『【未完】言葉と祈りと愛について 2』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。
 

【受け入れる(受容)】

『受け入れる(受容)』についてですが、そもそも『存在』を受け入れてあげないと、「存在を理解することができない」と思います。

 

相手を受け入れない状態で相手に何かをしようとした場合、それが『優しさ』や『善意』からの行動だとしても相手にしてみれば、ただの『押し付け』になる可能性があります。

たとえば『自分自身の子供時代』に「親は私の気持ちをわかってくれない」などと感じたことがある人は多いのではないかと思います。
もし親側が『自分の存在』を全てを受け入れてくれていれば、そのような思いはしなかったのかもしれません。

ただし、「親が悪い」というわけでもありませんし、親側にもいろいろな『状況』や『事情』があると思います。

「子供のしつけのためだった」のかもしれませんし、大人からの目線で「子供のためを思って」という部分もあったかもしれません。
また、「たまたま親側に心の余裕がなかった時だった」のかもしれませんし、親側の『性格の問題』もあるかもしれません。
そのため様々なケースがあると思いますので、「親が悪い」というわけではありません。

しかし子供自身としては「私のことを受け入れてもらえなかった」という『事実』を体験することになります。

ちなみに自分の子供に対して「勉強をしなさい」、「恥ずかしくない行動をしなさい」、「真面目にしなさい」と厳しく怒ったり、叱ったりしがちな親も多いと思います。
親としては「私はあなたのためを思って伝えている」という状態だと思います。
また「親として私は間違ったことを教えていない」などの『親としての主張』もあるかもしれません。

しかし『親の立場』を主張する前に「自分自身の子供時代はどうだったのか?」ということを振り返り、まず『子供の身』になって考えることが大切だと思います。

もし「私は親だから子供は黙って親の指示に従うのが当然」などと思っているのであれば、大きな勘違いです。
なぜならば子供は子供なりに考えていますし、子供も『自分の思い』を持って活動しているからです。

『自分自身の子供時代』を振り返るとわかると思いますが、知識や経験を含め、精神的に未熟だったとしても『自分の思い』をしっかり持って活動していたと思います。
そして自分の思いを親に理解してもらえずに、『押し付け』のような状態で怒られた場合、親に対して『反発』する気持ちが強くなったのではないかと思います。

ですからまずは『子供の思い』も受け入れてあげるべきです。
叱ったり、注意するのは、「子供の思いを受け入れた後からするべき」だと思います。

自分自身が『子供(相手)』の気持ちを受け入れないで、自分の思い通りに行動させようとした場合、『子供(相手)』は反発します。

なぜならば人間は「私のことを受け入れてもらえないのであれば、私もあなたのことを受け入れたくない」という状態になりがちだからです。

つまり、「自分が相手に対して投げたものは、自分に返ってくる」ということですが、「自分が相手を受け入れないならば、自分も相手に受け入れてもらない」という展開になるわけです。
そのため「親側がまず子供の思いを受け入れないならば、親側の思いは子供には受け入れてもらない」という状態になります。

たとえばですが「あなたの話は全く聞く耳を持たないけど、私の話だけはしっかり聞いて」という状態の人がいた場合、どう思うでしょうか。
おそらくですが「相手を意見を受け入れず、一方的で凄く自己中心的な人」と思うはずです。

しかし自分が『親の立場』になった場合、「子供に対して一方的な状態になっている人が実は多い」かもしれません。

ちなみに人間は『役柄』を演じることに必死になると、『本来の自分』を忘れがちになります。

特に『親』と『子供』の関係になった場合、『親の役目』を演じることに必死になってしまう人が多いと思います。
そのため「親の役柄になり切ってしまい、いつのまにか自分自身を振り返ることを忘れがちになる」という可能性があります。

むしろ親の立場だからこそ「自分自身を見失わないように注意するべき」です。

そして『親子の関係』だとしても「あなたの話も聞くので、私の話も聞いて欲しい」という姿勢を心掛けることで、『お互いの思い』を大切にした会話ができるようになると思います。

ちなみに自分が『強い立場』であれば、相手が受け入れなくても、『強制的』に従わせることができます。

たとえば『親の立場』を利用して「無理やり子供を従わせている親も多い」のではないかと思います。

親側にしてみれば「私はあなたのためを思っている」という状態かもしれません。
しかし『子供の思い』を大切にしないのであれば問題です。

それは愛からの思いやりではなく「怒られたくないのであれば大人しく従いなさい」などの『恐怖政治』のような状態だと思います。

たとえば自分自身が子供時代だった頃を思い出せばわかると思いますが、子供の視点では「親には基本的に逆らえない」という状態だと思います。
高校生ぐらいになると反抗できるかもしれませんが、大人とは身体のサイズも違いますし、腕力も違いますし、威圧感も違うからです。

そして親から怒られがちに育った子供は「怒られるのが怖い」や、「黙って大人しくしておいた方が無難」と子供なりに独自で判断するようになってきます。
ある意味、子供なりの『賢い判断』だと思います。

この状態が悪化しますと、親の前では常に委縮するようになり、「良い子ちゃんを演じることに必死になる」かもしれません。
「子供は伸び伸びと自由に育つべき」だと思いますが、とてもかわいそうな展開です。

もし「現在は子育て中」という人がいましたら、ぜひ「自分自身は大丈夫だろうか?」と考えてみてください。

人間は『大人』になればなるほど、『他者』から叱ってもらえる機会は減っていきます。
また、丁寧に指導してもらえるような機会もあまりないと思います。

 

たとえばお年寄りに対して叱る人はあまりいないはずです。

全ての人ではありませんが、人間はお年寄りになればなるほど、『自分の存在』を守るために『他者の意見』を聞かなくなる傾向が強く感じます。

表現を変えれば『頑固』になっていくということです。


ですから自分自身で、『自分自身のこと』を常に見直すことが大切だと思います。

【向き合う】

子育てには様々な悩みや問題が出てくると思います。
また、予想外の出来事も多いと思いますが、まずは『子供(相手)の思い』を受け入れて、子供のことを理解してあげようとすると、『適切な対処方法』がわかるかもしれません。

「とにかく理解してあげたい」や、「とにかく受け入れてあげたい」という思いを持つことで、「子供はどのような思いで、一体何を訴えようとしているのか?」が見えてくるからです。

しかし「どうせ子供はこのように思っているだけ」という状態であれば、親側の勝手な『思い込み』にすぎません。
なぜならば『子供の本心(思い)』をしっかり見ようとせずに、「親が勝手に決めつけているだけ」だからです。

この場合の問題は「子供(相手)としっかりと向き合っていない」ということだと思います。

『向き合うこと』についてですが、そもそも自分自身が『相手』としっかり向き合わない状態であれば、相手を理解することはできませんし、相手を受け入れることはできません。
なぜならば「すれ違うだけで、噛み合うことすらできない」からです。

もし相手と向き合わない状態で、相手を理解しようした場合は、「わかったフリ」もしくは「憶測程度しかできない」と思います。
ですから、『向き合う』ということはとても大切なことだと思います。

ただし、「受け入れれば100%相手のことを理解できるのか?」となりますと、実際にどこまで理解できるのかはわかりません。
実際のところ、相手と『完全に同化』しないかぎり100%の理解は無理だと思います。

しかし大切なことは「相手としっかり向き合い、相手を受け入れ、相手のことを少しでも理解しようする気持ちを常に持つこと」だと思います。

『根本的な話』になりますが、愛を理解するためには、「自分自身が愛としっかり向きあっていくこと」が大切です。
誰かに教えてもらえることもあるかもしれませんが、「自分自身で歩む」からこそ、愛を学ぶことでき、少しずつ愛に近づいていけると思います。

また、『全て』においてですが、追及すればするほど必ず『中心』に近づいていきますので、最後は『愛』にたどり着くようになっています。
なぜならば「全ては根源の愛から派生しています」ので、追及すればするほど根源にある『愛』に必ず近づいていくからです。

『相手』と真剣に向き合えば、必ず愛の存在に気づきます。
『物事』と真剣に向き合えば、必ず愛の存在に気づきます。
『地球』と真剣に向き合えば、必ず愛の存在に気づきます。
『自分自身』と真剣に向き合えば、必ず愛の存在に気づきます。

『自分』が何事に対しても真剣に向き合うことが前提ですが「全てにおいて愛からは決して逃れられない」という仕組みになっています。
「愛が全て」だからです。
ですから究極的にいえば「誰から教わらなくても、人間は必ず愛の存在がわかる」ようになっています。

たとえば目の前に『川』が流れていた場合、川の『源流』を目指してたどっていけば、最後には必ず『源の場所』にたどり着くことができます。
全ての流れにおいて源の場所にあるのは『愛』ですから、必ず愛にたどり着くことになっています。

ただし、愛から離れようと、必死に『抵抗』することは可能です。
そして愛に抵抗して、愛を受け入れようとしない存在たちのことを『悪魔』と呼ばれます。
また、人間の姿をしていても、愛から離れ、欲望を満たすことに必死な人間は『獣』と同じであり、悪魔の一員です。

だからこそ愛を学ぶ際に「受け入れる」そして「向き合う」という要素はとても大切だと思います。

【許す(赦す)】

「受け入れることができない」という場合、様々な『原因』があると思います。
様々な原因があるかもしれませんが、結局のところ「私は許せない」、「私は認めることができない」などの、『何か』を強く拒否する部分があるからこそ、「受け入れられない」かもしれません。

「受け入れられない(受容)」の問題を解決するためには、自分自身の中で『許し(赦し)』をまず大切にしなくてはいけないと思います。

なぜならば「私が許せないからこそ許せない」という状態だからです。
表現を変えますと「私が受け入れを拒否しているから、私は受け入れることができない」ということです。

もし『相手』が存在する場合は、下記のようになります。

「私が許さない限り、私は相手を受け入れることができません」

この状態を変えるために「私は相手に変化して欲しいと願っている」という人が多いと思います。

しかし、自分の『思い通りの状態』に相手を変えることはかなり困難です。
むしろ「思い通りに相手を変えることは不可能」かもしれません。

「変わって欲しい」と願うことは駄目ではありませんが、「相手を変えることは無理」と早めに意識を切り替えた方が、実は「自分自身の苦しみを減らすことになる」と思います。

そして「相手を変えることは簡単にはできない」と思いますが、自分に可能な『問題の解決方法』があります。

「私(自分)が許す」ということです。

つまり「相手に変化して欲しい」と願うのではなく、自分自身を変化させるわけですが、大きな変化をする必要ありません。
「許す」か「許さない」かの単純な選択を変えるだけで問題は解決します。

なぜならば「私が許せば相手を受け入れられる」からです。

意地を張り続けるのも自由ですが、「許すことができるようになるまで苦しみ続けるのは自分自身だけ」です。

たとえば「相手に復讐してやりたい」などの思いがあれば、相手に復讐ができる時まで、自分自身の中で『恨み』や『怒り』は増幅し続けます。
それは『呪縛』のように自分自身を苦しめ続けることになるわけですが、相手自身は痛くも痒くもありません。
なぜならば「他人の抱えている気持ちや苦しみはわからないから」です。

つまり、相手に対して復讐などの気持ちを持つことは、自分自身で「自分勝手に自分自身の苦しみを増やし続けるだけ」ですが、「私は許します」と選択した瞬間に、『呪縛』から解放されます。

また、様々な『原因』や『要因』があるとしても、『根本的な問題』は、「私は許せない」という『私』の部分にあるわけです。

ですから相手が問題ではなく、実は「自分自身の中に受け入れを拒否する部分がある」ということが問題です。
むしろ『私』が変わらなければ、「永遠に解決しない」わけです。

その場合に『私(自分自身)』が学ぶべきことは「許すこと(赦すこと)」の大切さです。

「私は許します」となった瞬間に相手を受け入れることが可能になります。
許すことができれば一瞬で解決する問題だとしても、「私は許さない」「私は許せない」と意地になればなるほど、なぜか「相手を責めるようになりがち」なのが人間の性質なのかもしれません。

ちなみに「愛は赦し」などとも言われます。
「存在を受け入れることができれば、存在を包み込むように守ってあげることもできるようになる」からです。

表現を変えれば、「相手を拒否している時に、相手の全てを抱きしめようとしても、それは不可能」ということです。
また、「相手の声に耳を塞ぎながら、相手のことを理解しようとしても、それは不可能」だと思います。

その時に大切なことは「全てを私が許すこと」だと思いますし、許すことで「全てを受け入れること(受容すること)」が可能になると思います。

ただし、「許す(赦す)」という言葉は、上から目線のような表現になりますので、個人的にはあまり好ましく思っていません。
わかりやすい言葉の表現として『許す(赦す)』を選択していますが、「私の壁を取り除く」や「全てに対して心を開く」の方が適切かもしれません。

【受容・向き合う・赦す・自己受容】

「私は愛を送りたい」と思っている人が世の中には多いような気がします。
もしかしたら『愛』と『好意』を勘違いしているだけの可能性もありますが、「自分の思いを一方的に相手に投げつけることは簡単」だと思います。

しかし「相手の思いや、相手の全て受け止める」となった場合、「それは無理」という人が多い気がします。

ですから「相手に愛を送る」などよりも、まずは「受け入れる(受容)」ことを学ぶことの方がよほど大切だと思います。
そのためには『許す(赦す)』という要素が凄く重要なことだと思います。

ちなみに『相手』との場合であれば、「私は相手のことを許したくないから関係を切る」で済むかもしれません。
極端な話、相手と二度と会わなければ大きな問題にもならないからです。

しかし『自分自身』の場合は、生涯向き合わなくてはいけない存在です。
なぜならば自分自身だからです。

その場合に「私は私自身が嫌い」や「私は自分の存在が認められない」という状態であれば『自己との分離』が激しくなる一方になります。

本来あるべき自分自身になるためには、全ての自分を受け入れて『統合』しなくてはいけません。
それが「自分自身を愛する」ということになります。

ですから「自分自身を許し、受け入れる」という『自己受容』は、凄く大切であり、「自分自身しか解決できない問題」です。
むしろ自分自身で解決しない限り、「自分自身を完全に愛することができない」という状態が続きますので、自分の認められない部分を自分自身で許し、受け入れることが大切だと思います。

【思いやりと一体】

『思いやり』の部分になりますが、相手のことを理解し、何が必要か、何を望んでいるのかをよく考えることが大切だと思います。
基本として「自分が喜ぶことを相手に施す」、「自分が嫌なことは相手にしない」などが大切だと思います。

そのためには「少しでも相手の身になって考えるべき」ですし、理想的には『相手』と『自分』を「一体に近づけること」だと思います。
相手の存在が自分自身のことのようになれば、『適切な方法(行動・言動)』がわかってくるのではないかと思います。

だからこそ「相手のことを受け入れる」ということがまず大切だと思います。
相手のことを理解しない状態であれば、「相手のことがわからない」からです。
また、そもそもの話ですが、相手としっかり向き合わないと、相手のことを理解することはできません。

たとえば人生を振り返って「相手から愛を感じた時」を考えると、「自分が望むことを一番理解してくれていた時」ではないかと思います。

「私のことを考えてくれていた(思ってくれていた)」などの感動があると思いますが、それは自分と相手が『一致(一体)』に近い状態だったからこそだと思います。

たとえば「水が欲しい」と願っているのに、『パン』をあげようとすれば『何か』が間違っていると思います。
また、「手を貸して欲しい」と願っているのに、『説教』をしようとすれば『何か』が間違っています。

つまり「望むことを望むタイミング」で与えてもらえた時に、人間は喜びや、愛を感じられると思います。
そのためには少しでも相手のことを理解することが大切ですし、相手の身になって考えないとできないことかもしれません。

ちなみにお子様がいる親の方は、ぜひ自分自身の子供の時を思い出していただきたいと思います。

自分の子供時代に「親から言われて嫌だったこと」もしくは「親に腹を立てたこと」などの経験は少なからずあるのではないかと思います。
自分自身が嫌だった経験があるのに、今度は『自分の子供』に対しても『同じようなこと』をしていないかは、ぜひ注意された方がよいのではないかと思います。

ただし、「望みや欲しいものを与えるだけ」では、実は相手のためにならない場合もあります。

欲しいものを与えると相手から喜んでもらえると思いますが、そこに『相手の学び』がなければ、むしろ「学びの機会や経験を奪う可能性もある」わけです。
また、『優しさ』と『ただの甘やかし』を間違うと、結果的に相手のためにはなりません。

ですから『一時的な喜び』ではなく、大切なのは『成長』や『繁栄』を願ってあげることだと思いますし、「そのためには何が一番適切なのか?」をよく考える必要があるわけです。

そのため、相手の成長や経験を願うからこそ、時に『厳しさ』も大切だと思います。
ただし、ただ厳しいだけでは、相手にしてみれば「拒否されているだけ」と思う可能性もあるわけです。

たとえば「厳しくしないと人間は成長しない」と信じて、感情的に怒ったり、叱ったりする人も多いですが、『精神論の押しつけ』の状態であれば問題です。

その人それぞれで『向き不向き』はありますので、厳しくされることで成長する人もいれば、厳しくされることで潰れる人もいるわけです。
ですから、厳しさの中にも必ず『思いやり』の気持ちは大切にするべきです。

また、相手のことを理解していないと適切な『優しさ』や『厳しさ』の加減はわからないと思います。
そのため、「私は常に厳しく指導してきた」という状態で、全員に同じ対応をするような状態であれば、「主導権のある私に従え」という状態にすぎず、ただの怠慢になってしまいます。

ですから、常に相手と向き合い、相手を受け入れ、相手のことを少しでも理解して、常に『思いやり』を大切にしながら適切な方法を考えて、判断、そして行動することが大切だと思います。

【子離れと信頼】

相手を『信頼』しないと、『余計なお節介』をする可能性もありますし、相手の成長の邪魔をするだけの可能性もあります。
信頼できないということは「相手の存在を認めていない」ということにも繋がりますし、相手の『意思』や『選択』を奪うことにも繋がります。

たとえば、自分の足でしっかり歩こうとしている人に、他者が何か手助けしようとすれば、余計なお節介でしかありません。
「自分で歩こう」という思いを奪い、成長を邪魔することになる可能性もあるからです。
そのため余計なお節介は、優しさや思いやりからの行動とは全く違うと思います。

ですから、もし相手が未熟に感じたとしても、相手の成長と経験を願い、『必要なタイミング』で、『必要な手助け』以外は、あえて黙って『静観』して、「相手の成長を信じる」ことも大切だと思います。
相手を信じて、黙って見守ることも愛の学びだからです。

また、「何もせずにあえて放っておく」ことで、実は相手の成長のためになることもあると思います。
ただしその場合も、ただ放っておくのではなく、『思いやり』を大切にすることで、『適切なタイミング』などがわかるのではないかと思います。

ちなみに『子離れができない親』も多いと思います。
「私は子供のためを思って」を理由にして、いつまでも余計なお節介を続けるわけですが、「実は子供の邪魔をしているだけ」の場合もあると思います。
その場合、まずは子供としっかり向き合って、『子供の本音』を受け入れるべきだと思います。
そして自分自身と向き合って「子供のためと言いながら、実は自分の気持ちを満足させたいだけではないのか?」についてしっかり考えることが大切だと思います。

子供のことを愛することはとても大切なことです。
しかし極論ですが、子供は飲食の問題さえ解決できれば、一切放っておいても自然と大人になっていきます。
なぜならば人間は時間が流れと共に成長して、必ず大人になるからです。
また、子供は子供なりに様々な思いを抱え、自分で考えながら、自分の足で歩きます。
ですから良い意味で「私の子供は大丈夫」と信じて、子供のことを信頼してあげることも愛の学びだと思います。

【希望と繁栄】

『成長』や『繁栄』に繋がりますが『希望』という要素も大切だと思います。
『希望』という言葉には様々な意味が含まれますが、もし希望が無い状態であれば『絶望』になってしまいます。

たとえば闇の中では『光』がないと、不安を抱えながらいつまでも彷徨い続けることになります。
しかし『希望(光)』さえあれば『目指すべき場所』と信じて、闇の中でも前に進んでいけます。

また、『道』が続いているのに、道の途中であきらめてしまうと、道の向こう側は見えないままとなり、『未来』に繋がりません。

未来に繋げていくためには、必ず未来に繋げていかなくてはいけません。
むしろ『希望』があるからこそ、未来に繋げていけると思います。

たとえば自分自身が何らかの犠牲なるような場合があったとしても、自分の存在が未来に繋がるために『活かせる』のであれば、それは『犠牲』や『無駄死に』ではなく、自分を『活かす』ことになります。
その場合も『希望』を信じるからこそ、『自分を活かす道』を選択できるのだと思います。

愛の本質は「繁栄の道」であり「永遠に繋がっていく道」であり「無限に拡大を続けていく道」だと思います。

そのため「止める」「奪う」「終わる」ような状態であれば「何かが間違っている」ということだと思います。
たとえば「成長や繁栄を止める」、「成長や繁栄を奪う」、「成長や繁栄を終わらせる」ような流れは、「愛の本質とは違う」と思います。

この場合も『思いやり』を大切にすることで、「どのようにすれば相手の成長や繁栄に繋がるのかがわかる」のではないかと思います。

『【未完】言葉と祈りと愛について 4』につづきます。