令和5年9月2日参拝
野間大坊から徒歩3分でした。大御堂寺織田信孝の墓関連で来たかったとこ!
53番安養院は大御堂寺14坊の南ノ坊としてはじまり江戸時代に安養院と改称、
明治時代に慈雲院・圓明院・龍松院を合併して現在に至ります。
天正11年(1583)羽柴秀吉との後継者争いに敗れて野間に逃れた織田信孝(織田信長の3男)が安養院で無念の切腹。
自ら腸をつかんで投げつけた血染めの掛け軸なんてのが残されているそうですよっ。
辞世の句がオシャレなのよ‥Σ(`Д`)!!
「昔より主を討つ身(内海)の野間ならば
報いを待てや 羽柴筑前 」
ちなみに秀吉の辞世の句。
「露と落ち 露と消えにしわが身かな
なにわのことも 夢のまた夢」
しみる‥。切ない‥( ノД`)
推定樹齢650年のソテツだって‥。
すごい存在感
境内は自由に参拝できるけど長居する程の何かがあるわけでもなく‥数珠ぐるぐるまわして納経所へw
記念印は弘法大師誕生仏でした✨
拝所に可愛い像があったような気がする。
続いて52番の密蔵院。
こちらも大御堂寺の子院です。
宝乗坊という学頭職を務めるお寺だったとか。
密蔵院に到着してGoogleマップを見たら裏山を越えたとこがはりつけの松だったんですね。
上のお堂の脇に はりつけの松こっち👉 の案内板がありました。
ところで誰が磔にされたかというと、
さっき触れた織田信孝も認める伝説の裏切り者長田忠致・景致父子です。
平治の乱で敗れた源義朝は家臣鎌田政清の妻の実家である野間の長田邸に身を寄せました。
長田父子は義朝に酒を飲ませて風呂で殺して平清盛に首を差し出し壱岐守の地位を授かったんです(非道の振る舞いに清盛もどん引き?w)。
のちに源頼朝が挙兵した際に「活躍したら美濃・尾張をやる」と言われて義経に随行したらしいんですが、
戦から帰ると「約束通り身の終わりをくれてやるわー」と磔にされちゃったという、
上手いこと言いながら自分の手で親の仇を取った頼朝さんかっこいい!
長田忠致の辞世の句がこちら🫱
「長らえし命ばかりは壱岐守
美濃尾張(身の終わり)をば 今ぞたまわり」
みなさんシャレてますわ。
海が近いからこんな話も。
記念印は修行大師でした。
密蔵院にも山伏のようにゴザ+笈を背負ったスタイルの大師がいました。
「暑いのにご苦労様ね〜、どちらから?」
多分、名古屋とか岡崎と答えても「あら遠くから‥」となったと思うけどわたしが「東京から」なんて言うもんだから奥さん大きな声で「えーーっ!」と驚きキラキラした瞳で「それはそれは、頑張っていただきたいわ✨」
弱ってるとこに優しく声かけていただいたもんで素直に泣いてしまったよ。
張りつめてたものが吹っ飛んで清々しい気持ちで密蔵院を出ました。
田んぼの向こうに見える密蔵院に向かって感謝の合掌🙏
28. 53番 安養院
愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠90-1
29. 52番 密蔵院
愛知県知多郡美浜町大字野間字松下105