『【未完】言葉と祈りと愛について 3』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。

【自分を活かすことこそ、自分が活き続ける道】

生命の場合は『宿命』として『死』は逃れられないことかもしれません。
物質的に存在している限り、『肉体』には必ず寿命があるため、永遠には維持することはできません。

しかし『思い』や『願い』は、次の世代に『繋ぐ』ことは可能だと思います。
また「自分を活かす」ことは、次の世代にも『活きる』ことになるはずです。

たとえば『ご先祖様』たちは、肉体としては亡くなっていたとしても、子孫の『心』や『思い出』の中ではいつまでも存在しています。
また、たとえ肉体が滅んでも『思い』は後世に活かされ、活き続けます。

そういう意味では自分が人間として生きている間に『自分の存在』を活かせば活かすほど、他者の中で活かされ、後世にも活きるわけです。
むしろ、自分が人間として生きている間に『自分の存在』を活かさなければ、いつのまにか存在は忘れ去られ、消えていくことになると思います。

ちなみに『イエス・キリスト』は十字架で磔にされて亡くなった後で、復活して弟子たちの前に姿を見せています。
キリスト教の信者の人は、「イエス様は十字架の上で一度死亡したが、奇跡によって三日後に肉体が蘇った」と信じているかもしれません。

しかし、あくまでも僕の解釈ですが、「イエス様は肉体的に復活したのではなく、弟子たちの記憶や思い出の中で甦っただけ」だと思います。

たとえば「あの人は亡くなってしまったけど、いまでも私の隣にいるような気がする」と故人を思うことがあると思います。
実際には隣にいませんが、亡くなっていたしても、故人に思いを馳せることで「心の中で存在が活き続ける」わけです。

イエス様の凄いところは、亡くなった後でも信者に『希望』を与え、世界中の人から思いを馳せられ、「現在も活き続けている」ことだと思います。
そしてイエス様は『神の愛』を伝えようとされていたわけですが、その思いは約2000年間繋がっています。

ですから『希望』は未来へ思いを繋ぐ、重要な要素だと思います。

正直なところ僕はイエス様に対して熱心な信仰者ではありません。
そもそも「イエス様は実在の人物なのか?」という問題もありますが、『教え』と『信仰』は現在まで活き続けているのは事実です。

また、イエス様に限らず様々な先人たちが残した『教え』や『知恵』のおかげで現代の人間社会があります。

そして僕自身、先人たちが人生をかけて残した『思想の記録』のおかけで、様々なことを追求できる機会をいただいています。

正直なところ、僕が伝えていることは『先人たちが残してくれた知恵や思想の集合体』のようなものです。
つまり僕の活動は『先人たちの燃え尽きない思い』を後世に活かすためのお手伝いとして、自分の存在を活かしているという『繋ぎ』にすぎません。


ただし、せっかく先人たちの思想をお伝えするのであれば「現代向けに少しでも内容をわかりやすくできないだろうか?」という思いで活動させていただいています。

また、先人以外にも『自分を導いてくれた人』や『様々な存在』のおかげで「現在の自分が存在している」わけです。

そのため『感謝』しかありませんし、『謙虚』にならざるを得ません。

そもそも人間は『自分一人』では生きられません。
時には誰かに助けられ、時には助け合いの繰り返しです。

ちなみに「自分が生きた証を残したい」と願い、『自分の名前』や『功績』を残すことに必死な人もいると思います。
それも素晴らしいことかもしれません。

しかし大切なことは「無理に大きなことをしようする」のではなく、等身大の『現在の自分』を活かすことだと思います。
むしろ現在の自分を活かさずに「いつか私は大きなことを成し遂げたい」と思うだけでは、正に「夢を見ている」だけです。

ちなみに僕の祖父はすでに亡くなっていますが、僕が子供の頃は50代で無職の状態でした。
祖父の一日の行動は庭で花を育てたり、スズメに餌をあげたりなど、世間一般的に考えれば「働かずに一体何をしているのか?」という状態だったと思います。
おそらく僕の両親も祖父には頭を抱えていたかもしれません。

しかし、僕にしてみれば保育園に毎日自転車に乗って迎えにきてくれるなど、祖父はとても優しい存在でした。
そして共働きだった両親の代わりに、毎日僕の遊び相手になってくれていました。
そのため『現在の僕』が存在するのは、間違いなく祖父の存在のおかげです。

祖父の若い頃は知りませんが、僕が知る限り「祖父は人間社会のために役に立つようなことはほとんどしていなかった」と思います。
しかし祖父は祖父なりに『自分ができること』を僕にしてくれていたのだと思います。
だからこそ僕の中で、祖父は現在も活き続けています。

ちなみに自分の利益だけを求めて、他者を傷つけたり、騙し続ける人もいます。

自分自身が健康な時は特に気にならないと思いますし、むしろ自分の人生を面白おかしく生きられたら幸せかもしれません。

しかし身体が弱った時や、老後になった時に、自分の身の周りには誰もおらず、孤独な人生になる可能性があります。

そして亡くなった後も迷惑をかけた人たちから恨まれ続けたり、「あの人は嫌われ者のひどい人だった」などの悪名しか残っていない状態は悲惨だと思います。

 

「人間は死ねば関係ない」と思うかもしれません。

しかし子孫から存在を忘れられたり、全く思い出してもらえないような状態であれば、『存在』が消えていき「正に死んだ人」だと思います。

ですから生きている間に「自分の存在をどのように活かすのか?」ということがとても大切なことだと思います。

【愛について考える】

愛を学ぶためのたとえとして「子供のこと」を使用しています。

その他では『花(植物)』や『ペット(動物)』に関して考えてみるのも愛に関しての『気づき』のきっかけになると思います。
そして、人間関係であれば『男性』と『女性』という『男女の関係』が、特に愛を学びやすいのではないかと思いますし、人間の成長を促してくれる気がします。

【花(植物)の場合】


目の前に『鉢植えの花』があります。
枯らさずに育てるためにはどうすればいいでしょうか?

たとえば「枯れないように水をあげないといけない」と思うかもしれません。
しかし水をあげるとしても、水をあげすぎると根腐れする可能性があります。
ですから『適切な量』と『適切なタイミング』を考える必要があるわけです。

そして「元気に育つためにはなるべく日光に当てた方がいいかも」と思いつくかもしれません。
しかし日光に当てすぎても枯れる可能性がありますので、程よいバランスが必要です。

また、季節の問題は仕方ないかもしれませんが、花の寿命を少しでも伸ばすためにはなるべく『様子見』を心掛けるべきです。
まぜならば虫の問題や、植物の病気に感染する可能性もありますし、突然予期せぬ出来事もあるかもしれないからです。

しかしながら心配しすぎると、むしろ花の成長を邪魔するようなこともありますので「必ず育つ」と花の成長を信頼することも大切だと思います。

ただし、正解の方法はありません。
何もせずにある程度放っておいても元気に育つ場合もあるからです。

しかし、「花は言葉では語ってきません」ので、人間の側が「少しでも花の状態を理解しよう」という思いを持って、『適切な対応』をその都度することが大切です。
それが『思いやり』になるわけですが、花の状態を理解しようとしない限り、適切な対応はできないと思います。

そして一番理想的な状態は、人間の側から花に少しでも近づいて、「まるで自分自身のことのように花のことを大切にしてあげる」ことだと思います。

いつの日か花が枯れてしまう時が訪れるのは仕方ないかもしれませんが、健康に成長し、枯れる前に種や苗を残していれば、今度は『生まれ変わった新しい花』として、再び育てることが可能になるかもしれません。

この流れは人間の側が花に対して思いやりの気持ちを大切にして、愛するからこそ可能になると思います。

ちなみに僕には『師匠』のような特別な存在はいませんでしたが、植物を含めた『様々な自然』から学ぶことが多かったです。

植物などの声を聞けるわけではありませんが、眺めていると様々なことを教えてくれます。

自然は愛で溢れていますので、学ぶためのヒントの宝庫だと思います。

【ペット(動物)の場合】

猫を自宅で飼うことにしました。
健康に育てるためにはどうすればいいでしょうか?

猫は言葉では語ってきません。
そのため人間の側が「少しでも猫の気持ちを理解しよう」という思いを持って、『適切な対応』をその都度することが大切です。

たとえば猫はエサを与えれば与えるほど食べ続けてしまうことがありますが、猫の健康を本気で考えてあげた場合、猫がエサを欲しがってもエサの量の調整をするべきかもしれません。
この場合「可愛いから好きなだけエサをあげる」ような状態は逆効果であり、むしろ猫のためを思ってあえてエサを減らすことが大切だと思います。
それは『思いやり』からの判断であり、猫に対して厳しくしたり、嫌がらせをしたいわけでは決してありません。

ちなみに猫は自由を好みがちです。
無理に干渉しようとすると逃げていきますが、むしろ猫から寄ってくることもあります。
その時は人間の側が猫の気持ちを少しでも理解してあげて、適切な対応してあげることが大切だと思います。

また、猫は自由に行動します。
性格が大人しい猫であればあまり問題は起きないかもしれませんが、元気な猫は家の中を傷つけたり、様々な物を壊すことがあります。
さらに予測不可能な出来事も多いですが、『何か問題』が起こるたびに猫に対して感情的になったり、文句を言っても仕方がありません。

そのため人間の側が『大きな心』を持って受け入れてあげることが大切です。
そして、壊れ物などが心配な時は、『人間の側』が気遣いをして、壊されないように事前に対処するべきだと思います。

猫との生活は人間の側が猫に対して思いやりの気持ちを大切にして、愛するからこそ可能になると思います。

猫に限らず、様々なペットでも同じような状態だと思います。
動物は予測不可能な行動をするからこそ、ペットとの生活は様々なことを学べると思います。

【男女の関係の場合】

男性と女性は『性別』が違うからこそ、持っている『性質』が違います。
そもそも『肉体面』と『精神面』が真逆の性質ともいえます。

男性が持つ『男性性』は、『感情』よりも『思考』の判断を重視し、『頭(肉体面)』が優先ともいえます。
社会的であり、『能動的』な傾向が強いと思います。 

女性が持つ『女性性』は、『論理』よりも『感覚』の判断を重視し、『心(精神面)』が優先ともいえます。
家庭的であり、『受動的』な傾向が強いと思います。

つまり男性と女性は『異質な存在』であり、だからこそお互いを受け入れ、お互いを認め、お互いを尊重しながら信頼関係と繋がりを深めることが大切です。

『肉体面』で繋がれば『一体』になることは簡単かもしれません。
しかし肉体関係だけでなく、『精神面』でも繋がることが大切です。
肉体面と精神面での『一体化』が本来あるべき『男女の愛の姿』だと思います。
そして『男女の一体化』によって『新しい生命』が誕生し、愛によって繁栄していくのが、本来あるべき人類の姿ではないかと思います。

また、男女の関係は『男性性』と『女性性』という性質の違いから、お互いが『調和』を学ぶことになりますし、お互いを『統合』させるために、お互いを活かしあえる関係だと思います。

ただし、世の中には様々な人がいますので一部には例外も存在するかもしれませんし、「必ず男女関係にならないといけない」というわけではありません
たとえば「生涯独身の人は愛を学べないのか?」となりますと、独身でも愛を学べます。

しかし、男女の関係の方が、お互いの性質の違いなどから『様々な出来事』を経験する機会が増えるはずです。
そもそも人間同士の交流ですから、自分の思い通りにならないことも多いと思いますし、相手に対する思いやりも大切です。
だからこそお互いが愛を学ぶ機会が増え、お互いの成長を促してくれる気がします。

そして大切なことは、自分自身の中にある『男性性』と『女性性』を統合し、『調和』のとれた『自己の確立』を目指すことだと思います。

【計算ではなく心からの思い】

様々な要素をお伝えしていますが、『頭』で理解するだけであれば、「様々な要素を頭で計算して、適切な行動をするだけ」と思ってしまうかもしれません。

たとえ頭だけでも『思いやり』の気持ちをもって、常によく考えて適切な行動を選択できれば素晴らしいことだと思います。
なぜならば「思いやりを大切にしよう」という『意識』を少しでも持つことによって、『言葉』も『行動』も変わるからです。
また、様々な『気づき』も増えると思います。

しかし大切なのは『頭だけ』ではなく『心からの思い』です。

自分自身の『純粋』な気持ちを大切にして、常に『誠実』であるべきだと思います。

『温度』という表現は適切ではないかもしれませんが、心からの純粋な思いであればあるほど『熱』や『温もり』が入ると思います。
なぜならば『愛』が含まれるからです。
そしてその『思い(愛)』は相手に伝わると思います。

しかし、頭だけで計算的に行動した場合は、『愛』が含まれないため『無機質』のような状態になると思います。
感覚的なことですから説明が難しいですが、相手は感覚的に「何となく冷めている」ような印象を感じ取ってしまうと思います。
また、頭だけであれば『嘘』も可能になるからです。

たとえばですが、『厳しい教師』が2人いたとします。
『愛情を持って生徒を叱るA先生』と『容赦なく生徒を叱るB先生』の2人です。

もし両方の教師から『同じ言葉』と『同じ内容』で叱られた場合、叱られた生徒はおそらく違う印象を感じると思います。
「叱られた」という事実は一緒だとしても、そこに『愛情』が込められていた場合、「先生は私のためを思って叱ってくれた」と何となく感じるのではないかと思います。
それは『言葉』の奥に「愛を感じる」からこそであり、愛は胸に響くからです。

おそらく誰でも、自分の人生を振り返ると「あの人は凄く怖かった」などと、記憶に残っている存在がいるかもしれません。
特に自分の子供時代を振り返ると「怖かった先生」は少なからずいると思います。

現代の教師は熱意がどれだけあるのかはわかりませんが、僕が子供時代の先生たちは、様々な意味で「みんな熱かった」です。
現代であれば『暴力教師』などと問題になるような先生もいました。
しかし、裏を返せば当時の教師たちは、熱い思いを持って「本気で先生をやっていた」のだと思います。

子供だった当時はわからなくても、大人になって振り返ると『恩師』と感じる人からは「心や愛を感じる」はずです。

【自分軸を失わない】

愛には『向き合う』、『受け入れる(受容)』、『許す(赦す)』、『思いやり』、『優しさ』、『厳しさ』、『成長』、『繁栄』、『信頼』、『希望』、『感謝』、『謙虚』、『誠実』、『純粋』、『調和』、『平等』など様々な要素があると思います。

ただし『根本的な部分』として大切にしないといけないことは『自分軸』です。


『自分軸』を大切にしない場合、全ての要素が「自分自身を苦しめる要素」となり、自分自身に悪影響をもたらします。
なぜならば自分軸を見失い『他人軸』になるからです。

たとえば「相手を受け入れよう」、「相手を許そう」、「相手に対して常に思いやりを持とう」と思いながら活動するのは大変素晴らしいことです。
また、他者からの視点では「相手のために必死になれるのは何て素晴らしい人なんだ」と褒めてもらえるかもしれません。

しかし『自分自身』のことを放置したままで、「相手のために」と必死になっているとすれば、「自分自身と向き合っていないだけ」であり、ただの『逃避』です。

「他人を救うことで自分が救われる」という状態は、裏を返せば「自分を救うために他人を利用している」ような状態です。

表現が適切ではありませんが、「病人が他の病人を必死に助けようとしている」ような状態であれば、「まずは自分自身の病気を治しましょう」と指摘されると思います。
他の人を助けたいのであれば、自分自身が『元気な状態』になってからだと思います。

たとえば『光』で説明するとわかりやすいかもしれませんが、自分自身が『弱い光』であれば、他者の『光』を輝かせることはできません。
また、場合によっては「他者の光の輝きをむしろ奪う可能性もある」わけです。

ですから、まずは『自分自身』の光の輝きを強めるべきだと思いますし、結局のところ自分自身の光の輝きが高まれば高まるほど、周囲に光を送ることができるようになってきます。
そのためには『自分軸』を大切にして、「自分自身を愛せるようになる」ことが先決だと思います。

そして自分の周囲の状況であり、人間関係は『自分自身の投影』ともいえます。
自分自身の投影であれば、『自分自身』が全てに影響をもたらす『根源』ですから、結局は自分自身と向き合って、自分自身を『改善』させていくことが一番重要です。

また、自分自身の『全て』を自分自身が受け入れて愛せない状態であれば、他者を含め『世界』を愛せないことになります。
なぜならば『世界』は自分自身の投影だからです。

たとえば相手のために自分自身を犠牲にするような状態であれば、結局のところ「自分自身を大切にしていない」ことに繋がります。
「相手を受け入れる」ことは大切なことだと思います。

しかし『自分軸』の視点で「自分自身を愛する」ということから離れたような状態であれば、「受け入れるべきではない」ということもあると思います。

極端な例になりますが、相手から「死んでください」と求められた場合、何でもかんでも受け入れる状態であれば、死を受け入れることになってしまいます。
この場合、「なぜ私は死んでくださいと求められたのだろうか?」と自分自身と向き合って『原因』を探るべきだと思います。
当然ですが、実際に死ぬ必要は全くありません。

そもそも『そのような状況』になったとすれば、自分自身の『日頃の行い』について何か間違いがないかよく考えるべきだと思います。
なぜならば「死んでください」と他者から求められることは、本来であればあり得ないことだからです。

大切なことは自分自身の『中心』との繋がりを意識することです。

そして中心との繋がりと自分軸を大切にすれば、閃きや『直感』が働きやすくなると思います。

また、自分自身にとって適切な判断ができるようになってくると思います。


【責任転嫁をしない】

ちなみに自分自身を守るために、『全ての問題』を相手や他者のせいにする人が人間社会には多いかもしれません。
たとえば「自分は悪くない」と主張して、全てを他者の責任に押し付けて『責任転嫁』するわけです。

責任転嫁は自分の存在を守るためであり、自分を大切にした『自分軸』からの行動のように感じるかもしれません。
また、自分自身が責任を負わないのは「楽な生き方」かもしれません。

しかし「自分は無関係」と逃げるだけであれば、自分自身と向き合っていないわけですし、自分自身が成長しませんし、学びもありません。
つまり「成長や学びの機会を放棄するだけ」ですから、実は自分を大切にしていないのだと思います。
そもそも『心』を大切にする人は、他者への責任転嫁は「心が痛むので絶対にしない」と思います。

【忍耐と信念と信仰心】

『覚悟』や『忍耐』に関してですが、「愛を大切にする」そして「愛から離れない」ということを決めたら、その思いを貫くことだと思います。
それが『信仰心』であり、守るべき『信念』になると思います。

ただし、人間は『肉体』を持っていますので、常に様々な欲望と向き合うことになります。
このことを『結婚』という表現で伝えているのが『神との結婚と不倫』という記事になります。

 

人間社会で生きていますので、常に周囲の人々から様々な声も聞こえくると思います。
声の中には「欲望を刺激するような内容もある」と思います。

しかし一番の問題は『人間社会』であり、現代の人間の多くは「心や愛よりも力を求めている」ということです。

権力者たちは「力を求める大切さ」を伝えるため、感化された信者は力を求めるようになります。
そして周囲の人に「力を手にすれば欲しいものが得ることができ、幸せな人生を送れるようになる」などと『力の重要性』を説き続けます。

たとえば「愛だけでは食べていけない」などと真剣に伝えてくるわけです。

ただし、騙そうとするつもりは一切なく、むしろ『思いやり』からの助言です。
また「私はあなたのためを思うからこそ伝えている」という親切心からだと思いますが、まるで宗教の勧誘です。

はっきり言いますと、人間社会の流れに感化され『悪魔の手下』となっているような人間が大半になっています。
なぜならば「力こそ全て」という状態は、『愛』とは真逆の性質だからです。

ちなみにキリスト教では神に対抗する存在となるため『反キリスト』と呼ばれます。
『悪魔の具現化』とされていますが、正体は『人間』であり、反キリストとはどこにでもいる『一般人』のことです。

おそらく多くの人は「悪魔は怖い」と感じると思います。
むしろ「この世は悪魔は本当に存在するのか?」と疑うと思いますが、自分自身では気づかないうちに悪魔の側になっている人が大半だからこそ厄介な問題です。

また、困ったことにキリスト教の信者も「実は反キリスト状態になっている人が多い」と感じます。
しかしそのような人たちが「世の終わりには反キリストが登場しますので、私たちは神の救いを信じましょう」と信者に教え続けているわけです。
まるで冗談みたいな話ですが、悪魔のやり方は『巧妙』だからこそ騙されてしまう人が多いです。

だからこそ僕は「くれぐれも愛から離れてはいけません」と伝えています。
宗教を信じる必要もありませんし、「神様を信仰しましょう」などと伝えるつもりもありません。
「現代の人間社会に染まって愛から離れると、悪魔の側に行く危険性が高い」からこそ警告しています。

反キリストは少しでも多くの人間を愛から離れる方向に導く活動をしています。
「破滅の道に道連れにしたいからこそ」です。

もし宗教であれば神への反逆を信仰するため『悪魔教』ともいえるでしょう。

しかし人間社会で力を求める人たちは「力を持てば人間社会で勝ち抜いていける」という状態ですから、自分自身が反キリストとなって『悪魔教』を必死に布教していることに全く気づいていません。

そのため人間は『人間社会が作った幻想』に騙されて『洗脳』されているわけですが、「みんなが正しいというから間違いない」という状態で『盲信』を止めません。
つまり、人間は人間同士で人間を騙し合っているわけです。

また、「世のために」などと言いながら、実際は自分の欲望を満たすことに必死な『偽善者』も数多くいます。

残念ながら「愛や心を大切にするべき」と本気で思っている人は、かなり少ない状態だと思います。
困ったことに「力こそ全て」に反する存在は、少数だからこそ異端者として扱われるかもしれません。

そして愛や心などの話をすれば「変な宗教に騙されているのでは?」とむしろ心配されるわけです。
また「何の役にも立たない心や愛などを求めるなんて、あの人は頭がおかしくなった」と馬鹿にされることもあるかもしれません。

そのため周囲から様々な『迫害』や『非難』を受ける可能性が高いわけですが、「それでも私は愛を大切にする」という強い『忍耐』が必要だと思います。
さらに「誰から何と言われようとも自分が信じるものを守る」という『覚悟』も大切だと思います。

たとえば大勢の人が「右に進むのが正しい」と信じている時に、自分だけが「私は左に進む」というのは『勇気』もいります。

また、自分の感覚からの『直感』も大切だと思います。


ですから現代において「愛を大切にする」ということは『忍耐』と『信念』を強く持ち、「愛を守り抜く」と決めて、自分自身の『愛』から絶対に離れないことが大切だと思います。

ちなみに現在の人間社会は『二極化』が激しくなっています。

陰謀論を信じる人たちは『新世界秩序(New World Order)』のことを悪魔側の計画と信じています。
人間社会を支配しようする『世界政府』たちの存在によって、完全なる管理社会の実現をしようとしていると信じているからです。
つまり『力』によっての支配の方法ですが、だからこそ「新世界秩序が実現した世界は危険」と騒いでいます。

しかし愛によって統一される世界も『新世界秩序』になります。
『愛』で調和された世界ですから、『愛』こそが世界の秩序であり、支配から解放された自由な世界の実現です。
そのため本来であれば「新世界秩序の世界は大歓迎」となるはずです。

ですから自分自身が「何を大切にしているのか?」によって、見ている世界が全く『真逆』になってしまうのが現在の人間社会です。

ちなみに『日月神示』では『一厘の仕組み』という神の秘策を伝えていますが、「愛で世界はひっくり返る」ことになります。

一厘とは『0.001』ですが、全ては『愛』の中に存在します。
ですから世界が闇に包まれて、『九割九分九厘(0.999)』もしくは『99.9%』が闇になったとしても「全ては必ず愛の中にある」ので、結局は「愛になる」わけです。
むしろ九割九分九厘が闇にならないと、闇の中に輝く『愛の光』に気づけないほど、「人間社会は愛を見失っている」のかもしれません。

現代の人間社会では「愛など無意味」と異端者扱いをされるかもしれませんが、ぜひ愛を大切にしてください。
遅かれ早かれ『逆転現象』が起こりだすと思います。


『【未完】言葉と祈りと愛について 5』につづきます。