『【未完】言葉と祈りと愛について 16』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。

【祈りの旅について】

「神なぞ存在しない」と信じていた僕が、神の存在について真剣に考えだしたのは、神社を巡り始めた時からです。

そもそも神を信じない僕は、神社に足を運ぶこともなかったのですが、偶然『大伴神社』という僕の名前の神社を見つけました。

その機会となったのは富山県にある『高岡市万葉歴史館』という施設に暇つぶしがてら足を運んだ時でした。
高岡市万葉歴史館は『万葉集』に関する施設ですが、『大伴家持』様に関する内容も展示してあります。

施設内を観覧後、駐車場に設置されていた『周辺の案内板』を眺めてみると『大伴神社』の名前を見つけました。

「普段は神社には行かないけど、大伴神社であれば話のネタにでもなるだろう」と思い、足を運んでみることにしました。

 

振り返ってみますと、僕が『大伴』の家系に生まれたことも、全て必然の展開だったと思います。

そして大伴神社で参拝を終えて帰ろうしたら『作業着姿の見知らぬおじさん』に声をかけられました。
実は神社の宮司様だったわけですが、その時の出会いと会話がきっかけとなり、僕は日本各地の神社を巡るようになったわけです。

ただし、当時の僕は神社のことを全く知りませんでしたし、正直なところ全く興味がありませんでした。
なぜならば「神など存在しない」と信じていた僕にしてみれば、「神社というのは架空の神を祭る無駄な建築物にすぎない」と感じていたため、神社の存在を好ましく思っていなかったからです。

それなのになぜ日本各地を巡ることになったのかといえば『祈りの旅』をすれば、少しでも世のために役に立つと思ったからです。

宮司様自身が日本各地を巡りながら祈りの旅をされていたのですが、「よくわからないけど少しでも世界が良くなるのであれば僕もやってみよう」ということが活動のきっかけでした。

しかし宮司様から『祈りの仕方』や『祝詞』などは一切教えてもらっていません。
記憶では「氏神様産土様にはなるべく早めにご挨拶したほうがよい」と最初に教えてもらったことと、祈る場所は神社だけでなく、海や山などの自然も含むという程度だったと思います。

ですから「神社の場所を全く知らない」、「神社の作法も知らない」、「神様の名前も知らない」、「祝詞も知らない」、「祈りの仕方も知らない」という状態からのスタートでした。

ちなみに最初の頃は「やるのであれば日本国内にある全ての神社に足を運ぶ」という意気込みを持っていました。
ただし、日本国内には無数の神社が存在することを知り、「全ての神社は絶対に無理」ということに気づいたわけですが、当時はそれほど無謀で無知な状態でした。

そして神社を巡りながらの祈りの旅を開始したわけですが、「祈りとはどのようにすればいいのか?」という悩みを常に抱えていました。
なぜならば『正式な型(形式)』を知りませんでしたから、拝殿でお賽銭を入れた後は「どのように祈るべきなのか?」と常に『自問自答』の連続です。

たとえば無知な子供に「神社に行ってお祈りをしてきなさい」と伝えたとします。
神社にたどりついた子供は「一体何をすればいいのだろう?」と悩むと思います。
もしかしたら拝殿で手を合わせる『真似事』をするかもしれませんが、「本当にお祈りをしてきたの?」と尋ねられたら困ると思います。

僕も似たような状態で、神社に足を運びますが「一体何をすればいいのだろう?」という悩みが続きました。
ただし、ひとつだけわかっていたのは「僕は神様にお願い事をするために足を運んでいるのではない」ということです。

とりあえずお祈りの『真似事』をするわけですが、その後に「いまのお祈りの仕方でよかったのだろうか?」と悩むわけです。

ちなみに神社を巡ったことがある人であればわかるかもしれませんが、神社に足を運ぶ際は時間がかかります。
たとえば約100kmほど離れた神社に足を運ぶ際は高速道路を使用しない限り、片道2時間以上かかります。

そして神社にたどり着いた後で祈るわけですが、祈りの時間はせいぜい『数分間程度』です。

早ければ数十秒間程度で終わるわけですが、基本的に祈りは『一発本番』です。
野球であれば『一球入魂』ですが、僕の活動は『一祈入魂』と思いながら活動していました。

その活動はどのような状態かといいますと、片道2時間以上かけて神社に足を運び、数分間祈って、再び片道2時間以上かけて帰ってくるような状態です。
たとえるならば、壁にタッチをして帰ってくるだけのような状態でした。

また、せっかく数時間かけて遠方に行っても『観光』が目的ではありませんので、現地をゆっくりと観光することは全くありませんでした。
食事に関しても『ご当地の名物』などには手を出さず、コンビニに立ち寄ってパンやおにぎりを食べる程度でした。

ですから日本各地を巡りはしましたが、神社と仏閣以外はほとんど記憶に残っていません。

ちなみに僕の目的は「現地で祈ること」でしたから、神社を巡ることが趣味というわけではありませんでした。
また、山の山頂で祈るためだけに富士山を含めた日本各地の『霊山』なども登山していますが、基本的に登山は嫌いです。

さらに現実的な話をしますと、交通費を含めて日本各地の神社は無料では行けません。

その状態でも「少しでも世界が良くなるのであればやる価値がある」と信じて活動していましたが、活動において『自己満足』ができれば「気持ちも救われた」と思います。
しかし神社や、山頂で祈ったとしても、目でわかるような『大きな変化』は一切ありませんし、『効果』があるのかも一切不明でした。

そのため「もしかして僕は何の意味も無い無駄なことを延々とやっているだけではないだろうか?」という苦悩の連続でした。

さらに、どれだけ必死に活動していても誰かに褒められるわけでもありませんし、認められるわけでもありません。
むしろ周囲の人からは「暇さえあれば神社に行っている頭がおかしくなった人」と思われることもありました。

当時は情熱があったので続けられましたが、精神的にも、肉体的にも修行のような状態だったと思います。

裏話ですが、祈りの旅は一度挫折しています。

僕は日本各地を巡っていましたが「活動を続けていれば、いつかは日本国内だけではなく海外に祈りに行く展開になる」と信じていました。

僕には目標としていた『祈りの旅のモデル』の人がいました。

『Sさん』と呼ばれる沖縄県在住の方ですが、Sさんの活動の記録は数人の著者が本として出版しています。

僕は実際にお会いしたことはありません。
しかしお世話になっていた神社の宮司様がSさんの知り合いということもあり、宮司様から『Sさんが作ったみかん』を手渡されました。

当時の僕は「Sさんが沖縄県で作ったみかんが、富山県の僕の手元にきたことには必ず意味がある」と思ったわけです。
そして妄想かもしれませんが、僕にしてみれば『みかん一個』がSさんからの『バトン』のように感じたため、僕は祈りの旅を決意しています。

冗談みたいな話ですが、みかん一個がきっかけで僕は日本各地を巡っていたような状態です。

Sさんの活動は最初は日本国内だけだったようですが、海外まで足を運ぶようになり、世界各地で祈りをされていたようです。
ですから『祈りの道』が僕の役目や、僕の使命であれば、必ず海外への道が拓けると信じていたわけです。

しかし海外への道は結局繋がりませんでした。

また、旅の費用を稼ぐためにしていた仕事が忙しくなり、休日も減ったため旅を続けること自体が困難になりました。
さらに移動に使用していた自動車も壊れてしまい、「強制的に活動を止められた」ような状態だったと思います。

その時に「必死に活動をしてきたけど、僕はこの道を歩む人生ではないということか……」と落胆してしまい、祈りの旅は休止状態になりました。

その後も近県の神社にはたまに足を運んでいましたが、日本各地を巡るようなことはしなくなったわけです。

ちなみに活動を休止して約9年後の正月休みの時に「今年から再び神社を巡ろう」となぜか思い、少しずつ活動を再開したところ、涼華さんと出会いがあり、『現在』に至ります。

涼華さんと出会ってからは再び日本各地を巡りましたが、僕自身としては「約10年前にお世話になった日本の神々様への恩返し」と思ってやらせていただいています。

約10年前に日本各地を必死に巡っていた時は苦悩の連続でしたが、僕の人生で一番充実した時間でした。
わかりやすいご利益などがあったわけでもありませんし、「何か物質的なものを貰えた」というわけではありません。
しかし無知だった僕は各地の神様に導いてもらえたからこそ、無事に旅を続けられたと思います。

そのため僕にしてみれば日本の神々様には多大なる恩を感じています。
また、恩返しのためにも僕ができることがあればご協力できればと思っています。
その思いは生涯変わりません。

【祈りと芸術】

僕はまだまだ未熟な状態ですが、日本各地を巡りながら長年『祈り』という行為を続けてきたつもりです。

「祈りとはなんぞや?」という問題には『答え』はないかもしれません。
しかし実際に活動してきて学んだことがあります。

僕は完全に無知の状態から開始したため、全て手探りの状態でした。
また、現在に至るまで、誰かから祈りについて教えてもらったことは一切ありません。

そのため、あくまでも『我流』の状態ですが、「むしろ誰にも学ばなくて良かった」と思う『気づき』を経験しています。
そしてその気づきは、僕の人生に大きな影響を与えてくれましたし、『価値観』が変わりました。

「一体何を気づいたのか?」ですが、「人間は表現者であり芸術家」という気づきです。

単純な気づきのようですが、この気づきは『全て』に繋がります。

その人それぞれで『興味』を持つ分野や、『趣味』の活動があると思います。
せっかくの人生ですから、自分の『やりたいこと』をぜひやるべきだと思いますし、その人それぞれで選択は『自由』です。

わかりやすい例として『画家』で説明します。

もし「画家になりたい」と思ったら、その道は絵を描くことを極めていく『画家の道』だと思います。
絵の基礎や、描く技法などを学びながら、少しずつ絵の腕を向上させていき、審美眼を高め、自分の表現したい作品を追求していくはずです。
特に何も学ばなくても天性の才能だけで活躍できる『天才』も一部には存在しますが、基本的には基礎から学ぶことが大切だと思います。

そのため『画家の道』とは、自分の表現したい『思い』を、絵という作品を通じて表現する道です。

そして理想的には『自分の思い』を少しでもダイレクトに『絵』として表現することだと思います。
つまり「絵(作品)は私そのもの」という状態であり、描き手と作品が『一体』の状態です。

言葉で説明すると簡単です。

しかし実はもの凄く難しいことです。
『内なる思い』をダイレクトに『絵』として表現するためには、不要な思いや、不要な要素を削ぎ落とす必要があるからです。

そして『内側にある思い』をダイレクトに『外側に表現する』ことにおいて、最も障害となるのが『我のフィルター』なのかもしれません。

たとえば素人であれば「少しでも上手く描きたい」や、「魅力的な構図」などを考えながら絵を描くと思います。
しかしその状態は『余分』なものが込められています。
なぜならば「上手く描きたい」という状態は、「上手く描こう」としているわけですから、「私が絵を描くことで表現したい思い」という『本質的な思い』とは不要な『思い』が含まれています。

ちなみに「私は上手い絵を描けるようになりたい」という思いから絵を描くことも素晴らしいことだと思います。
しかし、そこから「なぜ上手い絵をかけるようになりたいのか?」という思いをさらに追求しますと、『本質の思い』が存在するはずです。

たとえば「絵を眺める人を感動させたり、癒やしたりしたい」からこそ、上手い絵を描けるようになりたいのかもしれません。
「絵を眺めた人から自分のことを褒めてもらいたい」や、「上手い絵を描くことで周囲から注目されたい」などもあるかもしれません。
また、「私が感動した景色を、絵によって少しでも多くの人に共有したい」などもあると思います。

つまり『本質的な思い』は人それぞれですが、もし「私は上手い絵を描けるようになりたい」と思いながら絵を描くとすれば、「それはなぜなのか?」を探ると自分自身の奥にある『本質の思い』に気づけるかもしれません。

これは画家だけでなく、人間の活動の『全て』においてですが、内側にある『本質の思い』を表現したものが『現象化された作品』となり、地球上に『創造』されます。
それは『本人(個人)』しか創造できない唯一無二の『オリジナル作品』となります。

その事実を知れば『個人の個性』を活かせる喜びや楽しさがあると思いますし、素晴らしい世界だと思います。

本来の「個性を活かす」とは、自分自身の『本質』を純粋に表現することだと思いますので、表現するための『技術』は高めながらも、余分なものを削ぎ落としていくことに成長の学びがあると思います。
そして「道を極めていく」とは、本来の自分の『中心』に近づき、「表現は私そのもの」という状態になることだと思います。

ですから、その人それぞれで『興味』を持つ分野や、『趣味』の違いはあったとしても、「たどりつく場所は必ず同じ」です。

それは自分の『中心(本質)』であり、中心の根源は『愛』ですから、「道を極めれば極めるほど必ず愛に近づいていく」ことになると思います。

そして、もし「道を極めれば極めるほど愛から離れていく」とすれば、それは「求めるべき道の過程において、自分自身の何かが間違っている」と気づくべきだと思います。

たとえば『武士』がいた頃の日本では、剣士たちは『剣の道』を極めようとしたかもしれません。

剣の道は『剣術』の向上の道になると思いますが、剣技を競うだけであれば『型』を重視すればよいだけかもしれません。
しかし『剣の腕』で『最強』を求めるのであれば、斬り合いであり、殺し合いになってしまいます。

最強を求めて、命をかけながら他者との斬り合いによって、『自分の存在』を高めていった人も昔はいたと思います。

問題は「最強になるためには、他者との斬り合いであり、殺し合いを続ける必要があるのか?」ということです。

愛は成長と繁栄であり『命の道』といえます。

しかし、斬り合いや殺し合いは『命を奪う道』となってしまいます。

そのため、殺し合いを極めれば『愛』に近づくのではなく、むしろ愛から離れていくことになるはずです。

無事に勝ち続ければ『最強』に近づけるかもしれませんが、負けた瞬間に自分の命を失うのであれば『破滅の道』です。

また、勝ち続けたとしても他者から『恨み』を買う可能性もあるため、争いは争いを呼び続けます。
つまり『死ぬ』か、その道から「抜ける」ことを選択しないかぎり、精神的な安らぎを含め、救いの道は閉ざされたままになるはずです。

ですから進むべき道において、愛から離れていくのであれば「進む方向性の何かが間違っている」ということに気づくべきだと思います。

ちなみに勝負の世界であれば、勝ち続けることが大切だと思いますが、ある時に「私は常に勝つことを求めているのか?」と疑問をいただくかもしれません。
また、「勝つとは一体何に勝つことなのか?」と『勝負』に対する意味を考えるようになるかもしれません。

そこから「私が本当に求めている強さとは何か?」という問題に関して、自分自身の『内なる探究』がはじまるのだと思います。

人間は肉体の性質的に、必然的に『外側』に意識を向けやすくなっています。
そのため、『強さ』だけを求めた場合、『外側』に意識を向け続けたままになる可能性が高いです。

たとえば「目の前にいる敵を倒す」という状態です。

その段階では「他者との腕の競い合いによって強さを求め続ける」と思います。
しかし外側に向いていた意識が、『自分自身の内側』に向けられ時に『最強の敵』と出会うことができます。

最強の敵とは『自分自身』です。

そのことに気づくことができれば、他者と争うことの無意味さに気づくはずです。

そしておそらくですが、究極的に極めていけば『剣の道』だとしても、最後は『無刀』になると思います。
つまり剣を持つことすら不要になるわけですが、その時は揺るぎない『私』が在るだけになるはずです。

なぜならば、「倒すべき相手は己の内側に存在する」と知るからです。

ただし、そこまでたどり着くまでは、剣技を含めて経験を増やし、剣技も、肉体面も、精神面も至高の状態になる必要があるかもしれません。
全てにおいて絶対的な『自信』があるからこそ、もはや揺らぐことが無くなるのだと思います。

ちなみに日本には『武士道』がありますが、「文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以って徹底責任をとる」ということが基本のようです。


僕は武士道に興味が無いため詳しく学んでいませんが、文武両道の鍛錬は精神面も鍛えられるため素晴らしいことだと思います。

ただし、一部では「命をかけて戦い、最後は潔く散ることが美徳」のような思想のイメージが強いです。
特に日本の場合、玉砕を覚悟して行動する『過激な人』も多いわけですが、おそらくその行為に『独自の美徳』を感じるからのような気がします。

しかし僕は「生きるからこそ自分を活かすことができる」と思っています。

また、命をかけて戦うような状態は「あくまでも昔の話にすぎない」と感じます。
 

ですから『信念』を大切にすることは素晴らしいことですが、『死』を覚悟しての行動はやめるべきだと思います。

話を戻します。

現代の人間社会においては、芸術家を含めて、様々な分野で『商業的な成功』を求められがちかもしれません。

たとえば「人気の出る作品」や「売れやすい作品」や「注目されやすい作品」などは商業的に成功しやすいのではないかと思います。
また、流行の変化も激しいですし、「一時的な流行で廃れることも多い」です。


そのため、現代の人間社会は『使い捨てできる作品』を求められがちかもしれません。

これは僕の持論ですが、せっかく『一冊の本』を作り上げても、誰にも手に取ってもらえないのであれば、事実としては『無意味な作品』になってしまいます。
なぜならば、まず本を手に取ってもらい、ページをめくってもらえなければ、『作者の思い』であり、伝えたいことは何も伝わらないからです。
 

また、『本』は中身を読んでもらえてこそ『存在(本質)』が活きますが、読まれなければ『置物』でしかありません。
ですから、少しでも多くの人に『本の内容』に興味を持ってもらえるようなエンターテインメント性は少なからず考えるべきかもしれません。

しかし最も大切なことは、作者の思いを表現することだと思います。

たとえば、『売れること』を目的にした作品や、『人気』が出ることを目的にした作品の方が『商業的』には成功するかもしれません。
また、多くの企業はビジネスとしての成功を求めがちですから、「売れない作品は市場から消えていく可能性が高い」です。

しかし『商業的な成功』を重視して、『作者の思い』が置き去りになった作品は『死んだ芸術』だと思います。

なぜならば作者の『本質的な思い』が無視されているわけですから、「表現者として作者は死んでいる状態と同じ」です。
また、創造主となる作者が、自分を殺した状態で創造するわけですから、「創造物には魂が込められていない」と思います。

ちなみに僕自身、昔は「面白くて人が集まる作品を作ればいいだけ」と思っていたため、『冗談を重視したブログ』を書いていたことがあります。

精神世界系に興味を持つ前の頃ですが、当時の僕は「とにかく人気を集めればいい」という状態で活動していました。

その頃に作ったのが『ユーモアな一枚の手書きの絵』と『100文字程度の短文』と『お笑い』と『恋愛ネタ』を融合させた内容のブログです。

記事の最初には『手書きの絵』を必ず掲載しますので、誰が見ても内容がわかりやすいですし、文章も100文字程度なので短時間で読めます。
また、恋愛ネタのため男女問わず共感する部分もあると思いますし、さらに笑えるという最強の組み合わせで構成していました。

作者の僕が「シュールだけど絶対に面白い」と思う内容にしていましたので、それなりに人気がありました。
お笑いのジャンルのブログランキングでは上位でしたし、少し『反則技』を使用しましたが、ブログ開始から数ヶ月には別冊宝島編集部が出版していた『このブログが凄い!』という本の中で紹介された経験があります。

しかし作者の僕自身が「ゴミのような内容」と思いながら書いていたので、すぐに嫌気がさしてしまい削除してしまいました。

その後に精神世界系の方に興味が向いたこともありますが、『価値観』が変わってしまい、『本質的なもの』を求めるようになり、無駄に人を集めることもしなくなったわけです。

現在もブログでは少し冗談を書くことがありますが、『本質の部分』で伝えたいことがあるからこそであり、冗談はあくまでもオマケ程度です。

そのような自分自身の経験があるからこそ感じるのは、現代の人間社会は『死んだ芸術作品』で溢れているということです。
『全て』とはいいませんが、「とにかく人気を集めればいい」という作品が多いと感じます。

その『原因』となっているのは現代の人間社会が『使い捨てできる作品』を求めがちな状態かもしれませんし、それに加えて商業的な成功を求めがちだからこそだと思います。

現実問題として、現代の人間社会においては「お金を稼がなければ食べていけない」という問題もあるかもしれません。
しかし、自分自身の表現したいことを押し殺して活動するのであれば、自分自身を活かすこともできなくなります。

ですから『作家性』を大切にしながらも、人間社会に対しての『エンターテインメント性』を両立させるようなバランス感覚が大切ではないかと思います。

ただし、絶対に捨ててはならないのは作者の『本質的な思い』です。

商業的な成功も大切かもしれませんが、自分の表現したいことが表現できない状態であれば、結果的に自分を喜びで満たすことはできないと思います。
また、気持ちをごまかすことは可能かもしれませんが、『自分らしく生きる道』から目を背け続けることになるのではないかと思います。

ちなみに画家の場合であれば、「私が描きたいものを描く」というシンプルなことですが、実は「シンプルになることの方がよほど難しい」かもしれません。

特に絵の場合だと、自分の思いをダイレクトに表現するためには、自由に描けるようになるために修行が必要だと思います。
たとえば『線』を描くだけでも、素人と玄人では『線の質』が全く違います。
ひたすら絵を描き続けた長年の経験によって、『自分の描く線』が徐々に完成されていくと思います。

ですから「表現したいこと」が自分の中に『明確』にあったとしても、絵の場合に関しては『描く技術』や『知識』や『経験』を含めた自分自身の『力量』も必要です。
また、絵を描く際は、画材を含めて『道具』を用意する必要があります。

一流の画家であれば、技術も経験もあると思いますので、自由自在に「描きたいものを描く」ことが可能だと思いますし、「絵は私そのもの」という状態だと思います。
ただし、そこまでたどりつくまでは、苦悩もあったと思いますし、様々な経験をしているはずです。

僕が幸運だったのは、『祈り』の活動となる『祈りの道』を歩んだことでした。

一番の利点としては『道具』を使用しないことだと思います。
僕は基本的に『素手』の状態で活動していましたし、使用するのは『自分の身体のみ』です。

道具を使用しないため、道具を扱うための練習や訓練も不要です。
また、『技』や『術』などを覚える必要がありません。
本来であれば『祝詞』ぐらいは覚えるべきだったのかもしれませんが、僕は祝詞も覚えずに活動をしていました。
 

とにかく日本各地の『現地』に直接足を運び、「真剣に祈るだけ」という単純な活動です
さらに完全に無知な状態だったため「祈りとはどのようにすればいいのか?」と常に自問自答の連続でした。
 

そもそも祈りには『正解』はないと思いますが、『自分の身体のみ』しか使わないからこそ、やれることは限られます。

「祈るだけ」です。

ちなみに最初の頃は「祈る際には集中力が必要」と思ったので、耳栓をしながらお祈りしていたこともあります。
また、長文の祝詞は覚えませんでしたが『ひふみ祝詞』や、『布瑠の言』、そして短縮版の『龍神祝詞』を祈りに加えることもありました。
さらに祈りの言葉を毎回変えてみたりなど、様々なことを試しましたが、ある時に気づきました。

「自分の思いが祈りそのもの」ということです。

凄く単純な気づきです。

しかし「僕が思ったことを、僕は祈りにしているだけ」という『気づき』は、僕にとって大きな気づきでした。


そして「全ての人間は、表現者であり芸術家」と気づいたわけです。

祈りの道で使用するのは『自分の身体のみ』だからこそ良かったのだと思います。
なぜならば道を極めようとすれば、自分自身の『思い』であり、『本質』に近づいていくだけだからです。

たとえば「上手に祈りたい」と思う時もありましたが、僕の願いは『上手』に祈ることではありません。
また、「正式な型を覚えるべきなのだろうか」と悩むこともありましたが、僕の願いは『正式な型』を演じることではありません。
さらに「お祈りは綺麗な言葉を並べるべきなのだろうか」と考えることもありましたが、心のこもっていない言葉など無意味に感じます。

そして突き詰めれば突き詰めていくほど、余分な思いは削ぎ落とされていき、「自分の思いが祈りそのもの」ということに気づいたわけです。

たとえば『道具を使う必要がある道』を極めようとすれば、自分の身体以外に『道具』という『フィルター』があります。
そのため、道具の『使い方』や『技術』を向上させる段階が必要だと思います。
そして道具を『自分の身体の一部』のように扱えるようになった頃から、「私は道具を使って何を表現したいのだろう?」という『自分の本質』を少しずつ探るようになっていくのではないかと思います。

そもそも道具を上手に使うことが重要ではなく、「道具を使って私は一体何を表現したいのか?」ということに注目するべきです。

なぜならば『道』とは、『自分自身』を知る道であり、自分自身の『本質』に近づく道だからです。

そのため道具を扱うことが問題ではなく、道具を使って自分自身を『純粋』に『自由』に表現することが道を極めていくことだと思います。
そして道を極めたとき、『私(本質)』と『作品(表現)』が一体となり、「私の表現は私そのもの」になるはずです。

どの『道』を選択するのかは個人の自由ですが、技術や経験を高めながらも、ぜひ「この道を通して私は何を表現したいのだろう?」という自分自身の中心を探ってみてください。
道を極めるためには様々な経験も必要だと思いますので『近道』は無いかもしれませんが、自分自身の『中心』であり、自分自身の『本質』に近づいていけるはずです。

余談ですが、僕が『スポーツ選手』を眺める時は、様々な動きの際に『身体の中心軸』がブレていないかを見ています。

スポーツには様々なジャンルが存在しますが、どのスポーツにおいても『プロ』や『一流の選手』は、動く際に身体の中心軸が全くブレないため、一瞬見ただけでわかります。
しかし素人などは一見すると上手に動いているように見えたとしても、身体の中心軸が整っていないため、動作のたびにバランスが崩れがちです。

身体の中心軸のことを『体幹』などと表現されますが、経験によって鍛えられた選手は、体幹が整い、自然と自分の中心軸に近づいていくと思います。
そして中心軸がブレない状態になると、常にバランスが保たれているため、自分が動きたい時に動き、どのような体制からも次の動作ができるようになるはずです。

その状態は「私が動きたいと思った時に私はイメージ通りに動くことができる」という最高のパフォーマンスができる状態だと思います。
つまり「私の表現は私そのもの」という状態です。

『精神面』においても、『肉体面』においても、道を極めていけば必ず中心に近づいていき、中心軸を保てるようになります。
その過程において、『自分自身のバランス』を知ることも大切ですし、そのためには練習であり、技術の向上であり、経験が必要なのだと思います。

ちなみに『コマ(独楽)』という玩具がありますが、独楽でたとえるとわかりやすかもしれません。

独楽は中心軸が保たれている時は安定して回転することができますが、中心から少しでもバランスを崩すと不安定な回転となり、最後は倒れてしまいます。

人間が歩む『道』は様々ですが、どの道を選んでも『素人の段階』では中心軸が不安定な独楽の回転のような状態かもしれません。

なぜならば素人の段階では『外側』に意識が向いている場合が多く、外側に意識を向ければむけるほど中心軸が傾くため、揺れは激しくなり独楽は倒れてしまいます。

その状態から様々なことを学び、経験を増やすことで不安定な状態から揺れが減り、中心軸に近づいていきます。
そのためには『外側』に向いている意識を、「答えは外側では無く、自分自身の内側にある」と気づいて、自分自身の『内側』に向けることが大切です。

そして中心軸を保てるようになってきますと、バランスが整い常に安定して回転できるようになり、自分自身の『本質的な活動』が可能になるはずです。

『【未完】言葉と祈りと愛について 18』につづきます。