オリンピックを楽しみにしていた人も多いと思う。
先週末にスタートしたリオオリンピック。
テレビにかじりついて観ている人はどれくらいいるのだろうか?
自分は全く興味が無いのでテレビを観る事もなく、
ただネットでニュースが流れるから、何となく見出し読んでいる感じだ。
今回はロシアのドーピング問題が話題になっていたけれど、
いまさら国家ぐるみでどうのこうの、と報道されていたけれど、
ドーピング問題は昔からあったし国家ぐるみで実施されていることは
顕著化していたことと理解していたので今回の報道は今さら感が強かった。
ただね、
結局、種目によってロシアの選手は出場可能になったようだけれど、
昨日のパラリンピックにおいては全員出場禁止、という報道があり、
結果的に収まりつける為に社会的弱者が追いやられる形になり、
オリンピックの意義はもはや微塵も無くなったと思うだけである。
国家ぐるみの犯罪。
オリンピックの功罪を考えるには良い機会だと思う。
今日の東京は35℃~37℃になるらしい。
こんな酷暑の中、
スーツにネクタイをして東京都内を闊歩している。。
狂気のさたである。
馬鹿げていると思いながらも
日本のクレイジービジネスマンとしては嫌いじゃない。
ひと夏でスーツがダメになる(笑)。
実に不経済である。
それでもクソ暑い東京の街並みを見上げながら
汗まみれになって闊歩するのだ。
室内の冷房、そして蒸した屋外。。
馬鹿みたいと思われるが、
馬鹿だから仕方が無い。
今日も真夏の東京をスーツにネクタイで歩き回るのだ。
こんな酷暑の中、
スーツにネクタイをして東京都内を闊歩している。。
狂気のさたである。
馬鹿げていると思いながらも
日本のクレイジービジネスマンとしては嫌いじゃない。
ひと夏でスーツがダメになる(笑)。
実に不経済である。
それでもクソ暑い東京の街並みを見上げながら
汗まみれになって闊歩するのだ。
室内の冷房、そして蒸した屋外。。
馬鹿みたいと思われるが、
馬鹿だから仕方が無い。
今日も真夏の東京をスーツにネクタイで歩き回るのだ。
昨日のニュースで知ったことだが、
相模原の殺人事件を受け、容疑者の父親からの謝罪があったとのこと。
容疑者の父親は教師らしく、犯罪に対しての謝罪を勤務している学校で
親御さん達に対しておこなったとの報道だった。
この犯罪は微塵も許されるべきものではないし、仮に容疑者が極刑となっても
殺された被害者とその家族は何も浮かばれないだろうと想像する。
しかしながら、
親の謝罪に意味があるのだろうか?
気持ちは察するが、それでも親の謝罪は何を意味するかが理解できない。
何に対しての謝罪だったのだろうか?
罪の無い人を殺めてしまったことについてか?
それは容疑者の責任なので、親の謝罪では何も解決しない。
それでは容疑者の今までの養育についての反省の弁か?
これは子供と大人という境界線をどのように定めるか?という大きな問題が残ると感じる。
20歳から成人とするならば、30歳近くになっている容疑者の親としての責任を問うのも
違うと思うし、また責任の所在は親ではないから、やはり違和感がある。
子供と大人の境界線、についてはずっと違和感を感じ続けている。
ここ数年は企業の入社式に親が付き添いでくる事が珍しくない。
毎年、その光景を見ると吐きそうになる。
そして学校の入学式と勘違いしているバカ親が実在しているのは事実だ。
どんな気持ちで入社式に付き添っているのか?
考えるだけで吐きそうになる。
そんな精神的に未熟な人は、大人に成りきれていない程度の悪い子供なので
仕事が出来るはずもなく、入社まもなく辞めてゆく傾向が強い。
仕事はデジタルの世界ではないために人が介在する。
人とのコミュニケーションがどうしても付きまとうので、
そのコミュニケーションによる弊害から仕事を辞めてしまうのである。
そりゃそうだろう。入社式に親が同伴なんてことは、その企業の中では
”違和感として”話題になるだろうし、そんな親離れ、子離れが出来ていない社員は
最初から会社になじめない空気を自分自身で作ってしまっていると思われるから、
最初からアウェイな環境下で仕事を始めることになるから辛いはずだ。
何でこんな事に気が付かないのだろう?と思いながら、
親の教育ということについて考えさせられるのである。
容疑者の父親の謝罪という行動はどのような意味があるのか?
やはり頭の悪い自分には理解できない。
相模原の殺人事件を受け、容疑者の父親からの謝罪があったとのこと。
容疑者の父親は教師らしく、犯罪に対しての謝罪を勤務している学校で
親御さん達に対しておこなったとの報道だった。
この犯罪は微塵も許されるべきものではないし、仮に容疑者が極刑となっても
殺された被害者とその家族は何も浮かばれないだろうと想像する。
しかしながら、
親の謝罪に意味があるのだろうか?
気持ちは察するが、それでも親の謝罪は何を意味するかが理解できない。
何に対しての謝罪だったのだろうか?
罪の無い人を殺めてしまったことについてか?
それは容疑者の責任なので、親の謝罪では何も解決しない。
それでは容疑者の今までの養育についての反省の弁か?
これは子供と大人という境界線をどのように定めるか?という大きな問題が残ると感じる。
20歳から成人とするならば、30歳近くになっている容疑者の親としての責任を問うのも
違うと思うし、また責任の所在は親ではないから、やはり違和感がある。
子供と大人の境界線、についてはずっと違和感を感じ続けている。
ここ数年は企業の入社式に親が付き添いでくる事が珍しくない。
毎年、その光景を見ると吐きそうになる。
そして学校の入学式と勘違いしているバカ親が実在しているのは事実だ。
どんな気持ちで入社式に付き添っているのか?
考えるだけで吐きそうになる。
そんな精神的に未熟な人は、大人に成りきれていない程度の悪い子供なので
仕事が出来るはずもなく、入社まもなく辞めてゆく傾向が強い。
仕事はデジタルの世界ではないために人が介在する。
人とのコミュニケーションがどうしても付きまとうので、
そのコミュニケーションによる弊害から仕事を辞めてしまうのである。
そりゃそうだろう。入社式に親が同伴なんてことは、その企業の中では
”違和感として”話題になるだろうし、そんな親離れ、子離れが出来ていない社員は
最初から会社になじめない空気を自分自身で作ってしまっていると思われるから、
最初からアウェイな環境下で仕事を始めることになるから辛いはずだ。
何でこんな事に気が付かないのだろう?と思いながら、
親の教育ということについて考えさせられるのである。
容疑者の父親の謝罪という行動はどのような意味があるのか?
やはり頭の悪い自分には理解できない。
梅雨明けしたとはいうもののゲリラ豪雨の毎日で
夏本番という感じがしないという人も多いのでは。
気温と湿度は物凄いから夏には間違えないけれど。
田舎暮らしをしている自分にとって夏の醍醐味は何と言ってもセミの鳴き声の変化だ。
今はアブラゼミ、ミンミンゼミが全開で朝からうるさいぐらいだ。
8月の盆を過ぎたあたりから、いや8月下旬にくらいかな? セミの中でも一番好きな
”ひぐらし”が夕方ぐらいからしっとりと鳴き始める。
夏の夕方に大きな木陰に身をおいている時に”ひぐらし”の声が聞こえてくると
これは極上のヒーリングミュージックに感じる。
出来ればね、
”ひぐらし”は一匹で鳴いて欲しいのよ。
偶然にもそういうシーンに出くわした事があって、
大きな木陰で佇んでいた時に一匹の”ひぐらし”が夕方に鳴いていた。
その空間はとてつもなく静寂感があり、そして癒された。
今年も”ひぐらしの音”を静かな場所で味わいたい。
夏本番という感じがしないという人も多いのでは。
気温と湿度は物凄いから夏には間違えないけれど。
田舎暮らしをしている自分にとって夏の醍醐味は何と言ってもセミの鳴き声の変化だ。
今はアブラゼミ、ミンミンゼミが全開で朝からうるさいぐらいだ。
8月の盆を過ぎたあたりから、いや8月下旬にくらいかな? セミの中でも一番好きな
”ひぐらし”が夕方ぐらいからしっとりと鳴き始める。
夏の夕方に大きな木陰に身をおいている時に”ひぐらし”の声が聞こえてくると
これは極上のヒーリングミュージックに感じる。
出来ればね、
”ひぐらし”は一匹で鳴いて欲しいのよ。
偶然にもそういうシーンに出くわした事があって、
大きな木陰で佇んでいた時に一匹の”ひぐらし”が夕方に鳴いていた。
その空間はとてつもなく静寂感があり、そして癒された。
今年も”ひぐらしの音”を静かな場所で味わいたい。
深夜3:30頃に巨大な爆音がして目が覚めた。
最初爆弾か何かが落ちたのだと思った。
窓もビリビリと音を立てて揺れていた。
寝ぼけているからよく状況が理解できなかったが、
その後に更に大きい音がし、カミナリだと分かった。
遠雷も凄いし、かと思えば物凄く近くに落ちまくっているのだ。
こんなにカミナリが頻度上げて落ちまくっているのは初めての経験かもしれない。
消防サイレンが鳴り響く。
消防車も頻繁に行き交い、そして救急車の音もする。
深夜から早朝まで怒号のカミナリと豪雨が続いた。
そんな豪雨とカミナリが鳴り響く中をスーツ着て出かけた。
無論、
びしょ濡れだ。。。
梅雨明けてないよね?
最初爆弾か何かが落ちたのだと思った。
窓もビリビリと音を立てて揺れていた。
寝ぼけているからよく状況が理解できなかったが、
その後に更に大きい音がし、カミナリだと分かった。
遠雷も凄いし、かと思えば物凄く近くに落ちまくっているのだ。
こんなにカミナリが頻度上げて落ちまくっているのは初めての経験かもしれない。
消防サイレンが鳴り響く。
消防車も頻繁に行き交い、そして救急車の音もする。
深夜から早朝まで怒号のカミナリと豪雨が続いた。
そんな豪雨とカミナリが鳴り響く中をスーツ着て出かけた。
無論、
びしょ濡れだ。。。
梅雨明けてないよね?
生きていれば矛盾と葛藤することはよくあるのではないだろうか。
学生時代から矛盾が多いなと感じながら、その矛盾と向き合おうとしていた。
でもね、矛盾とは向き合わない方が良い(笑)。
向き合っても矛盾は解決しないから。。
矛盾を感じたら、その矛盾の間には何かが生まれる源泉があると思った方が良い。
矛盾の世界には、そういったパワーが実在する。
矛盾があるからこそ生まれるモノ・コトがあるようだ。
だから矛盾がどうして生じるのか?なんて考えない方が良いね。
世の中矛盾だらけ。
それを悲観したら損するよ(笑)。
人が生み出す社会だからこそ矛盾が生じるのだろう。
これ、デジタルの世界ではありえないからね。
矛盾との闘い、
これは捉え方によっては面白い、と最近思う。
今朝のニュースを観て心底嫌な気持ちになった。
26歳のバカ男が大量に刃物で殺傷した事件が起きた。
障害者施設に侵入して明け方に惨劇は起きたらしい。
死者が19人、重軽傷負っている方が20名以上になるらしい。
犯人は自首したそうだが、施設の元職員だったそうだ。
障害を持っている人を殺す。。
キレイごとを言うつもりは無いが、
自分には全く理解できない。
殺された親御さん達の気持ちはどうなのだろうか?
無抵抗な障害者達を殺す。
誰も好き好んで障害を持っている訳じゃない。
いつだって被害者は社会的弱者だ。
障害者によって迷惑掛かることだって沢山あるだろう、
それでも懸命に生きる、そしてその権利のある障害者を
”ねたむ”という感覚が理解できない。
だいたい”ねたむ”という心理が許されるのだろうか?
本当に誰も好き好んで障害を持った訳ではないのだ。
その社会的弱者を守るのが健常者の責務ではないかと。
弱者を守れない男は要らない。
26歳のバカ男が大量に刃物で殺傷した事件が起きた。
障害者施設に侵入して明け方に惨劇は起きたらしい。
死者が19人、重軽傷負っている方が20名以上になるらしい。
犯人は自首したそうだが、施設の元職員だったそうだ。
障害を持っている人を殺す。。
キレイごとを言うつもりは無いが、
自分には全く理解できない。
殺された親御さん達の気持ちはどうなのだろうか?
無抵抗な障害者達を殺す。
誰も好き好んで障害を持っている訳じゃない。
いつだって被害者は社会的弱者だ。
障害者によって迷惑掛かることだって沢山あるだろう、
それでも懸命に生きる、そしてその権利のある障害者を
”ねたむ”という感覚が理解できない。
だいたい”ねたむ”という心理が許されるのだろうか?
本当に誰も好き好んで障害を持った訳ではないのだ。
その社会的弱者を守るのが健常者の責務ではないかと。
弱者を守れない男は要らない。
週末だったことも相まってなのか判らないが、
沢山のポケモンGOをやっていると思われる”没頭族”が
道路際でかなり危険行為を繰り返していた。
まさにゲームに没頭していて、
車道に平気で出てくるし、
クラクションを鳴らしても反応しなかったり。
このアプリが出回る前から、
スマホに没頭して事故を引き起こす、あるいは
巻き込まれる件数が多かっただけに、
更に悪化している状況は自分にとって他人事でない。
事故に巻き込まれるのが非常に迷惑だからだ。
現道交法ではいかなる理由があっても
歩行者に有利に出来ていて、車運転している側の不注意となり
罰則が科せられる。
自転車乗りながらスマホをしているバカも多くいる訳で、
今後は突然車道に出てくることも考えられる訳で、
更に危険な状況になった感じがする。
本当に迷惑極まりないね。
今後は駅のプラットホームから落ちる人も増えるのでは?
電車にぶち当たって死亡するとかね。。。
沢山のポケモンGOをやっていると思われる”没頭族”が
道路際でかなり危険行為を繰り返していた。
まさにゲームに没頭していて、
車道に平気で出てくるし、
クラクションを鳴らしても反応しなかったり。
このアプリが出回る前から、
スマホに没頭して事故を引き起こす、あるいは
巻き込まれる件数が多かっただけに、
更に悪化している状況は自分にとって他人事でない。
事故に巻き込まれるのが非常に迷惑だからだ。
現道交法ではいかなる理由があっても
歩行者に有利に出来ていて、車運転している側の不注意となり
罰則が科せられる。
自転車乗りながらスマホをしているバカも多くいる訳で、
今後は突然車道に出てくることも考えられる訳で、
更に危険な状況になった感じがする。
本当に迷惑極まりないね。
今後は駅のプラットホームから落ちる人も増えるのでは?
電車にぶち当たって死亡するとかね。。。
生きていれば節目ごとに決断を迫られる。
今までにも何度となく決断をしてきたし、
その決断が本当に正しかったかどうかは判らない。
人生、そんなことの繰り返しなのだと思うし
節目を経てゆくことが歳を重ねるということなのだと改めて思う。
今また大きな節目を迎えることになり、
大きな決断を迫られている。
自分は逃げもしないし、目を背けることもしない。
別に殺される訳ではないからね(笑)。
毎日が頭の中の整理。
いよいよ夏の陣が始まる。
先日会話の中で点数が付くカラオケの話になった。
”あいつがダントツに得点が高くてさ、94点だって。NO.1だったよ。。”
”へえ~、あいつ歌上手いんだねえ。知らなかった。。”
とまあこんな感じのユルい会話がされていたのを静かに聞いていた。
今の時代、ボーカロイドと呼ばれる声を合成させコンピュータに歌わせる手法の音楽に
爆発的な人気があったりする時代なので、もはや”歌”に対する捉え方は千差万別。
考えてみれば、”歌が上手い”と一概に言うけれど、”何をもって評価しているのか?”が
実に曖昧だったりする。点数カラオケは、その名の通り”点数評価”で定量化されるので
高得点=歌が上手い、という評価になるのだろう。
実は自分は生涯においてカラオケには3回しか行ったことがなく、
それは全て仕事絡みでの事だった。
その3回とも点数カラオケで当然の事ながら参加者全員がエントリーさせられた。
結果は85点~90点で、その宴会の場ではNO.1だった。。。
ちなみに、自分は”歌がヘタだ”。
自分の中には明確な定義があって、”歌が上手い”と評価するには、
1、個性的な味わいがあること 2、リスナーの琴線に触れ心が揺さぶられること
3、マイクを持っただけで歌い手のフォルムが恰好が良いと感じること
4、声色をコントロールできること 5、リズム感があること
上記の事は最低限”歌が上手い”と評価される人は持っている。
さて、点数カラオケで何故自分のような”歌ヘタ”人が高得点を取れたのか?
それは簡単で、楽譜どおりに、音程を安定させ、ブレスの位置を正確にし、
一定の声量で歌うようにしたからだ(笑)。
機械が判定する仮称”歌が上手い人”になるには、無機質に上記の方程式を守れば
誰でも高得点は出せる。
つまりボーカロイドが点数カラオケしたら確実に100点だということ。
極端な事を言えばボーカロイドは歌が上手いのか?となる(笑)。
”歌が上手い”という評価は定量では極めて計りにくく、定性要素が多分に必要だ。
自分の歌は、誰の心も揺さぶらず、そして歌う姿は恰好が悪く、姿勢も悪く、
そして致命的に”味わいのない、無個性な歌”なので、ヘタだということを自覚している。
点数カラオケが悪いのでは無いのでご理解頂きたい(笑)。
点数カラオケは歌を定量評価することでエンタテイメントとして場が盛り上がり、
そして高得点を出せる人は何となく優越感を味わえる画期的な娯楽装置だ。
歌の評価というのは画一的にならないし、なってはいけないのだけれど、
点数カラオケによって歌が定量評価されるようになっている現実が少し怖いと
勝手に思っている。
”あいつがダントツに得点が高くてさ、94点だって。NO.1だったよ。。”
”へえ~、あいつ歌上手いんだねえ。知らなかった。。”
とまあこんな感じのユルい会話がされていたのを静かに聞いていた。
今の時代、ボーカロイドと呼ばれる声を合成させコンピュータに歌わせる手法の音楽に
爆発的な人気があったりする時代なので、もはや”歌”に対する捉え方は千差万別。
考えてみれば、”歌が上手い”と一概に言うけれど、”何をもって評価しているのか?”が
実に曖昧だったりする。点数カラオケは、その名の通り”点数評価”で定量化されるので
高得点=歌が上手い、という評価になるのだろう。
実は自分は生涯においてカラオケには3回しか行ったことがなく、
それは全て仕事絡みでの事だった。
その3回とも点数カラオケで当然の事ながら参加者全員がエントリーさせられた。
結果は85点~90点で、その宴会の場ではNO.1だった。。。
ちなみに、自分は”歌がヘタだ”。
自分の中には明確な定義があって、”歌が上手い”と評価するには、
1、個性的な味わいがあること 2、リスナーの琴線に触れ心が揺さぶられること
3、マイクを持っただけで歌い手のフォルムが恰好が良いと感じること
4、声色をコントロールできること 5、リズム感があること
上記の事は最低限”歌が上手い”と評価される人は持っている。
さて、点数カラオケで何故自分のような”歌ヘタ”人が高得点を取れたのか?
それは簡単で、楽譜どおりに、音程を安定させ、ブレスの位置を正確にし、
一定の声量で歌うようにしたからだ(笑)。
機械が判定する仮称”歌が上手い人”になるには、無機質に上記の方程式を守れば
誰でも高得点は出せる。
つまりボーカロイドが点数カラオケしたら確実に100点だということ。
極端な事を言えばボーカロイドは歌が上手いのか?となる(笑)。
”歌が上手い”という評価は定量では極めて計りにくく、定性要素が多分に必要だ。
自分の歌は、誰の心も揺さぶらず、そして歌う姿は恰好が悪く、姿勢も悪く、
そして致命的に”味わいのない、無個性な歌”なので、ヘタだということを自覚している。
点数カラオケが悪いのでは無いのでご理解頂きたい(笑)。
点数カラオケは歌を定量評価することでエンタテイメントとして場が盛り上がり、
そして高得点を出せる人は何となく優越感を味わえる画期的な娯楽装置だ。
歌の評価というのは画一的にならないし、なってはいけないのだけれど、
点数カラオケによって歌が定量評価されるようになっている現実が少し怖いと
勝手に思っている。