『【未完】言葉と祈りと愛について 1』のつづきです。

補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。

 

【言葉について】

 

本音を言いますと『愛』について言葉で伝えるのは「正直なところ怖い」ですし、『危険性』も感じます。
なぜかといいますと、僕が『見当はずれの内容』をお伝えする可能性もありますし、「その人の世界観を制約する危険性もある」からです。

そもそも『愛』という言葉は大昔から世界各地で使用されていますが、「愛に関しての明確な答えは人類史上まだ存在していない」という状態に感じます。
また、様々な『哲学者』『思想家』たちも愛について考察したようですが「明確な答えは出せていない」と思います。

つまり、人間は愛という言葉を多用しているのに、「愛とはどのような存在なのかよくわかっていない」のかもしれません。

ですから『愛』について語るのはとてもデリケートな問題に感じます。
そのため僕が間違っているかもしれませんし、もし言葉で語るとすれば「このような感じ」という状態にすぎませんので、『あくまでもひとつの参考』になればと思います。

しかしながら人間が生涯をかけて学ぶテーマが『愛』だと思います。
ですから様々なことを学び、経験されながら、ぜひ『ご自身』で答え探しを楽しまれていただきたいと思います。

ちなみに『言葉での表現』というのはとても難しいです。

たとえば直接会話しながら説明できれば『質問』や『疑問』に対して、その都度丁寧に説明しながらお伝えできます。
しかしブログなどでは『言葉の集合体となる文章』の状態でしかお伝えすることしかできません。

つまり文章として『完結した状態』を提示して、「内容の意味をご自身で自分なりに理解してください」になってしまうのが『弱点』のような気がします。

『メリット』としては『ひとつの記事』だとしても、文章として存在することで、少しでも多くの人に伝えられるということです。
『デメリット』としては読む人それぞれの解釈で『それぞれの受け取り方』が発生することだと思います。

僕は難しい言葉や、『専門用語』などをなるべく使わないように心がけていますが、言葉としてお伝えする性質上、受け手側の『解釈』が必ず入ってしまいます。

なぜならば『ひとつの言葉』だとしても、その人それぞれの『価値観』と『知識』によって『意味』が全く変わる可能性があるからです。
それが「受け手側の解釈が必ず発生する」ということです。

 

たとえば『天』という言葉ひとつでも、「何をイメージするのか?」はその人それぞれです。

ちなみに『聖書』の場合であれば、『天』という言葉には3つの意味があるようです。

1.『空』
2.『宇宙』
3.『霊の領域』(神や天使が存在する目に見えない領域)

たとえば「天からやってくる」という表現の場合、「空からやってくるという意味」と思う人もいれば、「地球外の宇宙からやってくるという意味」と思う人もいます。
しかし『霊の領域』や、精神世界の知識がある人にしてみれば、「視覚では認知できない領域からやってくる」などの全く別の意味としても「理解できる」ようになるわけです。

余談ですがスピリチュアル系で『アセンション』が流行した時は、「ある時に宇宙から宇宙存在たちが到来して、アセンションする人だけを別の世界に連れて行く」と本気で信じていた人もいるようです。
また、いまだに「終末の時は宇宙から大量の宇宙船や、宇宙存在たちが地球にやってくる」と伝えている人もいます。
その人たちにしてみれば、『天』の意味が『宇宙』としか理解できないわけであり、『価値観』を根本的に変えない限り、どれだけ説明しても『意味』が全く理解できないと思います。

このように「受け手側の解釈の違い」という問題は『言葉』で伝える場合に必ず発生しますので、言葉での表現というのはとても難しく感じます。

話を戻しますが『愛』は、『全て』に通じますし、『全て』に繋がっています。
なぜならば『全て』が「愛の中に存在する」ともいえるからです。

また、『全ての存在』は『根源的な愛』から発生していますので、全ては愛の中に存在し、愛の外では存在を成しえません。

ただし、『愛』のことを言葉で表現した場合『愛』の一文字で『要約』されてしまいます。

ちなみに愛のことを『規律』として表現すれば、モーセ『十戒』になるかもしれません。
また、愛のことを物語として表現すれば『聖書』になるのではないかと思います。
イスラム教であれば『クルアーン(コーラン)』になります。

全てにおいて繋がっているのは『神と人間との契約』です。

おそらくですが、視覚的に見ることができない『愛の存在』は、当時の『時代背景』の問題などもあり、「大勢の人には理解することが困難だった」のだと思います。
なぜならば「神(愛)は存在します」と伝えようとしても、「神(愛)とは何ですか?どこに神(愛)が存在するのですか?」という質問には明確には答えることができないからです。

また、『心』で受け取れる人には理解が可能だったのかもしれませんが、そもそも「心とは何ですか?」という問題もあるわけです。

だからこそ様々な預言者たちは『守るべき規律』や『守るべき教え』として、『愛の存在』を伝えようとしたのではないかと思います。
たとえば「人間はこの行為をしなければ神(愛)に背くことにならないだろう」という『ルールブック』のような状態です。

それが『十戒』や『聖書』、『クルアーン(コーラン)』の存在であり、結局のところ「人間は神(愛)に従いなさい」と伝えているのだと思います。

ちなみに『言葉』というのは、受け取り方しだいでは、『気づき』の機会などとなり「自分の世界観(宇宙)を無限に拡大する」という力を持っていると感じます。
その反面、受け取り方しだいでは「自分の世界観(宇宙)を制約する」という力も持っているわけです。

ただし『言霊』などの話をしているわけではありません。

凄く極端なたとえになりますが『湖』のことを「これは海です」と誰から教えられ、その情報を鵜呑みにして信じてしまった場合、「その人の世界観では、湖のことを海と思うようになる」ということです。
その場合、その人は湖の姿を見るたび「海とはこの程度の規模の存在だ」と思うようになるかもしれません。

実際の『海』とは広大で計り知れない規模の存在です。
しかし『無知』の場合、たとえ一部しか知らない状態でも「この程度の存在だ」と満足してしまうようになるわけです。

これが「言葉は世界観(宇宙)を制約する」という意味になります。

たとえば『愛』という言葉を聞いた場合に「それは男女の恋愛のこと」としか理解できない人もいるかもしれません。
しかしそれは愛の『一部』の表現であり、『愛』とは広大で計り知れない規模であり『全て』に通じます。

そのため「これが愛です」などの『答え』をお伝えした場合、もしそれが『不完全な状態』であれば『間違った答え』を教えることとなり、「愛に関しての世界観を制約することになる」という危険性を感じます。
このことは凄く重要な問題に感じますので、僕がお伝えしていることは「絶対に鵜呑みにしないでいただきたい」と思います。
あくまでも「愛を学ぶための参考情報のひとつにすぎない」からです。

余談ですが、旧約聖書『創世記』に「バベルの塔の物語」があります。
『バベルの塔』の物語には様々な解釈がありますが「人類は天まで届くような塔を建設することで神に挑戦しようとしたが、神は塔を崩した」という逸話になっています。

ただし、バベルの塔に関しては、あくまでも『神話』にすぎず、実在したのかは不明です。
ちなみに『バベルの塔』はタロットカードの『塔(The Tower)』のモデルという説もあります。

バベルの塔の物語で「神は何をしたのか?」ですが、人間の『言葉(言語)』を乱したとされています。

人間は『同じ言葉(言語)』を話すからこそ、人間同士で力を合わせてバベルの塔のようなものを建設しようとしたわけです。
ですから神は人間の言語を乱して「人間同士がお互いに相手の言葉を理解できなくなるようにした」とされています。
そして神は『全地の言葉』を乱し、人間を『全地(全世界)』に散らしたと伝えられています。

つまり人間は神から『混乱』を与えられ、世界各地に散らされることになったのだと思います。

たとえば日本人であれば『日本語』で会話します。
しかし他国の人とやり取りをする場合は、『他国の言語』で会話しなくてはいけません。
ちなみに全世界には約7000語の言語があるようです。

『英語』は世界共通語などともいわれますが、僕自身は英語で会話することは困難な状態です。
はっきりいいますと、英語で会話することは無理です。
ですから世界共通語だとしても、英語を使いこなせない人にとっては、共通語として活かすことはできません。

また、世界中の人々との意思伝達を目的に、国際補助語を目指して考案された『エスペラント』という人工言語があります。
理想的な世界を求めた素晴らしい発想だと思いますが、残念ながら一部の人にしか普及していない状態です。

バベルの塔はあくまでも神話かもしれませんが、神が人間の言葉(言語)を乱したのであれば、『言語の違いという壁』ができたことで、世界中の人間は繋がりづらくなったわけです。
そのため「神の計画は正しかった」と思います。

ただし、「神は人間に混乱を与えたかっただけなのか?」と考えますと、全く違います。
神の計画は完璧であり、「人間を不幸にするためではない」からです。

バベルの塔の物語の最初の部分は「全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた」となっています。

そのため、神が人間に混乱を与える前は「人類は地球上で『ひとつの民』であり『ひとつの言葉』で繋がっていた」わけです。
つまり、本来の人類は『ひとつ』でまとまっていたのだと思います。

しかし人間は「神に挑戦しようとするほど乱れた」のだと思います。

人間が乱れた原因は『知恵』かもしれませんし、『欲望』かもしれませんし、『傲慢(ごうまん)』や『思い上がり』かもしれません。
そのような状態になった人間の『象徴』として、神話となったバベルの塔の物語があるのではないかと思います。

ちなみに現代の人間社会は『宇宙開発』に向けた活動を開始しています。
『地球上』をまとめることすらできないのに、宇宙に意識を向けるのは「何かが間違っている」と感じます。
また、人類は地球環境を破壊し続けていますが、宇宙に進出すれば「宇宙の環境も悪化させるだけ」です。


まるでバベルの塔の再来です。

とにかく人間が本来あるべき状態から離れたからこそ、神は人間の言葉(言語)を乱して「人間に学ぶ経験を与えた」のだと思います。
ですから「混乱を与えた」のではなく、むしろ人間に『学び』や『成長』の機会を用意したのだと思います。

「それでは言語の混乱から何を学ぶのか?」ですが、人間の視点では『言語』の違い、『国』の違い、『人種』の違いを感じるかもしれません。
それぞれの違いは人間同士にとっては『壁』となり、場合によっては争いの原因になる可能性もあります。

たとえば日本国内でも、47の都道府県があり、日本語にも日本各地で『方言』の違いがあります。
また、それぞれの県には特色がありますし、出生地によって『性質』や『価値観』の違いなどもあるはずです。


僕は富山県出身ですが、他県出身の人と比べますと、『富山県民の性質』だと思います。

しかし大きな視点で考えますと、出身地は一切関係ありません。
同じ『日本人』ということに違いはないからです。

さらに大きな視点で考えますと、出身国は一切関係ありません。
同じ『地球人』ということに違いはないからです。

『言語』に関しては、日本国内の場合、方言の違いによって「なまりがひどくて、何を言っているのか理解できない」という場合もあるかもしれません。
しかし方言は完全に理解できなくても、同じ日本人同士であれば意思の疎通は「何となく可能」だと思います。

ただし、他国との場合は『言語』の違いがあると会話が全くできない可能性が高いです。
たとえば各国から『母国語』が英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、日本語の人が集まった場合、『通訳』がない状態では会話が成り立たないはずです。
むしろ母国語以外は『異質の音』としか感じないと思います。

そのため同じ地球人でも「言語の壁だけは越えられない」かもしれません。

しかし『愛』という思いは、全世界共通だと思います。

「愛が何か全くわからない」という場合は、愛について学ぶ必要があるかもしれませんが、愛という『思い(言葉)』があれば「言語の壁は越えられる」と思います。

神の計画は完璧です。

だからこそ神は人間の『言語(言葉)』を混乱させて、本来の『言葉(愛)』を人間が取り戻す機会を用意したのだと思います。

そして『その時』が実現すれば、「人類は地球上で『ひとつの民』であり『ひとつの愛(言葉)』で繋がっていた」ことを人間は再び思い出せるはずです。

本来であれば『統合』されている世界は一時的に『分離』されているような状態かもしれません。

特に人間は『国』、『言語』、『人種』、『宗教』など様々な問題にこだわるため、「人間同士の分離は激しくなる一方」です。
だからこそ人間は『分離』した状態から『統合』を学ぶべきですし、「地球上では人類はひとつの存在」ということに気づくべきだと思います。

 

さらに大きな視点になりますと、「全ては愛によって統合されている」ことに気づけるかもしれません。

 

つまり「全てはひとつ」です。

言語の壁に関しての補足情報です。

たとえば『赤ちゃん』が四つん這いで歩き、いつのまにか階段に近づいていました。
放っておけば階段から転げ落ちてしまう危険性があります。
親が見ていれば「危ない」と感じて、赤ちゃんが階段に行くのを必死で止めるでしょう。
親としては当然の行為だと思います。

しかし親でなくても、赤ちゃんが階段から転落する危険に気づいた人は、誰でも必死に止めるでしょう。
おそらく世界中の人が同じ行動をすると思います。

そこには『言葉』の壁は存在しません。
言葉では説明できなくても「危険なことから守ってあげたい」もしくは「助けてあげたい」という思いがあるはずです。

理屈抜きにして、人間の本質部分に「愛があるからこそ」だと思います。

人間同士で争う必要など全くありません。

【愛の要素ついて】

愛とは『優しさ』と『思いやり』にプラスして『向き合う』、『受け入れる(受容)』、『許す(赦す)』、『厳しさ』、『成長』、『繁栄』、『信頼』、『希望』、『自分軸』、『心からの思い』、『活かす』、『感謝』、『謙虚』、『誠実』、『純粋』、『調和』、『平等』、『一体』、『全て』などの要素も大切だと思います。


また、人間視点としての『言葉』で表現しようとすれば、他にも様々な要素があるかもしれません。

しかし『愛』の一言で全てが要約されます。
つまり言葉としては『愛』の一言だとしても、様々な要素が含まれているということです。

ちなみに『恋愛重視』の人であれば『好き(好意)』という要素が無いことに疑問を感じるかもしれません。

人間関係の場合、相手に対して「好き」などの『好意』があるに越したことはないと思います。
なぜならば好意がきっかけで「相手の存在を受け入れやすくなる」からです。

ただし、好意だけの繋がりの場合、「嫌い」になった瞬間に「相手のことを受け入れられない」という状態に変わる可能性も高いと思います。

そもそも人間の「好き」や「嫌い」などの判断は、『感情』だからこそ揺れやすく、その時の『気分』によっても変わることがあり、不安定で不確かな状態だと思います。
また、男女の恋愛に関しては、たとえ『表面上の約束事』だけでも男女の関係性は成り立ちます。

特に現代の人間社会の恋愛関係は「相手に好かれる方法」や「相手と仲の良い関係になる方法」などを重視されがちですから、『好意の延長線』のような状態だと思われます。
そのため恋愛感情が高まっている時は「あなたを一生愛します」などと伝える人も多いですが、恋愛感情が失われてくると「あなたと別れます」になりがちです。

恋愛も愛の学びの一面だとは思います。
ただし「愛によっての繋がり」なのか「好意によっての繋がり」なのかで『本質的な性質』が全く違うはずです。

また「全ての人間(存在)は神に平等に愛されている」などともいわれます。


たとえば神の視点から「私はこの人間は好きだから愛する」、「私はこの人間が嫌いだから愛さない」などの独自の判断基準であれば『平等』が破綻します。
ですから「好き」や「嫌い」などの要素は『愛の本質』とは違うと思います。

【愛の法について】

『愛』を理解しますと、「愛そのものが法律」のような状態になりますので「愛は法」となり『秩序』の要素もあります。
人間社会には『様々な法律』が存在しますが、愛を理解すれば「法律など全て不用」ということに気づきます。

そもそも『法律』とは人間が勝手に作った『規律』にすぎませんので、「本来は地球上に存在しない規律」です。
しかしながら人間社会は法律的な規律がないと『規律を守らない人』を対処することが困難なため、『様々な法律』が常に増え続けている状態です。

本来「存在しないもの」を存在させることは『幻想』に囚われているような状態ですが、その影響で『本来あるべき世界の姿』を完全に見失っているのが現代の人間社会だと思います。

そして法律や規律が増えれば増えるほど、「人間は自分たちで自由を縛りつけていく世界を強化していく」わけですから、とても愚かな行為だと思います。
なぜならば『縛り付けるための要素(規律・法律)』の量を増やせば増やすほど、自分たちで自分たちの自由を奪い、自由を制限していくことになるからです。

また、「規律があるからこそ、規律を守らない人が存在する」わけですが、「規律を破る人は規律の守り方ではなく、規律の破り方を考えることに必死」という流れの繰り返しです。
そもそも人間が作る規律には必ず『穴』がありますので「穴を探せば抜けられる」からこそ、規律を守らない人は「穴探しに必死になる」という状態です。

しかし個人が「自分自身を独自で律することができる」ような状態になれば、自分を常に監視しているのが自分自身ですから『穴探し』は無意味となり、「規律すら不要」になるわけです。

たとえばモラルを大切にする人は、自然とモラルを守ります。
他者から厳しく指導されなくても、自然と他者への気遣いができるからです。

ですから心を大切にする人は、自然と心に沿った生き方をするようようになります。

そして愛を理解する人は、自然と愛に沿った生き方をするようになりますので、自由でありながら世界と調和して歩みます。

愛を大切にする人同士が集まれば、不必要な争いは起こらないと思いますし、厳しい法律は一切不要です。
そもそも自分自身が『自然な状態』で、自然と調和しますので、『不自然な法律』は「世界に不自然な状態をもたらし続ける」ということに気づけるようになるからです。

ですから愛を学ぶことは、人間の活動を自由にしてくれる『解放の道』ともいえます。
そして人間関係、人間社会、自然、地球を含めた様々な存在との『大調和の道』ともいえます。

つまり人間が愛に戻ることで、様々な問題が自然と解決することができ、理論的にも「理にかなっている」わけですから『真の理(真理)』だと思います。

ちなみに様々な宗教などでは「真理について」を小難しく複雑な内容で信者に説いています。
しかし複雑な内容を学ぶ必要はありませんし「愛が真理そのもの」だと思います。

だからこそ僕は「少しでも多くの人間が愛に戻り、愛を主体にして活動する」ことの重要性を伝えたいわけです。
「世界を救う」というと大げさに感じるかもしれませんが、全ての人が世界の『一員』ですから、決して他人事ではありません。

ただし、様々な要素を要約すれば『愛』の一言になってしまいます。

むしろこれがとても厄介な問題です。
「愛を大切に」という一言だけでは、『愛の重要性』が伝わらないと思いますし、おそらくですが「愛だけで世界が救えるわけがない」と判断される可能性が高いです。
なぜならば『愛』の影響力を知らない状態であれば、あくまでも「愛という言葉にすぎない」からです。

しかし『真の意味』が理解できると、理論的にも「世界を救えるのは愛しかない」ということがわかってくるはずです。

【子供について】

人間関係で愛について考える場合は「子供のこと」を考えるとわかりやすいかもしれません。

すでに『大人』になっている人が多いと思いますし、ご自身の子供がいる人も多いと思います。


また、現在は大人だとしても、『自分の子供時代』を必ず経験しているはずです。

ですから自分自身の子供時代を振り返りながら「自分が親からの愛を感じた時」などを考えてみると、何かしらの大切な『ヒント』に気づくこともあるのではないかと思います。

そもそも人間は誰でも『生まれた時は必ず子供の状態』です。
時間の経過と共に『肉体』は子供から大人の状態へ自然と成熟していきますが、人間には『寿命』がありますのでいつか必ず死ぬことになります。
この流れは人間の『宿命』であり、『肉体の老い』からは逃れられません。

人間の『肉体』は自然に成長していきます。
しかし人間の『精神面』の成長に関しては自分しだいです。
そのため「身体は大人だけど精神面は子供のまま」という大人も多いです。

肉体は時間の経過と共に老いていきますが、精神面に関しては「自分自身を成長させたい」と願うことによって、年齢や老いに関係なく成長させることが可能です。
むしろ「自分自身を成長させたい」と願わない限り、成長は止まってしまいます。

ちなみに精神面の成長が止まった人は、「何となく生きている」という状態で毎日を過ごすと思います。

「死なないから生きている」だけであれば、厳しい表現になりますが『ゾンビ(生きる屍)』のような状態だと思います。
ですから「必ず終わりが訪れる」という『寿命』は、むしろ人間に与えられている『救済制度』なのかもしれません。

しかし「私はもっと自分自身を高めたい」という人にとっては、『寿命』という逃れることのできない時間制限はとても切ないことかもしれません。

たとえば「私には追求したいことがある」という強い願いがあっても、人生に時間制限がある以上、どこかで尽きるわけです。
途中で尽きることはとても残念なことですが、だからこそ「限りある時間の中で自分の人生を必死に生きる」ということを大切にできるのだと思います。
また、時間制限があるからこそ「今日も生きられている」ということに感謝を感じられると思います。

つまり同じ人間同士だとしても、「自分自身を成長させたい」という願いを持てるかどうかで、『自分の生き方』であり『自分の人生』が全く変わります。

「身体は大人だけど精神面は子供のまま」というのは問題です。

しかし「私は学びたい」、「私は成長したい」という『子供のような心』を持ち続けることはとても大切なことだと思います。
そして「学びたい」という純粋な思いがあれば『謙虚』にもなれると思いますし、『感謝』も増えると思います。

ですから人間は、常に『子供のような心』を大切にするべきですし、常に『学び』、常に『自分の成長』を願うことが大切です。
また、「愛を学ぶ」のであれば、人間は誰でも例外なく『愛を学ぶ子供』です。
そのため「子供のこと」であり、「子供の成長について」と考えますと、様々な『気づき』があるのではないかと思います。

 

『【未完】言葉と祈りと愛について 3』につづきます。