『【未完】言葉と祈りと愛について 17』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。

 

【神社の神様についての考察】

神の存在を疑い、神の存在を否定している状態から僕は日本各地の神社を巡り始めました。
日本神話の神様の名前は多少知っていましたが、「漫画や映画などに名前が登場したから知っていた」程度の状態です。

そのため、僕の中では『ファンタジー』『フィクション』の存在でしたし、「神話に登場する存在はこの世に存在するはずがない」としか思っていませんでした。

余談ですが、僕が子供時代に遊んでいたテレビゲームに『デジタル・デビル物語 女神転生』という作品がありました。
ちなみに『女神転生シリーズ』は人気作品のため、現在に至るまで様々な作品が登場しています。

『女神転生』のゲームの中で『敵』として登場するのは『悪魔』『妖精』『精霊』『天使』『神』『魔王』などの存在です。
世界各地に残されている神話や宗教、そして伝承などを参考にして数百種類の『敵』が用意されています。

そして主人公は『悪魔召喚士(デビルサマナー)』となって、様々な悪魔や神を召喚して戦いながら物語を進めていきます。

登場するキャラクターの設定は『旧約聖書』『ギリシア神話』『エジプト神話』『北欧神話』『インド神話』『アステカ神話』『日本神話』などから引用されています。
子供時代の僕は『世界各地の神話』など全く知りませんでしたが、女神転生シリーズのおかげで世界各地で有名な『神』の名前や、『悪魔』の名前に詳しくなっていました。

その記憶は大人になっても残っているため、神や悪魔について真剣に考えるようになってから、とても役立っています。
なぜならば世界各地で有名な神や悪魔の名前をキャラクターとしてすでに暗記しているため、各地の神話を探ると「あの神様のことだ」や「あの悪魔のことだ」などと記憶がよみがえってくるわけです。
つまり僕はテレビゲームのおかげで楽しく遊びながら、事前に情報を学ばせていただいたのだと思います。

ただし、だからといって神の存在を信じていたわけではありません。
ですから様々なことを考察しながら「神とはなんぞや?」という『答え』を探り始めました。

僕が真剣に『神の存在』を考えるようになったのは神社を巡り始めてからですが、神社には様々な御祭神が祭られています。
日本神話の神様を含め、歴代天皇、武将、偉人、龍神、自然神などの存在です。

ちなみに『護国神社』『招魂社』には国家のために殉難した人の英霊が祀られていますが、僕は護国神社や招魂社には基本的に足を運んでいません。

神社を管理している神職の人には申し訳ありませんが、「御祭神となっている存在が本当に神社内に存在しているのか?」となりますと、「一部の神社には存在する」程度のような気がします。
つまり「神社の由緒などに記載されている御祭神が必ず神社にいるというわけではない」と僕は思っています。

また、一部の神社には、御祭神とは全く違うような『危険な存在』の気配を感じることがあります。

「神社は御神域として守られているから、危険な存在は侵入できない」と信じられていると思いますが、それは『結界』が機能していることが前提の話だと思います。
日本各地を巡っていますと『廃れてしまったような神社』も多いですし、「結界が機能していない神社も増えている」と感じます。

そのため直感的に「何となくこの神社は暗い気がする」や「何となく嫌な感じがする」と感じた神社には、僕は近づかないようにしています。

たとえば『常に人気のある飲食店』と『潰れそうな飲食店』があるとすれば、店舗を外から眺めた際に「何か感じる」のではないかと思います。
また、店舗の中に入った時も雰囲気や、空気感などから「何か感じる」と思います。

その人それぞれに『特性』と『感覚』の違いがありますので、『判断方法』は人それぞれだと思います。
そのため、あくまでも『僕の感覚』になりますが、僕の場合は『光の輝き』のような状態で判断しています。

それはどのような状態なのかといいますと、『常に人気のある飲食店』は店舗を外から眺めた際に輝いて見えますし、『潰れそうな飲食店』は店舗を外から眺めた際に暗く見えたり、気力が枯れ果てたように見えます。

その方法と同じように神社に関しても、神社の輝き具合や、放っている雰囲気などから判断することが多いです。

僕の判断は特殊だと思いますので「誰でも可能」というわけではないかもしれませんが、とりあえず「何となく危険な雰囲気がする」と直感的に感じた場合は、なるべく近寄らない方が無難だと思います。

ただし、あくまでも『僕の感覚』からの判断にすぎないため、僕が間違っているかもしれません。

話を戻します。

神社の歴史を探ると、ある時期に御祭神を突然変更している神社もあるようです。
そのため、「神社の由緒はあくまでもひとつの参考情報にすぎない」と感じています。

『神主の家系』として代々神社を受け継いでいる神社であれば、歴史をたどることが可能かもしれません。
しかし歴史は人間の都合で『改ざん』される場合もあると思いますし、信憑性のある『文献』が代々守り続けられていない限り、「昔のことはもはや確かめようがない」という状態だと思います。

特に御祭神に関しては、神社の宮司だとしても『霊視』や『霊聴』、もしくは『チャネリング』などにより、霊的な存在と交信ができないと確かめようがないと思います。

なぜならば基本的に神様の姿は目で見ることはできませんし、言葉での会話もできないからです。
そのため、宮司だとしても「由緒となっている御祭神を祭っています」としか答えられないと思います。

ちなみに神社ではなく仏閣での実体験ですが、僕がお祈りしていると突然住職に声をかけられました。
僕は『阿弥陀如来』様の仏像の前でお祈りしていたのですが、住職は僕の隣にきて安置されている『仏像の歴史』について語りはじめました。

正直なところ僕は『仏教美術』や『仏像の歴史』に関しては全く興味がありませんし、一番の目的はお祈りです。

そのため、お祈りに集中したいこともあり「ここに仏様がいるのでお祈りに来ました」と一言伝えました。
すると住職は「え!本当に仏様がいるのですか?」と驚いて、慌てて去っていきました。

実は由緒としても全国的にもかなり有名な仏閣ですし、国宝の仏像が安置されています。
しかし住職は国宝の仏像を管理しながらも、「仏様など存在しない」と思っていたからこそ驚いたのだと思います。

冗談みたいな話ですが、神社や仏閣を管理している側だとしても「神仏は実際には存在しない」と信じている人が多いかもしれません。


そもそも神職や住職に関しては霊能力は不要だと思いますし、特に現代は『形式』だけを重視する傾向が強く、あくまでも『仕事としての役職』のような状態になっている神職や、住職が多い気がします。

ちなみに『特定の存在』に対して、『意識』をすることで「存在と繋がることもある」と思います。
神社や仏閣の境内に『存在』が存在していなくても、「意識的に繋がることもある」ということです。

たとえば神社の由緒書きなどに「御祭神 天照大御神」と記載されていれば、「この神社には天照大御神様が祭られている」と信じて、天照大御神様のことを意識して参拝する人もいると思います。
その場合、『意識』をすることで天照大御神様と繋がり、『御神徳』や『神示』などを授けてくれることなどもあるかもしれません。
また、仏閣などでは仏様を意識することで仏様と繋がれると思います。

実際は『霊的な存在』だけではなく、人間は意識をした瞬間に『全ての存在』と繋がります。
当然『人間関係』もですから「あの人のことが気になる」と思ったら、その瞬間に相手と繋がっているわけです。
だからこそ、他者に対して『悪意』などを持つべきではありませんが、基本的に『無自覚な人』が大半だと思います。

ただし、霊的な存在の場合、『自分自身の状態』が自分が放つ波長に影響をもたらし、『危険な存在』と繋がることもあると思います。
また、下手にチャネリングをしようとすると『自称神様』のような存在に騙されることもありますので、注意が必要かもしれません。

ちなみにあくまでも僕の見解ですが『神社の神様』や『仏閣の仏様』に関しては、『何らかの意識エネルギー体』と思っています。

僕は『霊的な存在』などを視覚的に見ることはできません。
そのため神社に足を運んでも、神様の姿などは全く見ることができない状態です。

しかし神社を巡り始めた最初の頃は全くわかりませんでしたが、ある時から『体感的』に目に見えない存在を感じるようになりました。

あくまでも『僕独自の感覚』のため説明が難しいですが、『微弱な静電気のようなものを放っている存在』が神社の境内にいることに気づいたわけです。

ちなみに僕の場合は『皮膚』に微弱な静電気を感じるような感覚が多いです。
もしくは微弱な『磁力』のようなものを感じます。

たとえば子供の頃に『プラスチック性の下敷き』で髪の毛をこすって、髪の毛が下敷きに貼りつくような遊びを経験したことがある人が多いと思います。
摩擦から発生する静電気が原因ですが、その際に目には見えませんが微弱な静電気を何となく感じたはずです。
そのような静電気の感覚を、神社の境内などで『肌(皮膚)』に感じるようになってきたわけです。

そして、『静電気のようなものを放つ存在』の居る場所は『社殿付近』、『御神木』、『御神池』など、神社によってそれぞれ違います。
また、僕は視覚的に確かめることはできませんが、境内を自由に移動しているように感じます。

ちなみに、もし『気功』などの経験があれば、『気』や『気の玉』の感覚がわかると思います。
気の感覚は『磁石の反発力』のような感じですが、気の感覚がわかるのであれば、『何らかの気を放っている存在』が神社や仏閣の境内に存在するような状態です。

僕は子供時代からオカルトなどに興味があったため、『見えない力』の気功にも興味を感じたことがあり、あくまでも素人の真似事ですが、子供の頃に気の玉を作ったりしていました。
その経験などから、基本的に目で見ることはできない『気』の感覚がわかりやすくなっていたのかもしれません。

そして日本各地の神社を巡っているうちに皮膚からの感覚だけなく、『額付近』から感じる感覚が特に強くなっていきました。
額付近はおそらく『第三の眼』だと思いますが、僕の場合は額付近が『レーダー』のように機能するようになり、「目に見えない存在は境内のどの付近にいるのか?」など、方向や距離が感覚的にわかるようになってきました。

ただし、目には見えないので『正体不明』の存在ですし、どのような姿なのかは全くわかりません。
とりあえず「神社の境内には何らかのエネルギー体が存在する」ということがわかってきたわけです。

ちなみに神社の境内だけでなく、仏閣や、山や海などの自然にも『何らかのエネルギー体』は存在していますが、それぞれのエネルギー体には『性質』の違いなどがあるようです。

あくまでも僕の感覚ですが『水の性質』を感じたり、『大地の性質』を感じたり、『龍神の気配』を感じたり、『蛇の気配』を感じたりなど様々な『性質』があります。
視覚的に何かが見えるわけではありませんが、「なぜか感覚的にわかる」というような状態です。

たとえば「水をイメージしてください」と伝えられた場合、脳内には『水の性質』や『水の質感』が何となくイメージできると思います。
「液体のような感覚」や「湿気のある感覚」など様々だと思いますが、その感覚が「自分自身の水に対する感覚的なイメージ」です。

次に「鉄をイメージしてください」と伝えられた場合、脳内には『鉄の性質』や『鉄の質感』が何となくイメージできると思います。
「固い感覚」や「冷たく無機質な感覚」など様々だと思いますが、その感覚が「自分自身の鉄に対する感覚的なイメージ」です。

そして「水のイメージと鉄のイメージは全く同じ性質でしたか?」と尋ねられた場合、おそらく「何となく性質が違います」と『感覚的』に感じるのではないかと思います。

もし「何となく性質が違う」と実感できたのであれば、「感覚的に性質の違いがわかる能力を発揮することができた」ということです。

これを『水』や『鉄』だけでなく、様々なもので試されてみると、自分自身の『感覚』が敏感になっていくかもしれません。
また、『色の各色』や『パワーストーン』などをイメージして性質の違いを試されてみるのも面白いと思います。

たとえば「青色をイメージした場合に色以外に何を感じるのか?」や「赤色をイメージした場合に色以外に何を感じるのか?」などを試した場合に、もし「温度を感じる」や、「硬さを感じる」などの感覚があれば『共感覚』という能力を発揮しているかもしれません。
その人それぞれに『感覚』の違いがあるため、どのように感じるのかは「その人しだい」です。
しかし何らかの共感覚があれば『共感覚者』の性質を持っている可能性がありますし、無意識的に『チャネリング』をしている可能性もあると思います。

そして感覚の使い方になれてきますと『人の名前』や『ハンドルネーム』をイメージするだけで、その人の『性格』や『性質』などが何となくわかるようになるかもしれません。

ちなみに日常生活で『無自覚』で能力を発揮している人が「実はかなり多い」と思います。
ただし、自分自身では『無自覚』だからこそ能力を発揮していることに全く気づかない人が多いと思います。
なぜならば自分自身では『当然』のように発揮しているため、「当然などではなく実は特殊な能力を発揮していた」ということに気づけないからです。

ですから、あえて『意識的』に試してみることで、自分自身の能力に『気づく』こともあるのではないかと思います。

僕自身は神社を巡っている内に、自然と『自分の感覚』が高まっていったような気がします。

 

そして『御神気』のようなものを肌で感じられるようになってからですが、僕は各地の神社を巡る楽しみが増えました。

そもそも祈りの旅は観光もせず、御朱印も集めず「ただ現地に祈りに行くだけ」の活動でした。
そのため最初の頃は「とにかく各地を巡り、ひたすら祈るだけ」という状態で『作業』のような状態だった気がします。

しかしあえて『現地』に足を運ぶからこそ『現地の御神気』を肌で体感することができます。
そのため「あそこの神社は一体どのような感覚だろう?」という状態で、遠出をする楽しみが増えたことで、日本各地の神社を巡ることが楽しくなったと思います。

ちなみに僕は『龍神系』を好み、趣味のような状態で龍神様に関する場所も巡っていましたが、本来の龍神様は『自然神』のような状態だと思います。
神社などにも龍神様が祭られていますが、山、海、湖、滝などの自然界に存在する龍神様の方が強力に感じますし、自然界に存在するエネルギーそのものが龍神様なのかもしれません。

そして説明が難しいですが、本当に強力なエネルギー体は数キロメートル離れた場所からも、ビリビリとした『圧』を感じます。
「何か凄く強力な存在がいる」の一言ですが、神社などとは比べようがないほど強力な存在が自然界にいるわけです。

そのため、あくまでも僕の感覚では、自然神などは少なくとも人間が扱えるような存在ではありません。
ですから自称『龍使い』などがスピリチュアル系に増えましたが、『龍神』ではなく、あくまでも『龍』使いだと思います。

そもそも自然界に存在するエネルギーは、『個人』の願望実現や、欲望を満たすために手を貸すような存在ではないはずです。
もし協力していただけるとすれば、地球全体を含めた自然界の改善や、回復のためではないかと、僕は思っています。

とりあえず『エネルギー体』を感じるようになってきた頃から「神など存在しない」と信じていた僕は、「神は存在する」という状態に少しずつ変化してきました。

なぜならば僕自身が体感的に「神社には何かがいる」ということを実感しています。
そして「神社には何らかのエネルギー体が存在しており、その存在たちのことを人間は神様と呼んでいるのだろう」と思うようになりました。

「神社の神々は何らかの意識エネルギー体」の一言でまとめてしまうと、『神話』などのロマンが消えてしまうかもしれません。

しかし僕自身は、エネルギー体の存在を視覚的に見ることはできません。
たとえば「あの付近に何かがいる」ということは、何となく視覚的に判断できるのですが、基本的には『無色透明』にしか見えていませんので、「一体どのような姿なのか?」までは判断できません。
そのため、あくまでも「何かがいる」程度です。

また、僕自身は「日本神話は架空の物語でしかない」と思っていますので、日本の神様や、神社の御祭神に関しては「あくまでも物語の登場人物の名前」としか思っていません。
だからこそ神様の『名前』には全くこだわっていませんし、よほど有名な神様でない限り、詳しく知らない神様がほとんどです。

もしかしたら『冷めた価値観』に思われるかもしれませんが、むしろだからこそ「神とはなんぞや?」という探究心を続けられたのだと思います。

たとえば『特定の神様』に思い入れが強くなりますと、「神様に対して無礼だ」や、「神様は絶対的な存在」などと思うようになり、深く考えないようになる可能性が強い気がします。
しかし僕の場合は『何らかの意識エネルギー体』としか思っていませんので、強い思い入れがないわけです。

ただし、神社の神様や、日本の神々には大変感謝しています。

また、祈りの旅を続けているうちに神社は『好きな場所』になったため、何気なく神社に足を運ぶことは多いです。
だからこそ現在も頻繁に神社に足を運んでいますが、「神とはなんぞや?」の答え探しのためにも『特定の神様』には強い思い入れを作らないようにしています。

【内なる神と外なる神】

僕が神社の神様などは『何らかの意識エネルギー体』と思うようになった一番のきっかけは、「本当に大切にする神様は自分自身の内側に存在する」と思うようになったからです。

自分自身の内側に存在する神のことを僕は『内なる神』や『内在神』と呼んでいます。

僕がそのことを知ったのは自分自身で突然気づいたのか、『何かの本』の内容からだったのか、もはや記憶が定かではありませんが、ある時から「神様は自分自身の内側にいる」と思うようになったわけです。
そのため、神社などの神様に関しては『外なる神』と呼ぶようになっていました。

つまり「自分自身の内側の神様は内なる神であり、自分の外側に存在する神様は外なる神」と思うようになったわけです。

ちなみに神社に足を運びますと、祭壇には『鏡』が設置されていると思います。
無知な頃の僕は神社に足を運ぶたびに「なぜ祭壇には鏡が置かれているのだろう?」と疑問に感じていました。

しかしある時に「鏡とは自分自身の姿を写すためであり、神とは自分自身ということを教えてくれている」と思うようになりました。
また、『鏡(かがみ)』から『(が)』を無くせば『神(かみ)』になることに気づいたわけです。

だからこそ僕は「神社とは自分自身と向き合う場所」と思っています。

『鏡』に関しては僕の勝手な解釈なので間違っているのかもしれませんが、「自分自身(人間)こそ神の一部であり、自分自身(人間)はご神体そのもの」ということはおそらく間違っていないと思います。

ちなみに内側と外側に『神』が存在するようになると、頭が混乱するかもしれません。

「内側の神と外側の神がいるのであれば、正解はどちらの神なのか?」と疑問に感じるのではないかと思います。
また、この問題を大きくしたのが各宗教の『信仰する神』の違いによる争いです。

たとえば『一神教』の宗教もあれば、『多神教』の宗教もあります。
また、『自然崇拝』『アニミズム(精霊信仰)』などもありますし、『祖先崇拝(祖霊信仰)』もあります。

さらに、一部では『開祖(教祖)』を崇拝する宗教もあるわけです。

そのため「自分は一体何を信仰するのか?」で宗教同士での争いや、他者との対立に発展する場合があります。

正直なところ「何を信じるのかは本人の自由」だと思います。
しかし人間の『信仰心』というのは、『特別な思い』としてその人自身の『信念』のような状態になる可能性が高いです。
そして「絶対に曲げられないこだわり」のような状態となるため、信仰心の違いは人間同士の衝突を作りやすい原因になる気がします。

ですから信仰に関しての内容は、とても『デリケートな問題』であり、本来であれば「宗教関係についての話題はなるべく触れない方が無難」だと思います。

それでもあえて僕が伝えようとしているのは『一神教』も『多神教』も『自然崇拝』も『アニミズム』も『祖先崇拝』も「実は同じ神を信仰している」ということに気づいたからです。
また、『神の意味』がわかれば、「信仰の違いなどで争う必要は無くなる」と信じているからです。

ちなみに人間は「自分の外側に世界が存在している」と信じて活動していると思いますが、実は『真逆』であり「自分の内側に世界が存在している」ともいえます。

なぜならば自分の外側にある世界は『現象世界』であり、自分の内側にある世界の『投影』のような状態になっているからです。

人間は『外側の世界』から『自分自身の内側』を知り、『内側の世界』を変化させることで「外側の世界が変化する」ということを繰り返しています。

そのため『表裏一体』のような状態ともいえますが、人間は『肉体の性質的』に常に外側に意識に向きやすくなっています。

人間の肉体には視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚という『五感』がありますが、『肉体の外側にある情報』を得るための感覚機能です。
ですから、人間は肉体の性質的に「必ず肉体の外側に意識が向いてしまう」ようになっています。

だからこそ『自分自身の内側』にあえて意識を向けることが大切です。

そして、自分自身の内側に意識を向けることの『重要性』に気づかない場合、『外側の世界で起こる出来事』に、常に自分自身が振り回されるような状態が続くかもしれません。
なぜならば、外側の世界で起こる出来事に『対応させられるだけの人生』になるからです。

しかし自分自身が『中心軸』となっていれば、外部の世界の出来事を冷静に判断することができ、必要があれば『対処』し、必要が無ければ「あえて動かない」も自分の意志で『選択』できるようになるはずです。

ちなみに理解が難しいかもしれませんが、神社の神様も「実は自分自身の一部であり、自分自身の内側に存在している」という状態です。

しかし、人間の視点では『外側』に神社が存在しているため、「自分の外側に神様が存在する」と判断すると思います。
そのように考えた場合『問題』が生じます。

その問題とは『偶像崇拝』になる可能性があるということです。

最も大切にするべきなのは自分自身の『内側』です。
しかし神社の神様に対して「神様は神社に存在する」と思うようになりますと、『意識』は自分の外側に向いてしまい「どこかにいる神様を求めるようになってしまう」かもしれません。

たとえば、『仏像』という像を信仰の対象にしてしまうと、『仏像自体』を神様や仏様のような状態として扱うこととなり、「仏像に助けや救いを求めるようになる」かもしれません。
また、仏像に限らず『自分の外部の存在』に対して、強い信仰心を持つようになりますと、本当に大切にするべき自分自身の内側にある『愛』や『心』と向き合わなくなる可能性があります。
この状態が偶像崇拝です。

特に危険な偶像崇拝は、宗教の開祖などを『神の存在』のように信仰するようになることだと思います。

なぜならば『人間』を信仰の対象にしてしまうと、信者になってしまった人たちは洗脳されたり、思い通りに操られる危険性があるからです。
そもそも開祖自身が「私を信仰しても無意味」と自ら信者に警告するぐらいでないと、神の名を語るだけの『偽者』だと思います。

ちなみに『仏様などの意識エネルギー体が宿る仏像』は一部に存在します。
また、神社には人間から「神様」と呼ばれるようなエネルギー体の存在がいます。

そのため「偶像崇拝はやめるべき」ですが、『神仏』は自分自身の外側にも存在するわけです。
この点がとても難しい問題に感じます。

結局のところ自分自身を救えるのは『自分自身』です

しかし、人間は『自分一人だけ』では生きていけません。

もしかしたら「私は一人だけでも生きていける」と思っている人もいるかもしれませんが、それは大きな勘違いです。
なぜならば、目には見えないかもしれませんが、人間は『様々な存在』たちに常に支えられているからです。
また、人間関係を含めて『手助けをしてくれる様々な存在』が必ずいるはずです。

ですから最も大切にするべきなのは自分自身の『内なる神』だと思いますが、『外なる神』であり、様々な存在にたいして『感謝』の気持ちを持つことが大切だと思います。

つまり『内側』と『外側』の両方を大切にして、感謝を忘れないということです。

内なる神の存在も、外なる神の存在も『愛』とするならば、人間は「自分自身の内側に愛が存在し、自分自身の外側にも愛が存在する」ことになります。

そのように考えますと、人間は常に愛されている存在であり、常に愛に包まれながら活動しています。
また、人間自身が『愛の存在』ですから、「この世には愛しかない」と感じます。

ただし、人間として活動している時は常に『様々な出来事』があります。
そのため愛が実感できなかったり、「私は愛されていない」と感じたり、「私はもっと愛が欲しい」と思うことがあるかもしれません。

実際のところ、人生においては良いことばかりでは無く、嫌なこともありますので、「愛を感じない」と思うことは仕方ないことだと思います。

しかし、心のどこかでは「それでも私は常に愛されている」と信じて、前向きに進むことが大切だと思います。

正直なところ僕の人生は波瀾万丈のため、肉体的にも精神的にも苦しいことが多いです。

もしかしたら僕のことを「自分のやりたいことをやっていて、幸せな人生を歩んでいる」と思う人もいるかもしれません。
しかしそれは『裏側』を知らないからであり、実際はかなり過酷ですし、おそらく耐えられる人はごく一部だと思います。

それでもめげずに活動できるのは「これも愛の学びなのだろう」と信じて、前に進むからです。

余談ですが、日本各地を巡った経験を活かして、オススメの神社をお伝えすることがありますが、『神社の神様』を重視してお伝えしないようにしています。
なぜならば偶像崇拝のような状態になっていただきたくないですし、場合によっては『現実逃避』になる可能性もあるからです。

これは僕自身の経験からですが、祈りの旅で神社を必死に巡っていた頃は、何よりも『祈り』と日本各地を巡ることを重視して活動していました。
当時は『目標』があったからこそ必死に活動できたと思いますが、気持ちのどこかでは『現実逃避』をしていたのかもしれません。

自分自身では真剣に活動していたつもりですが、「現実から目を背けたい」という気持ちも少なからずあったと思います。
なぜならば何かに『熱中』すれば、現実から目を背けることができますし、また、自分自身と向き合うことからも目を背けることができるからです。

そもそも自分自身と向き合うことは基本的に面白くないですし、面倒な作業ですし、むしろ「一番やりたくない」ことだと思います。
ですから『何らかの口実』を作り、自分自身と向き合うことから目を背け続けていたのかもしれません。

神社を巡ることが好きな人も多いと思います。
また、神社に足を運ぶ理由は人それぞれだと思いますが、「現実逃避の口実になっていないだろうか?」ということは念のため考えてみてください。
神社の神様も大切な存在ですが、最も大切にするべき神は、内なる神であり、自分自身だからです。

そもそも「無理をして神社に足を運ぶ必要はない」と思いますし、「何となく神社が気になる」と思ったときに、足を運ぶのが一番だと思います。

ちなみに『好きな神様』がいますと、関係する神社を巡ることが楽しくなると思います。

僕自身は『特定の神様』というよりも『龍神』という存在に惹かれます。
そのため個人的な楽しみとして龍神様関係の場所を好んで巡ることが多いです。

僕が神社を巡り始めた頃は、『龍神』という存在自体がマニアックな状態だったため、『龍使い』などは全く存在していませんでした。

また、龍神様に関して書かれている本は数冊程度でしか存在しておらず、インターネット上でも龍神様に関する情報は僅かな状態だったと思います。
むしろマニアックな存在だったからこそ、当時の僕は興味を感じて「祈りの旅をしながら日本各地に存在する龍神様も探してみよう」と思ったわけです。

当時は現地で撮影した写真を見せれば「龍神の姿がわかる」という友人がいたため、僕が現地で写真を撮影して、友人に写真を送り、龍神様の有無を判断してもらうというやりとりをしていました。
僕が旅中に撮影した数枚の写真をインターネット上に掲載したら「龍が写っている」と気づいてくれたことがきっかけでしたが、それ以来、写真鑑定として活動を手伝ってくれることになりました。

友人には「日本全国リアルドラゴンクエスト」と伝えていましたが、僕としては龍神探しを追加したことで祈りの旅に楽しみが増えたと思います。

ちなみに友人が龍神様の姿を実際に写真で判断できていたのかはわかりません。
しかし友人の存在のおかげで龍神探しの活動に励むことができたので、大変感謝しています。

そして約10年後に「最近は龍使いが増えている」という情報を僕に教えてくれたのも、当時手伝ってくれていた友人でした。
僕が祈りの旅の活動を休止してからは、友人は独自で龍神様関係の場所を巡っていたようです。

その頃の僕は祈りの旅の活動を休止していましたし、スピリチュアル関係からも離れていたため、龍使いの存在など全く知りませんでしたが「龍神様が流行するとは凄い時代になった」と驚きました。

そして再び祈りの旅を再開しましたが、現在も龍神様関係の場所を巡ることが多いのは、個人的な『趣味』のような状態になっているからです。
ちなみに現在は涼華さんが龍神様の判断を含め、龍神様と会話もできますので、旅中に協力してもらっています。

ただし、僕自身は龍神様が好きだとしても、姿を見ることができるわけでもありませんし、会話をできるわけでもありません。
せいぜい存在の『気配』を感じる程度です。
ですから、「よくわからないけど何となく惹かれる」程度ですし、強い思い入れがあるわけではありません。

だからこそ思うのですが『特定の神様』を好むのは個人の自由でよいと思いますが、問題は『神の性質』だと思います。

たとえば「私は天照大御神様が好き」という人がいたとします。
ちなみに僕自身は日本の神様であれば『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』様が個人的に好みですが、はっきりいいますと「性質は一切不明」です。
神話などに登場するため「何となくこのような神様だろう」としかわかりません。

また、神社に祭られている神様も、神社が宣伝している『御利益』では有名かもしれませんが、「実は名前しかわからない」という神様がほとんどだと思います。

たとえば僕が『天伴』という神様で神社に祭られていた場合、参拝者は『天伴』という名前の神様にお祈りしてくれるかもしれません。

しかし「僕の性質を含めて僕自身のことは何も知らない」と思います。
そのため極端な話ですが「よくわからないけど神様だから信仰している」という状態になるはずです。

そして、もし神社に「天伴神は恋愛の御利益があります」と宣伝されていれば、参拝者は「恋愛に御利益のある神様」と信じると思います。

しかし、僕自身としては「僕が恋愛に御利益があるとは全く知らなかった」という状態でむしろ驚くと思います。

冗談みたいな話ですが、日本の神々を含めて、神話に登場する神様の『盲点』かもしれません。

たとえば『戦いの神』や『恋愛の神』として完全に性質を決められているのであれば、神の持っている『特性』になっているかもしれません。
しかし名前だけが有名であれば、実はよくわからない神様を信仰するような状態だと思います。

実際のところ、神社や仏閣に関しては、性質などを知らなくても問題ないと思いますし、自分が好む神仏を参拝すればよいと思います。
僕自身、日本各地を巡り、神社の由緒も、御祭神も詳しくない状態で、よくわからない神様たちにお祈りをさせていただく活動をしています。

ちなみに僕の場合は「この神社を守る神様」や「この地を守る神様」と呼称して、お祈りさせていただいています。

だからこそいつまでも御祭神の名前を覚えていないわけですが、裏話としては「漢字が読めないことが多い」ことが原因になっています。

実は神社を巡り始めた頃は『御祭神の名前』をお呼びしてお祈りしていたのですが、日本の神様の名前は複雑ですし、難しい漢字が多いです。
そのため読めない漢字などの場合、神様の名前をお呼びすることができないため、ある時から「この神社を守る神様」と総称してお呼びするようになりました。

さらに裏話ですが、漢字を読むことが難しくて『神社の名前』すら読めないことも多かったため、現在は「この神社」と総称してお呼びしています。

そのため、日本各地の神社を巡った経験からの意見ですが、参拝者のためにも神社側はぜひ『フリガナ』も用意して欲しいと思っています。

ちなみに『神の性質』についての一番の問題は、チャネリングなどで『神などの存在』とやりとりする場合です。
たとえば『有名な神様』などとチャネリングでやりとりしている人がスピリチュアル系に多いと思いますが、「名前に騙されていないのか?」という点はよく考えるべきだと思います。
問題は『霊的な存在が持っている性質』です。

たとえば人間関係でも『得たいの知れない存在』には必ず警戒するはずです。
そして信用できる存在なのか確認すると思いますが、その場合『名前』が問題ではなく、『性質』を含めた相手の『素性』を探ると思います。
なぜならば相手に騙されないためです。

しかしスピリチュアル系などでチャネリングをしている人の場合、霊的な存在が名乗った『名前』だけを信じてしまい、性質や素性などはあまり気にしない人が多い気がします。
そしておそらくですが「このような神様だろう」という勝手な憶測だけで交流していると思います。
ですから本来であれば、霊的な存在の正邪を判断する『審神者』を必ずするべきだと思います。

ちなみに僕自身は霊的な存在と会話していませんし、もし名前を名乗られても「ああ、そうですか」という状態で、話半分でしか信用していません。
また、参考になる情報であれば参考にさせていただきますが、あくまでも参考程度です。

そして活動を褒めてきたり、持ち上げてくるような存在には特に要注意しています。
褒めて貰えることは嬉しいことですが、霊的な存在に褒められても、正直なところ何の役にも立ちませんし、むしろ下手に褒めてくるような存在は「怪しい」と疑った方が無難な気がします。

ただし、霊的な存在を否定しているわけではありません。
このようなことをあえて伝えているのは、僕の経験上、霊的な存在に褒められたことで調子にのってしまい、『方向性』が狂っていった知人の姿を何度も見ているからです。
だからこそ霊的な存在と交流している人は、念のためご注意ください。

『【未完】言葉と祈りと愛について 19』につづきます。