として足を運ぶことが多いと思います。

 

僕は神社が苦手でしたが、屋台が集まる祭りの時だけは喜んで神社に足を運んでいました。

振り返ってみますと、祭りのイベントのおかげで、氏神神社と産土神社には子供時代に何度も足を運んでいたようです。


【多神教】

『多神教』は神の存在が『一神』ではなく、多数存在し、多数の神を信仰する宗教です。

日本国内では『神道』が有名だと思いますが、『八百万の神』が存在するように、無数の神様が存在しているため『多神教』の状態となっています。

日本国内には無数の神社が存在しています。
そのため「それぞれの神社に様々な神様が祭られており、日本人は様々な神社に参拝している」という状態は、『一神教』の人から見ればかなり異常な状態に感じるかもしれません。

また、『ギリシア神話』『インド神話』『密教』などには、人格化された様々な『神(仏)』が存在しているため『多神教』の状態だと思います。

ちなみに一部には『善の神(光の側)』と『悪の神(闇の側)』の対立となる『善悪二元論』の宗教もあります。

有名なのが『ゾロアスター教』ですが、最低でも二種類の神が存在するため『多神教』になると思います。

【一神教(唯一神)】

『一神教』は、「神は唯一の存在」として信仰されている宗教です。
一神教で特に有名なのは『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』だと思います。

一神教ですから「唯一神以外に神は存在しない」と信じられており、唯一神以外の存在は神として認められません。

ですから『一神教』の信者にしてみれば、神道を含めた『多神教』は理解不能な信仰であり、基本的に『邪教』として扱われると思います。

【自然崇拝(自然の存在を神格化)】

『自然崇拝』に関しては、自然を神格化して信仰することですが、特に有名なのは『太陽』を神格化した太陽崇拝かもしれません。

ちなみに僕が日本各地の龍神探しをしていた頃のことですが、龍神様に関する『某宗教団体』と偶然ご縁がありました。
神社を巡っている時でしたが、参道で道を尋ねられたことが出会いのきっかけです。

僕は某宗教団体の信者にはなっていませんが、「御祭神は龍神様」と教えられたため、龍神様に参拝するために団体の本部に顔を出したことがあります。

その団体では龍神様を信仰しながらも、『太陽崇拝』の活動を伝えていました。

そして僕が団体の信者の人から教えられたのは「あなたも今日から太陽を毎日拝みなさい」ということでした。
ただし、僕としては御祭神の龍神様に興味があっただけですし、「太陽を毎日拝んでいたら目を悪くするだけ」としか思わなかったため、何もしていません。
また、団体の活動に違和感を感じたので、それ以来全く足を運んでいない状態です。

しかし太陽崇拝に関しては「一理ある」と感じています。
なぜならば太陽の存在のおかげで、様々な存在が成長して、繁栄することができます。

たとえば植物を育てた経験のある人は『太陽の光』の重要性を知っていると思います。
太陽の光のおかげで植物は健康に育ちますし、植物以外の様々な生物も太陽に助けられています。

つまり『太陽の存在』は生命に成長と繁栄をもたらす存在であり、様々な影響を無償で与え続けてくれています。
そのように考えますと太陽は『愛』の存在であり、様々な恵みをもたらす『神』のような存在だからこそ、人間は太陽を『神格化』するようになったのだと思います。
また、手の届かない空に浮かび続け、常に眩しい輝きを放つ太陽の存在に、人間は『神の存在』を感じたのかもしれません。

現在は太陽崇拝をしている宗教は少ないかもしれませんが、おそらく太古では世界各地で『太陽信仰』をしていた可能性が高いのではないかと思います。

ちなみに太陽以外にも『星』を神格化することなどもあると思います。
たとえば『北極星』を神格化して信仰しているのが『妙見信仰』になりますが、日本各地に存在しています。

【アニムズム(精霊信仰など)】

『アニミズム』に関しては、生物、無機物に関係なく、全ての物の中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。
ちなみにアニムズムのことを日本語では『汎霊説』、『精霊信仰』、『地霊信仰』などと訳されているようです。

神道には『八百万の神』が存在しますが、『八百万』という数の神がいるというよりも、「様々な存在に神が宿っている」というアニミズムの精神を伝えているのだと思います。

そもそも日本という国は、本来であれば『物(物質)』を大切に扱ったり、「様々な存在に対して感謝の気持ちを大切にする」という精神が自然と根づいている国だと思います。
だからこそ『特別な存在』を崇拝することがないかわりに、自然界を含めた様々な存在に感謝の気持ちを忘れないのだと思います。

【祖先崇拝(祖霊信仰)】

『祖先崇拝(祖霊信仰)』は先祖の霊を大切にする信仰ですが、現在の日本の場合、仏教との絡みで自然と祖先崇拝をしていると思います。
たとえばお盆の時期はお墓参りに足を運んだり、仏壇にお参りするなどがありますが、ご先祖様に対する感謝の気持ちを大切にしているはずです。

ちなみに『仏教』そのものには『祖先崇拝(祖霊信仰)』の要素は無かったと思います。
日本に仏教が伝来してから、日本人に受け継がれていた『祖先崇拝(祖霊信仰)』と『仏教』が融合されて、現在の日本人が信仰している『仏教の状態』になったのだと思います。

また、おそらくですが、日本の場合は自然に体する自然崇拝が元となり、後に先祖の霊に感謝する祖霊崇拝に変化したのではないかと思います。

そもそも現在の『神道』と『仏教』は、日本民族に受け継がれていたアニミズム、自然崇拝、祖霊崇拝などの様々な要素を融合させたような状態です。

ちなみに神道の『起源』は明確にはわかっていないようです。
そのため、アニミズム、自然崇拝、祖霊崇拝が『原型』となり、そこから発生した『思想体系』が神道の起源になっている可能性が高いと思います。

ですから日本という国は、無神論や、無宗教の人が多いかもしれませんが、あえて宗教の信者にならなくても「アニミズムや自然崇拝、そして祖先崇拝を信仰の基本にしている」と思います。
そのため日本人であり、日本民族は「全ての存在に神が宿っている」ということを、無意識かも知れませんが「何となく感覚的にわかっている」という状態ではないかと思います。

【統合された神と分離された神】

僕は『多神教』、『一神教』、『自然崇拝』、『アニミズム』、『祖先崇拝』など様々な信仰は「全て同じ神を信仰している」と思っています。

ちなみに現代において、おそらく一番減ってきているのは『アニミズム』の信仰ではないかと思います。
なぜならば「アニミズムは全ての存在が対象だからこそ、むしろ対象が不明であり、神の存在が一番明確な状態ではない」からです。

しかし、「人類の信仰はおそらくアニミズムが一番最初だった」のではないかと思います。

つまり人類の信仰は『アニミズム』のような状態から始まり、そこから様々な信仰が増えて、現在は『宗教』という信仰形態がメインになったのではないかと思います。

「それでは信仰形態の何が変化したのか?」ですが、『感覚』ではなく『人間の思考』が重視されるようになっていったのだと思います。

たとえば「神は全てなので、全てに感謝しましょう」となれば、開祖も不要ですし、教えや教義も不要です。
むしろ『宗教』にする必要もないわけです。

しかし教義にする場合、『信仰の対象』がないと説明が困難だと思いますし、多くの人に理解してもらえない可能性が高いです。

また、『時代背景』などもあったと思います。

たとえば『争い』や『奪い合い』が盛んな時代に「全ての存在が神」とどれだけ伝えても、説得力がありません。
そもそも『愛』では相手を倒すことができませんし、『武力』で襲われた場合に「愛は無力」です。
そのため、争いの絶えない時代に人間が求める神の姿は、権力者の支配などから解放してくれる『強い力を持つ存在』だと思います。

むしろ「無力な存在であれば神として認められない」という状態の可能性が高かったと思われます。

ちなみに約2500年前に『孔子』『仁(仁愛)』の大切さを説いたようですし、歴史が事実であれば約2000年前に『イエス・キリスト』が『愛』を説いています。

一部の人には『思想』を受け入れてもらえたようです。

しかし時代背景的に、当時の大半の人々が求めていたのは「愛ではなく、権力争いの強さ」だったのだと思います。

 

日本でも戦国時代などは『戦勝祈願』として神を信仰していた武将も多いようです。

武将たちが神に求めた御神徳は『武力』や、『戦の勝利』にすぎず、おそらく『和合』や『調和』では無かったのではないかと思います。

また、「神が助力してくれれば戦に勝てる」という『神風』を求めたのだと思いますが、『愛の性質』を求めたわけではないはずです。

 

そもそも愛を大切にするならば、戦は避けるべき行為です。

 

ですから根本的な問題として、ある時期から人間は『神への信仰』の方向性が変わってしまったのだと思います。

 

たとえば「神は強い存在だからこそ、必ず敵を討ち滅びしてくれる」などになった場合、『愛とは真逆の性質』を神に求めるわけですから、人間が独自で信仰すれば信仰するほど、『本来の神の姿』から距離が離れていきます。

つまり『分離』が激しくなるわけです。

ちなみに太古の時代には『アニミズム』などという言葉は存在していません。
また、『信仰』という意識すら無かったと思いますが、「全ての物の中に霊魂、もしくは霊が宿っている」と感覚的に感じて、「全ての存在に感謝をしていた」のではないかと思います。

スピリチュアルなどを好む人であれば「様々な存在に神が宿っている」もしくは「様々な存在に霊が宿っている」ということに対して、あまり違和感がないのではないかと思います。
しかし人間社会の常識を重視する人にしてみれば、理解が難しい概念かもしれません。

余談ですが最近は『文房具』や『日常で使う道具』などに『名前』を名づけて、道具と当然のように会話している子供が増えているようです。

常識的に考えますと「無機質な物質と会話ができるわけがない」と思ってしまいそうですが、物質と会話ができる人が実際にいるようです。
僕自身は物質と会話はできないのですが、「物質と会話ができる」という人と数人出会っていますので、『妄想』や『嘘』ではないと思います。

物質に『生命の存在』が入っているのかは不明ですが、もしかしたら『霊的な存在』が宿っているのかもしれません。

そもそも『人間が創造した物質』に関しては、『創造主』となる制作者の『想念』が必ず込められますので、『想念体の物質』ともいえます。

ちなみに、おそらくチベット仏教だと思いますが『トゥルパ』という秘術があります。
日本国内では『タルパ』という名前で一部の人に『タルパ作成』が流行していたようですが、イメージした『想念体』を『実体化』させる方法です。

『陰陽道』では『式神』に該当すると思います。

ただし実体化といっても、視覚的に見えるようになるわけではありません。
視覚的に見えるようになる人も一部にはいるようですが、基本的には『想念体』をイメージの存在だけでなく『現象世界(現実世界)』に現象化させるような状態です。

簡単に説明しますと、頭の中で『イメージした存在』を『霊的な存在(タルパ)』としてこの世に登場させるような方法です。

そして『想念体』ですから、想念のイメージを強力化することにより、『霊的な存在(タルパ)』は独自で意識を持ち、自由に活動するようになるようです。
ちなみに日本で流行したのは「自分の好みのタルパを自由に作成する」という遊びに興味を持つ人が増えて、話題になったからこそだと思います。

ただし問題があります。
『霊的な存在(タルパ)』が自由に活動するようになった際に、『創造した人間(主人)』もコントロール不能になり、暴走状態になる危険性があるようです。

また、『魔術』の部類になるかもしれませんが、『物質』に対して制作者が意図的に『特殊な効果』を込める方法もあります。
たとえば『魔力が封入された道具』などと表現すると、凄いことをしているようですが、実は方法はそんなに難しくはなく、『イメージ力』と『臨場感』さえあれば誰でも可能だと思います。

とりあえず人間の『想念』であり『想像力』には、独自で『想念体』を作り出せるほどの力が秘められているようです。
だからこそ人間は『創造主』の力を持っているわけですが、多くの人は『無自覚』で日常生活で使用しているような状態になっています。

そのように考えますと『想念の善悪の質』に関しては別問題ですが「様々な存在に霊が宿っている」というのは、おそらく事実だと思います。
また、人間が創造していない『自然物』や『生物』には『元(源)』からのエネルギーが宿っているのでは無いかと思います。

ここからが重要な本題です。

神の正体を考えるときは『統合』と『分離』が大切です。

むしろ、『統合』の視点を持たない限り、信仰であり、宗教の壁は崩すことができません。
そもそも『様々な信仰』が増えて、『様々な宗教』が増えた一番の原因は『分離』が増えたからこそです。

凄く簡単に説明しますと、「全て宇宙空間」という『一言』で『全て』をまとめることができます。

ちなみに「宇宙は無数に存在して、無限に拡大している」などの問題があるかもしれません。
しかし人間の感覚では「宇宙はひとつ」という認識しかできませんので、『宇宙全体』として考えます。

人間は『地球』で活動しています。

宇宙全体から『地球』という存在に注目しますと、『宇宙全体の宇宙神』から『地球神』が誕生することになります。
つまり『宇宙全体(統合した状態)』に分離が生じて『地球神(独神)』が増えたわけです。

この考え方の場合、統合された状態の『宇宙全体の宇宙神』の状態では『唯一神(一神教)』です。


しかしその状態から分離して『地球神』が誕生した瞬間に『宇宙全体の宇宙神』と『地球神』の二種類の神が存在しますので『多神(多神教)』になります。

そして『地球神』の状態から『天の神(宇宙の神)』と『地の神(地上の神)』が誕生することで、地球上には『天』と『地』が誕生します。


つまり『天地開闢』です。

日本神話の場合『天之常立神(天)』『国之常立神(地)』になると思います。
 

ちなみに統合された状態が『宇宙(天)』であれば、天の性質を持つ『天之常立神』の方が統合された状態に一番近いです。
なぜならば、分離が開始される『最初の段階』から存在していたからです。

『天之常立神』の補足情報です。

天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神である。
独神であり、現れてすぐに身を隠した。
『日本書紀』本文には現れず、『古事記』および『日本書紀』の一書にのみ登場する。
神代紀第一段第六の一書では天常立尊と表記され、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢ)・国之常立神(くにのとこたちのかみ)に先立って最初に登場する。
天の永久性を象徴する神とされる。

注目する点は「天地開闢の際に現れた神」、「独神であり、現れてすぐに身を隠した」、「国之常立神に先立って最初に登場する」という三点です。

僕が天之常立神について伝えている「天の性質を持つ方が統合された状態に一番近い」、「分離が開始される最初の段階から存在していた」という意味が理解できると思います。
「現れてすぐに身を隠した」の点については、身を隠したのではなく、「最初の段階から存在していたからこそ、むしろ気づかれなくなっただけ」です。

たとえば「空間は存在していますか?」と尋ねられたら、「姿や形は全く見えないけど空間は常に存在している」としか答えられないと思います。
なぜならば空間は『明確な存在』ではなく、「常に空間が在るだけ」だからです。

ちなみに日本神話に『八百万の神』が存在するように、日本には無数の神が存在しますので『多神』の状態です。
そもそも日本人にしてみれば「日本神話には神様がたくさん存在する」ということが当然のようになっているため、特に疑問に感じないかもしれません。

だからこそ日本神話の神様について注目するべき点は『性質』です。

『伊邪那岐神(いざなぎのかみ)』『伊邪那美神(いざなみのかみ)』は有名だと思いますが、性質は『男性』と『女性』です。
統合された状態の『宇宙全体』で考えますと『男女』の性別などなく、「全てはひとつ」です。
しかしその状態から『男女の性別』という性質として『分離』させることで、『男性神』と『女性神』が誕生するわけです。

また、日本の神様には『水の神』、『土の神』、『火の神』、『風の神』、『山の神』、『森の神』、『川の神』など様々な性質の神が存在します。
さらにその性質に『陽』と『陰』や、『男性』と『女性』などの要素が加えられる場合もあります。


しかし統合された状態の『宇宙全体』で考えますと『性質』の違いなど一切関係なく「全てはひとつ」です。
つまり持っている性質として『分離』をさせることで、様々な性質の神が誕生しているだけです。

わかりやすい例として『生物』で考えます。
「生きている存在は全て生物」として判断しますと、人間を含めた様々な動物、昆虫、微生物、植物などの存在は『生物』の一言でまとめることができます。

しかし生物を『動物』と『植物』というカテゴリーに分けると、最低限2種類の生物が存在するようになります。
さらに動物を『哺乳類』、『爬虫類』、『鳥類』、『両生類』、『魚類』などのカテゴリーに分けたり、植物も『様々な種類』のカテゴリーに分けることにより、「生物には様々な種類が存在する」ということになります。


つまり、様々な『性質』を詳しく解明していけばいくほど、『全体(統合された状態)』は、『細分化(分離)』されていくということです。

そして細分化された状態に注目すればするほど、『全体の像』を把握することが難しくなるのが、人間なのかもしれません。

たとえば『蟻』を眺めながら「蟻と桜は生物としては一緒の存在です」と伝えられた場合、「昆虫と植物が一緒の存在?何かのクイズ問題?」とおそらく混乱すると思います。

「生物としては一緒です」と伝えても、人間は先入観などにより、『カテゴリー』として考える傾向が強いのではないかと思います。
「蟻は昆虫、桜は植物なので性質は全く違う存在」と判断してしまい、「生物としては別物」と思うのではないかと思います。

しかし「蟻も生きていますし、桜も生きていますので、どちらも生物としての存在です」と説明されると、『意味』が理解できるはずです。

『神』に関しても同じです。
日本神話などを信じる日本人であれば「日本の神社には様々な神様が祭られていますので、日本には様々な神様がいます」と伝えられた場合、納得できると思います。

しかし、「神社の神様は全部同じ神様です」と伝えられた場合、おそらくですが「各神社で御祭神様がそれぞれ違います」と指摘するのではないかと思います。

神社として注目した場合は様々な御祭神が確かに存在しますが、『全体としての神』で考えますと、『神(統合された状態)』しかいないわけです。
なぜならば『神社の御祭神』は、統合された神が分離した『一部』の存在でしかないからです。

それと同じように様々な『宗教』で信仰している神に関しても『統合された状態の神(唯一神)』の信仰か、『分離された状態の神々(多神)』の信仰のどちらかであり、結局は『表現方法』の違いにすぎません。

ちなみに『多数の神』が存在している神話や、『多神教』の宗教、また『様々の姿の仏様』は、基本的に神の姿が『擬人化』されており、人間の姿のイメージになっている場合が多いです。


そして擬人化された『神の性質』に注目すると、人間の姿のイメージどころか、『人間が持っている性質』に該当している場合が多いです。
一部には『自然の性質』を擬人化した神も存在しますが、その場合は「自然の性質を神として表現しただけ」だと思います。

ちなみに『悪魔』の存在に関しても、『人間が持っている性質』を擬人化されている場合が多いです。

そのため、神の存在も、悪魔の存在も、実は「人間が持っている性質を擬人化しているだけ」だと思います。

 

ただし、『霊的な存在』として「悪魔」と呼ばれるような存在は存在しているようなので、「悪魔は存在しない」というわけではありません。

ですから、念のため注意は必要だと思います。

わかりやすいのは密教で信仰している『仏像』の姿かもしれません。
段階のような状態で『如来』『菩薩』『明王』『天部』に分類されていますが、仏像にはそれぞれの性質があります。
性質に注目しますと、『人間が持っている性質』もしくは、『人間の成長段階』などを表現しているはずです。

ちなみに密教には『曼荼羅』という作品がありますが『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』の二つがセットになっていますので『両界曼荼羅』と呼ばれます。
両界曼荼羅は『内側の世界』と『外側の世界』を表現していますが、どちらの曼荼羅も『中心』に存在するのは『大日如来』です。
大日如来という名前の仏様も存在すると思いますが、実際のところは「自分自身が大日如来の存在」ということを伝えています。

つまり「内側の世界も、外側の世界も中心に存在するのは自分自身」ということです。

曼荼羅では大日如来を中心にして様々な仏様が描かれていますが、それぞれの仏様は分離された『人間の性質』や、『人間の世界』を表現していると思います。
そして統合された状態は『曼荼羅全体』だと思いますが、内側の世界も、外側の世界も『中心(大日如来)』から拡がっていますので、「中心となる自分自身が世界を統合している存在」と伝えているはずです。


そのため「全ては自分自身が創造している世界」ともいえます。

仏像と同じように、擬人化された様々な神の性質を考察しますと、おそらくですが「人間が、人間の持つ性質を神の姿として神話に登場させた」というのが神話の『原点』だと思います。
つまり、神話に登場する神は、人間の『誰か』が、神話という『物語』として、創造しただけだと思います。

また、多くの神話では『天地の創造』のような展開から物語が開始され、徐々に様々な神々が登場しますが、神が増えるたびに『分離』が増えていくだけであり、『人間の性質』や『人間の性格』を擬人化した神も増えていきます。
そして世界各地の神話は、登場する神の名前や、姿は違っても「物語としては内容的に似ている部分が多い」です。

そのため、太古の誰かが『基本となる物語』を作成し、その物語が『伝承』のような状態で世界各地に拡がったのではないかと思います。
そして基本となる物語を各地でアレンジされた状態が『世界各地の神話』ではないかと思います。

おそらく太古の時代は『文章』として記録されているものは少なく、『口伝』で伝えられていた可能性が高いです。
ちなみに『口伝』とは、『伝えるべき内容』を記憶している人が、『伝承者』などの伝えるべき人に言葉で伝えていく方法です。

口伝の場合は暗記力も必要だと思いますが、問題は『伝言ゲーム』のような状態のため、いつのまにか話の内容が変わる可能性があることかもしれません。


そもそもあくまでも『僕の憶測』ですし、太古に関してはもはや事実の確かめようがありませんが、世界各地に似たような『神話』や『伝説』があるということは偶然ではなく『基本となる物語』があるからこそだと思います。

『自然崇拝』では『自然の存在』を信仰しますが、自然には様々な対象が存在します。
そして自然の存在を『擬人化』した状態が『神話に登場する神』という場合が多い気がします。

つまり、「神話が登場するよりも自然崇拝の方が先だった可能性が高い」と思います。
現在も自然崇拝は残っていますが、人間は自然に対して『感謝』と『畏怖』を感じるからこそ、神の存在として神格化したのではないかと思います。

 

ちなみに一部には神への捧げ物として『生贄の儀式』などをしていた信仰もあったようですが、自然崇拝が過激な信仰状態に向かったからこそだと思います。

そして『アニミズム』に関しては、おそらくですが「太古の人は知っていた」もしくは「太古の人は感覚的にわかっていた」のではないかと思います。

そもそも太古の時代は『神』という概念は存在していなかったと思います。
ですから神を信仰していたのではなく『何か』を感覚的にわかっていて、『ルール(規則)』や『法律』などの制約は一切ない状態で、自然と『自然と共に生活』していたのではないかと思います。


「それでは何をわかっていたのか?」ですが、「自然を含めて全ては繋がっている」ということです。
それを『言葉』として表現するならば「全ては愛で繋がっているということをわかっていた」のではないかと思います。

だからこそ『人間』と『自然』はお互いに共存し合い、当然のように自然と生活していたのではないかと思います。

しかし現代においては「自然を大切にしましょう」という状態になっています。

そのため、「自然と共存している」というよりも、「人間は自然と共存しようと意識するようになっただけ」かもしれません。
ですからあえて意識しない人にしてみれば、「人は人、自然は自然」であり、分離して考えている可能性が高いです。

また、太古の人は、現代人よりも「様々な感覚が優れていた」のではないかと思いますので、もしかしたら自然の生物や、動物、そして霊的な存在などと『交信』することもできたのではないかと思います。

ちなみに「なぜ現代人よりも太古の人の方が感覚が優れているのか?」についてですが、現代の人間社会は科学の進歩などもあり、『物質世界』としては太古よりも向上していると思います。
また、様々な『便利な道具』も増えていますが、素晴らしい道具が増えれば増えるほど、人間の能力は『退化』する可能性が高い気がします。

なぜならば、道具に頼ることで、人間が持っている『本来の能力』を使う必要性が消えていくからです。

たとえば現代は『携帯電話』がありますが、人間が発明した『テレパシー交信をするための道具』のようなものだと思います。

ちなみにテレパシーなどの特殊な能力については、あくまでも一説ですが「人間は宇宙の存在に遺伝子を操作をされて特殊能力を使いづらくなった」という説があります。
事実なのかは確かめようがありませんが、ある時期に『宇宙の存在』などの介入があった可能性は高いと思います。
ただし、この問題に関しては「人間にはどうしようもない」ですし、今回は触れません。

現代人はテレパシーを意識的に使うことは困難だと思いますが、感覚を研ぎ澄ませば「日常生活でテレパシー的な能力を使っている」ということに何となく気づけるはずです。
しかし携帯電話を当然のように使用している状態であれば、テレパシーという能力について一切考える必要も無く、感覚を研ぎ澄ます必要も無く、「道具の機能に頼ればいいだけ」という状態になってしまいます。

そもそも人間は意識的に使用しない能力は弱まっていく、もしくは退化していく性質があるのかもしれません。

わかりやすいのは『筋力』ですが、日常生活で使わない筋力は、意識的にトレーニングしない限り徐々に弱まっていきます。
おそらく『特殊な能力』や『感覚』も、意識的に使わない状態であれば「不要」と判断されて、徐々に衰えていくのではないかと思います。

さらに、これはあくまでも僕の持論ですが、『病院』や『薬』がない方が、むしろ人間は健康だったのではないかと思います。

人間は誰でも『自己回復能力』を備えていると思います。
ですから、『手術をしないと治らない病気』などでなければ、休息を大切にすればある程度の病気は自然治癒していくと思います。

しかし病院や薬が存在することで「困った時は病院や薬に頼ればいい」という状態になる可能性が高いです。
その結果、本来の自己回復能力を発揮する機会が減り、病院や薬を重視しがちとなり、徐々に自然治癒が衰えていくのではないかと思います。

つまり人間が『人間独自の世界』を重視するようになっていくことで、人間社会は進歩するかもしれませんが、人間が持つ『本来の力』は弱まる可能性があるわけです。

その結果として、太古の人がおそらく感覚的にわかっていた「全ては愛で繋がっている」ということは、徐々に「不確かなこと」と感じるようになり、『統合』されていた世界の状態から『分離』が加速したのではないかと思います。

また、分離が加速しますと「私は私、あなたはあなた」という状態で、他者との繋がりは薄れ、人間同士で『優越感』を競うようになったり、争いや支配が耐えない世界に移行していったのではないかと思われます。
そして争いや支配が絶えない世界では「愛は無力」と感じて『力』を求めるようになり、『信仰心』よりも『現実の生活』を重視するようになっていくはずです。

さらに『見えない存在』であり『全ての存在』に対する感謝よりも、『目に見える存在』であり『特定の存在』を求めるようになっていき、自然崇拝、祖先崇拝、一神教、多神教などの『信仰』や『宗教』に変化していったのではないかと思います。

その結果が『現在の人間社会』です。

昔の僕が「神など存在しない」と信じていたように、神の存在を否定したり、無信仰の状態の人が現代社会には多いと思います。
また『人間社会』を重視しますと、大切なのは『知識』と『力』と『根拠(エビデンス)』、そして『常識的な価値観』という状態になるはずです。

しかし『アニミズム』などの「生物、無機物に関係なく、全ての物の中に霊魂、もしくは霊が宿っている」という価値観であり、信仰形態は「現代社会とは真逆の状態」となっています。


なぜならば『非常識な価値観』であり、『根拠』を求めても証明をすることは困難だと思いますし、『霊的な存在』に関しては人間には確かめようがありません。

たとえば「愛を存在を証明しなさい」と問われることに似ているかもしれません。

感覚的に愛をわかる人であれば、言葉としては説明が困難だとしても「愛は在る」ことだけは知っていると思います。
しかし愛をわからない人にしてみれば「愛など存在しない」と信じているかもしれません。

現代においての信仰は『宗教』という状態が基本となっていますが、『信仰の原点』をたどっていきますと、おそらく『アニミズム』のような信仰にたどり着くと思います。
そのため、現在の人間社会が『一番遠ざかっている信仰』が、実は「本来あるべき信仰の原点」だと思います。

ただし、その『気づき』を妨害しているのが、人間が独自で作った『様々な宗教』です。

おそらく宗教を信じている人にしてみれば「太古の人は無知だったからこそアニミズムのような信仰しかできなった」と思うかもしれません。

太古の時代は現代に比べますと科学や知識の量は少なかったかもしれません。
しかし太古の人は「最も大切にするべき愛の存在を知っていた」のではないかと思います。

むしろ現代の人間社会は『知識』が進歩して、知識を重視するようになってしまったからこそ、最も大切にするべき愛や心を見失いがちな気がします。

ですから「神の存在に対する答え」を求めるならば、『現在の信仰』から考察するのではなく、現在から過去に逆行して『太古の信仰』について考察することが大切です。
なぜならば『現在』は分離が進んだ『結果』ですから、過去に戻っていくことで、分離されていた状態から『統合された状態』となる『スタート地点(原点)』が見えてくるからです。

アニミズムよりさらに『原点』に戻るならば「全て宇宙空間」という統合された状態だと思います。
そして統合された宇宙空間とは「全ては愛、愛が全て」という状態であり、『宇宙』は『愛そのもの』だと思います。

愛は、全てを受け入れ続けながら、常に拡大を続けます。
つまり永続的に『成長』と『繁栄』を繰り返しながら、無限に拡大していきます。
だからこそ宇宙は無限に拡大していくのだと思います。

また、統合された状態だからこそ、どれだけ無限に拡大しても「全ては愛」として『要約』することができます。

そのため様々な宗教や信仰がありますが、「大本となる神は同じ」です。
「全ては愛」ですから、大本の神とは「愛そのもの」が『答え』だと思います。

しかし、宗教や信仰を重視する人は『分離された神の一部分』を、『信仰するべき神』として信じるため、『統合された神の本来の姿』が見えなくなっている可能性が高いです。
なぜならば「カテゴリー分けにこだわると、全体像から遠ざかる一方になる」からです。

「神の存在とは愛そのものです」という単純な答えですが、単純だからこそ、むしろ理解が困難なのかもしれません。

『【未完】言葉と祈りと愛について 20』につづきます。