ひなた
素直に日向を
掘ってゐる
そのうちいいこともある
山蘭の白い匂ひがする
この 純な、宝石のように美しい詩を書いた 大木惇夫 (1895-1977) は、ワタクシの好きな詩人のひとりです。
彼は戦前、日本を代表する詩人でしたが、戦後はまったく無視され、詩集を出すというこさえ出来ませんでした。戦争に協力した詩を書いたという理由からです。
このように非難され、迫害を受けた作家は他にもたくさんいます。
高村光太郎
は、敗戦と同時に東北の山奥の掘立小屋に独り棲んで、人目を避け、自らを酷使しました。 画家の藤田嗣治
は、 追われるようにして日本を去り、フランスに移り、二度と再び戻ることはありませんでした。
しかし、考えてみれば、戦いが始まるまでは、戦争反対を叫んでも、いざ始まってしまえば、勝利を願い、ひたすら勝利を祈るというのは、日本人として ごく当たり前のことではないでしょうか?・・・まして、父母の許を離れ、妻子を離れて、戦いに明け暮れる兵士たちのために、何とか彼らを慰めようと、筆を執ることのほうが、よほど自然ではないでしょうか?!・・・
「日本よ負けてしまえ!」と思っていたわけではないにしても、沈黙を守っていた者たちは、戦後 息を吹き返し、戦時中 活躍した彼らを「戦争協力者」の烙印を押して非難し、無視し、排斥したのでした。
大木惇夫のような優れた詩人が、戦後まったく顧みられることなく、不遇のうちに亡くなっていることに、何とも不合理なものを感じつづけてきました。
しかし、今回 調べてみて、困窮のなかでも、晩年には 紫綬褒章や 勲四等旭日小綬章やをもらっていること。故郷・広島の三龍寺の参道には、「ひなた」の詩を刻んだ碑が昭和59年に建てられていること(碑に作者の詳しい説明はないが)などを知って、いささかホッとしました。↓
次回は、彼の戦争詩の代表作をご紹介しましょう。
★広島・三龍寺の参道にある碑(山蘭とはコブシの古称)