大坂城二の丸 豊国神社~大阪城vol.6(大阪府大阪市中央区)(大阪、奈良旅行⑧)  | ケイの旅ブログ

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  こんばんは~星空

 
  今日の関東地方は、1月とは思えない暖かさでした。
 
  この陽気のせいで、野菜が早く成長してしまうらしいですね。
 
 
  大分間が空いてしまいましたが、「大坂城」の続きです。
 
  新年から「本丸」に行かれるようにと思っていたのですが、結局「二の丸」からになってしまいました。
 
 
  地図を載せますね。
 
 
「西の丸庭園」の「焔硝蔵(えんしょうぐら)」から東側「内堀」側を通り、「二の丸」方面に歩きます。


 
 
「西の丸庭園」の南側に「南仕切門跡」の石垣があります。
 
 
「南仕切門跡、太鼓櫓跡」の案内板です。
 
  「本丸」と「西の丸」の南側に「二の丸」があります。
 
  「二の丸」の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの場所に建っていたのが、
 
  「南仕切門」です。
 
  門の西側石垣の上には「太鼓櫓」と呼ばれる二層の櫓があり、どちらも「徳川幕府」による大阪城再建工事
 
  の最終段階にあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられます。
 
  「太鼓櫓」は城内の櫓の中でも最も小規模なもので、中に「太鼓」が納められていました。
 
  ここには「太鼓坊主」と呼ばれる僧形の役人が交替で詰め、「香(こう)」を焚き時刻を計り、城内勤務の
 
  大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らしました。
 
  どちらも慶応4年(明治元年、1868)、明治維新の際の大火により焼失しました。
 
 
もう少し進みましょう。写真、奥の建物は、「六番櫓(ろくばんやぐら)」です。
 
 
「重要文化財 六番櫓」の案内板です。
 
  「二の丸」南側の石垣上には、二層二階でほぼ同規模の「隅櫓(すみやぐら)」が、東から西へ、一番から
 
  七番まで建っていました。
 
  この櫓は東から六番目なので、「六番櫓」と言います。
 
  現在は「一番櫓」と「六番櫓」しか残っていません。
 
  「六番櫓」の内部はと言いますと、外側にあたる南面と西面に「石落し」を1ヶ所ずつ設け、窓は外側を
 
  中心に26か所、鉄砲や矢を放つための「狭間(さま)」も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりに
 
  なっているそうです。
 
  何故、創建の日付が判ったかと言いますと、上層の「破風(はふ)」を飾る東西の「懸魚(げぎょ)の」うち、
 
  西側の「懸魚」の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれていたからです。
 
  因みに「懸魚(げぎょ)」とは屋根の下の木口を隠す彫刻や透かし彫りの飾り板のことです。
 
   例えば下の写真でしたら、中央の彫刻の飾り板です。
          「懸魚」の画像検索結果     
                       (画像お借りします。)
 
  このような飾り板の裏側に日付が書かれていたのですね~ビックリマーク
 
  面積は1階が約224.16㎡、二階が約133.436㎡、高さは約15。4㎡あります。
 
  「六番櫓」は遠くから見ただけで近くに行かず、先を急ぎます。
 
 
「六番櫓」の手前に「石山本願寺推定地」の案内板があります。
 
  古代、現在の「大阪城公園」の南側に位置する辺りに「難波宮(なにわのみや)」が営まれ、宮殿を中心に
 
  壮大な「難波京」の計画が立てられました。
 
  この「難波京」は8世紀末に廃墟になりましたが、明応5年(1496)に、浄土真宗「本願寺」八世「蓮如」が
 
  摂津国東成郡生玉庄大坂という所に「大坂坊舎」を建立しました。
 
  これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる最初の例です。
 
  その建立をきっかけに活気が生まれ、16世紀にはその一帯が「石山本願寺」とその寺内町大坂として
 
  繁栄しました。
 
  その後「細川氏」をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で「大坂」の重要性が増しました。
 
  一方、天文元年(1532)に「六角定頼」と「法華宗徒」によって京都の「山科本願寺」が焼き討ちされました。
 
  そのような経緯もあり、「本願寺教団」の本拠としての「石山本願寺」になりました。
 
  「石山本願寺」周辺は、京都の山科と同様に広大な寺内町が造営されました。
 
  この造営が現在の「大坂の町並み」の原型になったものと考えられています。
 
  その後十一世「顕如」の時に「織田信長」との「石山合戦」に敗れ、「石山本願寺」を退去しました。
 
  「本願寺教団」はその後、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転しました。
 
  その一方、「石山本願寺」跡には「豊臣秀吉」によって「大坂城」が建設されました。
 
  この時代に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられています。
 
  更に「大坂夏の陣」の後、「徳川大坂城」が建設されるに際、再び大規模な土木工事が行われました。
 
  このような状況のため「石山本願寺」跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ正確な位置は確認
 
  されていませんが、、現在の「大阪城公園内」にあたることは確実と考えられています。
  
  
「桜門」の近くまで来ました。
 

「桜門」をくぐると「本丸」なのですが、その前に「二の丸」の「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」に寄って行きますね。
 
 
こちらは「手水舎」ですが、形が珍しいですね。
  水道が付いているんですよ~ビックリマーク
 
 
「大坂城」と言えばやはりこの方でしょうか。
 
 
「豊臣秀吉」公の像です。
 
  「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」は、「豊臣秀吉」、「豊臣秀頼」、「豊臣秀長」を御祭神としています。
 
  明治元年(1868)、明治天皇により「大坂裁判所」(「大阪府の前身」)に建立の御沙汰がありました。
 
  明治12年(1879)、京都府京都市東山区に鎮座する「豊国神社」の大阪別社として創建されました。
 
  最初は大阪市北区中之島に創建されましたが、後に現在地に遷座されました。
 
  後に京都の「豊国神社」から独立して「豊國神社」に改称。
 
  京都の「豊国神社」は、「とよくにじんじゃ」と訓読みです。
 
  また、京都の「豊国神社」は「豊臣秀吉」のみを御祭神としています。
 
  私は行かれなかったのですが、こちらの「豊国神社」の境内には「重森三玲」作の石庭「秀石庭」があり
 
  ます。
 
「秀吉」の「秀」と「石山」の「石」から石庭は「秀石庭」と名付けられたそうです。

 

 

 

正面に見えるのが、「拝殿」と「本殿」です。
 
 
お詣りを済ませ、いよいよ「本丸に」向かいます。
 
 
 
 
                             11/23
 
 
 
                                                                  つづく
 
 

  ご訪問くださいまして、ありがとうございました。