ヨハネの福音書     38 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     38  13章18節~32節

 

エゴー エイミー

前回から、イエス様のメッセージが続いている。今回の冒頭の18節は、再びイスカリオテ・ユダのことが述べられているが、このことは後述する。

そして次の19節でイエス様は、「わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです」とおっしゃっている。イスカリオテ・ユダの裏切りについての御言葉が続いているため、ここでの「そのことが起こる」ということが、ユダの裏切りについて語っておられるとも読めてしまう。

しかし、「わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです」という箇所の、「わたしがその人である」と訳された言葉は、ギリシャ語原語では「エゴー エイミー」である。すでに『ヨハネの福音書講解8』で述べた通り、この「エゴー エイミー」という言葉は、『七十人訳聖書』の『出エジプト記』3章14節にあるところの、神様ご自身がご自身の名前として語られた御言葉であり、ヘブル語原語の直訳は、「わたしはわたしだ」となる。そしてこれを『新改訳聖書』も『新共同訳聖書』も、「わたしはある」と訳している。つまり、ヨハネはここで「エゴー エイミー」という言葉を用いることによって、イエス様ご自身こそ、神様と同等なる方であり、絶対的主体である「わたし」である、ということを表わしている。

したがって、『新共同訳聖書』では、この節を、「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と訳しており、霊的にはこの訳の方が正しい。

つまり、「そのことが起こる」の「そのこと」とは、ペンテコステの聖霊降臨の出来事を指すのである。このことに基づいて、19節を言い換えれば、「わたしは、聖霊が信じる者に下る前に、今あなたがたに話しておきます。聖霊が下ったときに、『わたしはわたしだ』とおっしゃった父なる神と、わたしが同等なる者であることを、あなたがたが信じるためです」となる。

 

わたしの遣わす者

続く20節でイエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです」とおっしゃっている。

『ヨハネの福音書講解36』においても、12章44節の「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです」というイエス様の御言葉について見た。この場合の「わたし」は、肉をもって地上に来られた目に見えるイエス様を指すのであり、したがってイエス様は、「わたしではなく」とおっしゃることによって、ユダヤ人として来られたイエス様と、絶対的な神様を区別しておられる、ということを述べた。

しかし今回の箇所においては、直前の19節でイエス様は、「わたしはわたしだ」という絶対的な神様の御言葉を語られており、したがって、この20節の「わたし」は、絶対的神様と同等なるイエス様を表わしているのである。つまり、このイエス様は、肉を持ったイエス様ではなく、ペンテコステ以降の絶対的次元におられる、神様としてのイエス様である。

このことに基づけば、イエス様が遣わす者とは、ペンテコステ以降、御霊によってイエス様を信じ救われた者のことであることがわかる。見た目には他の人と同じく肉を持ち、肉からの思いによって翻弄されてはいても、そのままで「わたしの遣わす者」と呼ばれる者である。その救われた者が救われた者としてこの世にいることで、イエス様が受け入れられるということが起こるのであり、イエス様が受け入れられるということは、相対的なこの世において、絶対的な神様が表現され、認識されることである。

このように、イエス様を信じ救われた者の存在意義は、その存在そのものにあるのであり、その者が、救われたのだからきよめられなければならない、とか、この世を良い世の中としていかねばならない、などということは関係ないのである。

既存のキリスト教会では、救われたならば、次には周りの人々に伝道をしなければならない、と教えており、特に人々が教会に来ることが稀な日本において、そのような言葉は、信徒の非常な負担になる。そして、なかなか人を教会に連れて来ることができないことに劣等感を感じ、自分はダメなクリスチャンだと思うようになり、かえって、周りの人々に、自分はイエス様を信じ救われた者だということさえ言わなくなる。

しかし上に述べたように、その救われた者はそのままでイエス様に遣わされた者なのであり、ただ、自分は救われた者だ、ということで普通に生活しているだけで、その存在意義はじゅうぶん果たされていることになる。そしてその者を通して、神様が自然な形でみわざを起こされるのである。そのような者が、自ら不必要な劣等感を持ち、救われていることさえ表現しなければ、神様は強引にその者を動かされることはないため、何も起こらないのである。

 

霊にかき回される

次の21節の前半には、「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた」とある。「霊の激動」と訳された箇所の原語の直訳は「霊にかき回される」であり、『新共同訳』では、「心を騒がせ」と訳している。そして、それに続く「あかしして言われた」という箇所は、証言するという意味である。

ここまでの箇所で、イエス様はユダの裏切りについては、この章の10節の後半で、「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」とおっしゃり、また今回の箇所の冒頭の18節では、「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです」とおっしゃっている。

つまりイエス様は、「裏切り」という言葉は使わずに、かなり遠回しな言い方によって、このことを表現しておられた。しかし神様のみこころは、弟子の中のひとりが裏切る、ということを明らかにすることであった。そのため、イエス様がそのことを明らかにせざるを得ないほど、神様はイエス様の霊に強く働きかけ、それにより、イエス様の霊はかく乱されたのである。そしてその結果、21節後半でイエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」とおっしゃった。

 

ユダの正義

しかし弟子たちは、そのように言われても、誰のことかわからなかった(22節~25節)。23節の「イエスが愛しておられた者」とは、ヨハネと考えられるが、このような時、必ず真っ先に行動を起こさなければ気の済まないペテロは、そのヨハネに直接イエス様に聞くよう促すほどだった。

イスカリオテ・ユダ(以下ユダと記す)が、いつもイエス様に逆らっていたり、不真面目だったりするならば、他の弟子も「ユダではないか」と思うであろう。しかし、全くわからなかった、ということから、ユダには決して、イエス様を裏切るような仕草さえなかったということがわかる。

ユダも、他の弟子たち同様、イエス様がユダヤの王となることを願って従って来ていた。ただ、他の弟子たちが、いつまでたってもユダヤの王となろうとしないイエス様に疑問を感じながらも、そのまま従って来たのに対して、ユダは、そのようなイエス様を放っておけなかったのである。このままだと、今まですべてを捨てて従って来た自分の行為が無駄になり、自分の期待は裏切られる、と考えたのである。彼にとっては、先に裏切ったのはイエス様であった。

そして、彼は最後の賭けに出た。つまり、イエス様を反対者たちに捕えさせる、ということである。さすがにそのような究極的な状態になれば、イエス様もその神様の力を発揮し、王となる道へと歩み出すだろうと考えたのである。

ところが、『マタイ』の記述によることであるが、捕えられても何もせず、そのまま十字架に追い込まれていくイエス様を見て、「イエスはただの人だった」という結論に達し、結局自分はただの人を死に追いやってしまった、ということで、最後は自ら命を絶ったのである。もともと自己中心主義であり、自分さえ良ければそれで良い、などと思う人間であったら、このような行動には出るはずがない。ユダは普通の人以上に、正義感が強い者だった、ということが、このことからもよくわかる。しかし、あくまでもユダは自分の正義を貫き、その正義が彼の命を奪ってしまった。神様から出ていない肉の正義など、すべてこのようなものである。

 

パン切れを受け取るユダ

ペテロに促されたヨハネの問いに対して、イエス様は「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」とおっしゃり、イエス様は、パン切れを浸し、それを取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった」(26節)。ユダヤ人たちは食事の時、果物や酒などでスープを作り、それにパンを浸して食べていた。

続く27節の前半には、「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った」とある。なぜイエス様は、わざわざパン切れを渡す、ということをなさったのであろうか。それは、あくまでもユダの裏切りは、ユダ自身の意思によることを明らかにされるためである。そして、ユダが自らの意思を働かせたところに、悪魔サタンが働いた。悪魔サタンも、心を開いていない者の中に強引に入ることはできない。一般的に、悪魔サタンがユダの心の中に入ったために、彼がイエス様を裏切った、と考えられているが、それは誤りである。上に述べたように、悪魔サタンとは関係なく、ユダは自らの正義から、イエス様を裏切ることを決意していたのである。

こうしてパンを受け取ったユダに、イエス様は、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(27節後半)とおっしゃった。しかし、イエス様がユダに対して、そこまでおっしゃっているにもかかわらず、弟子たちは誰も、その真意がわからなかった(28節~29節)。それほど、普段のユダは忠実に、かつ寡黙に行動する人物だったのである。そしてユダは、外へ出て行った(30節)。

 

人の子が栄光を受ける

こうしてユダが出て行った時、イエス様は、「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」(31節)と言われた。この31節から32節の御言葉は、同じような言葉が繰り返されているように見え、正しい解釈がなければ、神様とイエス様の間で栄光の受け渡しがあるのだ、それは当然だ、などという適当な理解によって読み過ごされてしまうところである。

ユダが出て行ったことにより、イエス様は捕えられ、十字架に追いやられることは決定的となった。そのことを、イエス様は「栄光を受ける」と表現されているのである。十字架の上で死なれ、復活なさることが栄光を受けることだ、とするならばわかりやすい。しかし、明らかにイエス様は、ご自分が捕えられ、殺されること自体を、栄光を受けることだとおっしゃっているのである。

イエス様が十字架の上で死なれ、復活することは、肉を持たれたイエス様ご自身がなさることではない。肉はすでに死んでいるので、そのようなことができるはずがない。後の箇所であるが、『ヨハネ』19章30節に、イエス様は「完了した」とおっしゃって、その息を引き取られたことが記されている。肉を持たれてこの地上に来られたイエス様がなさるべきわざは、十字架の上で死なれることまでである。そのように、神様から与えられたわざを成就することは、イエス様の栄光である。

 

栄光を受けられる神様

そしてイエス様は三日後に復活された。これは神様がなさったことである。神様は、イエス様が十字架の上で死なれる、というわざを成就されたことにより、そのイエス様を復活させるという栄光を表わされたのである。

しかし、まだ復活の時となっていないにもかかわらず、イエス様は、「神は人の子によって栄光をお受けになりました」とおっしゃっている。それは、肉体を持ったイエス様が、そのわざを成し遂げられたならば、神様の栄光は必ず表わされるということである。神様には失敗はなく、そのご計画は必ず遂行される。したがって、肉を持たれたイエス様が、そのわざを成し遂げたということは、神様がイエス様によって栄光をお受けになったことなのである。

そして続く32節でイエス様は、「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります」とおっしゃった。上に述べたように、イエス様によって、神様が栄光をお受けになったならば、それは必ず目に見える形となって現わされる。

つまり、十字架と復活は、まず、霊的次元において、イエス様と神様との間で成就され、その栄光が表わされ、続いて、この相対的次元にそれが現わされるということである。そして、「しかも、ただちにお与えになります」とあるように、それが現わされるのは、ペンテコステ以降とか、この世の終わりなどということではなく、この時点から言えば、数日後なのである。

私たちも、信仰によって行動を起こした時、まずそれは、霊的次元において受け入れられる。上で見たように、まだ十字架の時となっていないにもかかわらず、霊的次元において受け入れられることは決定されているように、霊的次元において受け入れられることは瞬時である。そこに時間のずれはない。

しかし、それが目に見える相対的次元に表わされる場合、多少の時間のずれが生じる。相対的次元は、相対的なあらゆる事柄が動かされてこそ、ある事柄が目に見える形となるのであり、当然、それぞれに時間が必要となる。ここに、信仰者が、その信仰が試される、ということがある。信仰者は、常に霊的次元において成就している事柄を、霊的目を開いて見続ける必要があるのである。