今年も残すところわずかとなってしまいました。
記事が大分溜まっています。
年末までには無理でしょうけど、少しずつアップしていきますね。
今回は11月19日に行った栃木県佐野市の「唐沢山城跡」です。
平成26年(2014)に「国の史跡」に指定され、今年(平成29年(2017))「続日本100名城」(114番)に
選定されました。
やっと最近その価値が広く認識されたということでなのでしょうか。
本当は山裾から登って来れば全容が理解出来たのかも知れませんが、レストハウスのある所まで、車で
登ってしまいます。
見晴らしがいいですね~。

道路は上りと下りが別々になっているので安心です。
「唐沢山」は標高247mです。
「くい違い虎口(こぐち)」のお隣の「蔵屋敷」と呼ばれる場所にレストハウスがあります。
レストハウスに駐車場があるので、車をとめますね。
「くい違い虎口(こぐち)」から入ります。

その前に、こちらの案内板をご覧ください。ちょっと、読みづらいですね。

「唐沢山城跡」のある「唐沢山」は、栃木県佐野市の北側に位置しています。
唐沢山は赤松で覆われ、しかも断崖と深い谷に囲まれていて、お城には向いていたのだと思います。
「唐沢山城」の始まりは今から千年も昔、「百足(むかで)退治」で有名な「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」
の居城跡だと伝えられています。
山頂に「本丸」が置かれ、現在は藤原秀郷を祀る「唐沢山神社」が鎮座しています。
ちょっと解りにくいところがあるので、まとめてみますね。
別名 栃本城、根古屋城、牛ヶ城
城郭構造 連郭式山城
築城主 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
築城年 延長5年(927)
主な改修者 佐野成俊、佐野盛綱
主な城主 佐野氏
廃城年 慶長7年(1602)
遺構 石垣、大手枡形、土塁、縦堀、土橋、復元井戸
「関東七名城」の一つなのだそうですが、今まで「日本100名城」に選ばれていないのが不思議だという
声があったそうです。
築城主「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」は先程も書きましたが「百足(むかで)退治」で有名です。
「藤原秀郷」のことを書きますね。
平安時代中期の貴族であり豪族であり武将でもありました。
別名は「俵藤太(たわらのとうた、たわらのとうだ)」です。
「俵藤太」(田原藤太)は昔話に出て来るので、ご存知の方が多いと思います。
藤原北家魚名流の流れを汲んでいます。
室町時代になり「俵藤太絵巻」が完成して、「近江三上山の百足(むかで)退治」の伝説で有名になりま
した。
延長5年(927)、藤原秀郷が従五位下、下野国押領使を叙任、関東に下向し「唐沢山」に城を築いたのが
始まりと伝えられています。
下野(しもつけ、現在の栃木県)の役人でしたが、天慶3年(940)「平将門」追討の功により(天慶の
乱)、従四位下に昇り、下野、武蔵の国司と鎮守府将軍に叙せられました。
出生地ははっきりしませんが、以前滋賀県の「瀬田の唐橋」に行った時、俵藤太の「百足(むかで)退治」の
絵を観た記憶がありますね~。
藤原秀郷の死後、5代まで唐沢山城は続いたものの6代の時廃城になりました。
その後平安時代末期の治承4年(1180)に9代俊綱の弟「成俊」が再びここに城を再興し、「佐野氏」を
名乗りました。
鎌倉時代に入った建保元年(1213)、「成俊」は30余年の歳月をかけて城を完成させたという伝承もあり
ます。
でも、最近の研究で唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡れないことが判りました。
唐沢山城は藤原秀郷が築城したという伝承の背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷である
からともいわれています。
地図を載せますね。

「くい違い虎口」です。

「虎口(こぐち、ここう)」とは出入り口のことですね。
「くい違い」は宿場町や城下町でも見かけますね。
敵が直進出来ないように、「鍵の手」に折れて「くい違い」に造られている通路のことです。
内側は枡形になっています。
右手に折れると「天狗岩」の案内板が見えます。

下りて来られた方が、景色が良いですよ、と教えてくださったので行ってみますね。
その前に、ネコちゃん発見~



こちらから登るのですね。

階段を上ります。

最初に見える景色です。本当に景色がいいです~




見事な眺望を活かして、広く周囲を見張る役割を果たしていた場所と考えられています。
「物見櫓」があったそうですよ。
「天狗岩」は「大険山(だいけんざん)」とも呼ばれる岩山です。

松ぼっくりが分かります。

最初に「赤松で覆われ、しかも断崖と深い谷に囲まれた唐沢山 」と書きましたが、まさにここはその象徴的
な所ですね。


写真では分からないのですが、眼下にある「鏡岩」や「虎口」を通る侵入者に攻撃を加えることも出来ます。
また、史料によると、天狗岩の裏に大筒が掛けられていたという記述もあるそうです。
あらら、またネコにゃん発見~



天狗岩から下り「唐沢山荘」の前を通ります。

「唐沢山荘」の向かい側の紅葉が見事です~


少し進むと鳥居が見えて来ます。

鳥居の前にこちらの「奉賛箱」が置かれています。

一人200円以上です。
「竜神宮」が祀られているのですね。

やはり藤原秀郷(俵藤太)と竜神一族の繋がりでしょうか。
「竜神宮」のご祭神は、「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」です。
そう言えば私が行った「瀬田の唐橋」の上で俵藤太は身体を蛇に変えた竜神一族の娘と出会い、百足退治
を頼まれたのです。
案内板があるのですが、読みにくいので私はスルーします。興味のある方はお読み頂けたらと思います。

「龍神宮」の前にあるのが、「大炊の井(おおいのい)」です。

「大炊の井」は口径9m、深さ8mの大きな井戸です。
築城に際して厳島大明神に祈請したとされています。
山上の水の確保は重要ですが、現在まで涸れることなく豊かな水を蓄えているそうです。
余談ですが私が行った後、佐野市で幟にあるように「山城サミット」が開かれたようです。
鳥居をくぐります。

少し登ったところにあるのが、「四つ目堀」に架かる「神橋」です。

「神橋」はかつて「曳橋」であったとされ、いざという時に橋を引き払い通行を遮断したと伝えられています。
今の「神橋」は、大正15年皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚記念として地元の高齢者から寄与されたもの
だそうです。
「四つ目堀」の案内板です。

「四つ目堀」は、西城域と「帯曲輪(おびくるわ)」以東とを大きく分断する堀切です。

いざという時には、橋を引き払って通行を遮断することが出来ました。
古地図に堀口5間、深さ2間とあるそうです。
「神橋」を渡って更に進みます。

「帯曲輪(おびくるわ)」の南に当たるのでしょうか。美しい紅葉です。

行ってみますね。

こちらを上って行くと、「三の丸」に行かれるのですね。

奥が「三の丸」でしょうか。

こちらが「三の丸」です。

現在は「帯曲輪」と「二の丸」の間を「三の丸」としています。
「唐沢山城」の中では、大きな曲輪です。
賓客の応接間があったとされています。
周囲は斜面を削って人工的に断崖とした高く急な「切岸(きりぎし)」が巡らされています。
部分的な石垣も残っています。
「三の丸」からの見晴らしもいいですね~


「三の丸」からは、「二の丸」と「本丸」の石垣に沿って歩きます。

これだけの石垣は関東では珍しいそうですよ。


「高石垣」は40mも続きます。

高さは8mを超えるそうです。
小田原合戦以降、佐野氏が豊臣秀吉と深い関係にあったため、西日本を中心とする石垣の技術を導入し、
築かれたものと考えられています。
歩いて来た道を振り返ります。

「本丸」への登り口が見えて来ました。
こちらが「本丸」(「唐沢山神社」)の入口です。

「本丸」へは、こちらの石段を上って行きます。

11/19
つづく