大木惇夫という詩人① | 一言一会 (IchigonIchie)

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これまで、じつにさまざまな言葉を聞き、読み、そして発してきました。

このまま、忘れられてしまうというのは、もったいないような 気がし、
思いつくまま、書きとめていきたいと思います。 2012.10.3



          ひなた 

 


   



        素直に日向を


        掘ってゐる


        そのうちいいこともある


        山蘭の白い匂ひがする




  この 純な、宝石のように美しい詩を書いた 木惇夫 (1895-1977) は、ワタクシの好きな詩人のひとりです。


彼は戦前、日本を代表する詩人でしたが、戦後はまったく無視され、詩集を出すというこさえ出来ませんでした。戦争に協力した詩を書いたという理由からです。


このように非難され、迫害を受けた作家は他にもたくさんいます。
高村光太郎 は、敗戦と同時に東北の山奥の掘立小屋に独り棲んで、人目を避け、自らを酷使しました。 画家の藤田嗣治 は、 追われるようにして日本を去り、フランスに移り、二度と再び戻ることはありませんでした。


しかし、考えてみれば、戦いが始まるまでは、戦争反対を叫んでも、いざ始まってしまえば、勝利を願い、ひたすら勝利を祈るというのは、日本人として ごく当たり前のことではないでしょうか?・・・まして、父母の許を離れ、妻子を離れて、戦いに明け暮れる兵士たちのために、何とか彼らを慰めようと、筆を執ることのほうが、よほど自然ではないでしょうか?!・・・


「日本よ負けてしまえ!」と思っていたわけではないにしても、沈黙を守っていた者たちは、戦後 息を吹き返し、戦時中 活躍した彼らを「戦争協力者」の烙印を押して非難し、無視し、排斥したのでした


大木惇夫のような優れた詩人が、戦後まったく顧みられることなく、不遇のうちに亡くなっていることに、何とも不合理なものを感じつづけてきました。


しかし、今回 調べてみて、困窮のなかでも、晩年には 紫綬褒章や 勲四等旭日小綬章やをもらっていること。故郷・広島の三龍寺の参道には、「ひなた」の詩を刻んだ碑が昭和59年に建てられていること(碑に作者の詳しい説明はないが)などを知って、いささかホッとしました。


次回は、彼の戦争詩の代表作をご紹介しましょう。




日向

       ★
広島・三龍寺の参道にある碑(山蘭とはコブシの古称)